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2016年4月29日 (金)

中漠:明応軍乱編⑰明応大震災

 二三年ほど前にとある歴史シンポジウムを見に行った折の話です。シンポジウムのテーマは三河一向一揆についての話で、本稿でも題材をとらせていただいている村岡教授等の他、質疑応答では新行紀一氏や平野明夫氏等、戦国時代のこの地方の歴史を語る上では外せない面々がそろい踏みしていて大変聞きごたえのある講演でした。
 そのパネリストの一人に峰岸純夫氏がおられました。大学教授を退官されており、寒い冬の日に暖かそうなセーターを着て気さくに話をされていたのが印象に残っております。その峰岸氏の発表内容も大変勉強になったのですが、その話の中に戦国史に明応地震の影響を考えるべき、と言う指摘があったことが強く印象に残っております。そのシンポジウムは東日本大震災が起こった後のことでしたので、そういう話題もタイムリーであったことも一因かもしれません。
 本稿において、ちょうどその時代に差し掛かりましたので、一稿設けたいと思います。※

 明応地震は二度あったと言われています。1495年(明応四年)八月二十五日と1498年(明応七年)六月十一日です。いずれも大津波を伴った地震で関東東海地方に甚大な被害を及ぼしたそうです。
 とは言ってもこの明応四年の方は典拠とされた史料が鎌倉大日記のみでして、その記述にしても、津波で鎌倉大仏の大仏殿が流されたなどと書かれていたりするのですけど、この地震の日以前に鎌倉大仏を見に行った人の記録にその時点で大仏殿はなく、今と同じく鎌倉大仏は露天にさらされた状態だったなどとあり、鎌倉大日記には不整合な記述もあって、この明応四年の地震はなかったか、あったとしても明応七年地震と混同されたのではないかと言われておりました。しかし、『御湯殿の上の日記』と『後法興院記』にて同日に京都で有感地震の発生が記録されていることと、金子浩之氏の地質調査で明応七年の地震で起こった津波では起きえない場所に津波堆積物の地層が見つかったことで、この鎌倉大日記の記述が見直されつつあるとのことです。

 ちょうどその年、伊勢宗瑞は扇谷上杉氏の家臣大森藤頼が守る小田原城を攻め落としているとされているのですが、北条記などには、宗瑞が火牛の計をもって小田原城を乗っ取る。などという書かれ方をしています。火牛の計とは、牛に松明を取り付けて敵に向かって突進させるという絵面的にはとても派手な戦法ではありますが、北条記に描かれた火牛の使われ方はいわゆる見せ勢で、夜中に松明を取り付けた牛を後方に並べて実際の戦力より多いように見せかけたのでした。実際に夜中に火と大量の牛を使うのはリスクの大きい戦法であってあまりリアリティはありません。
 しかも、小田原城主の大森藤頼について、この時今川家と扇谷上杉氏は同盟関係にあって、伊勢宗瑞も先代の定正の為に援軍を出したことがあります。地震の一年後山内上杉軍が小田原城を攻めたのですが、宗瑞の弟伊勢弥二郎盛興とともに大森藤頼も小田原城を守っていたという記録があるそうです。
 前述の金子浩之氏の研究によると津波を牛に例えることがあり、これもそれではないかとのこと。すなわち、今川と扇谷上杉の同盟で津波にあった小田原城の支援を伊勢宗瑞がおこなったようです。この城は明応十年までに大森氏の内紛に乗じた伊勢宗瑞が手中に収めたので、このような話になったのではないかということらしい。

 伊勢宗瑞の小田原侵攻伝説の一年前、今川氏親は遠江に攻め込んでいます。そのさらに一年前に京では明応の政変が起こってますので、それに呼応した動きであろうと思われます。遠江は応仁の乱の時に氏親の父である義忠が塩買坂で討ち死にしていて、今川氏親にとっては因縁の地です。また、今川了俊の家系の瀬名・堀越今川氏が中遠地方で頑張っていましたのでこれと組んで征服に取り組もうとしたと思われます。この遠征軍の指揮官も伊勢宗瑞だったりするので、宗瑞は東へ西へとこき使われておりました。
 この遠州侵入に対抗する勢力としては、斯波氏の守護代甲斐敏光がいたはずなのですが、この時期の消息は不明となっております。明応三年の遠江侵入については、翌年・翌々年に伊勢宗瑞が東方へ派兵している模様なので、本格的なものではなく、今川氏が本気を出すのは文亀元年になってからです。その時の斯波側の主力となったのが守護である斯波義寛とその兄弟たちであり、この時点で遠江守護代甲斐氏の名前が消えてしまっているのですね。
 これを明応七年の地震と津波によるものと考えるのはうがちすぎでありましょうか? とりあえず、それまで代々在京で守護代をやっていた者がすでに在地の国人・土豪の秩序の中に割り込むわけですから、それは簡単なことではありませんし、甲斐敏光はそれまでずっと越前守護代奪還戦を戦った末に敗れた結果の遠江入りなのですから、守護代として国をまとめる求心力は持っていなかったと思われます。それでも何とか秩序をつくったとしても、襲ってきた地震と津波にはなすすべもなかったのではないでしょうか。

 当時の地震の凄さを示すエピソードとしては地震以前の浜名湖は陸で区切られた淡水湖で、遠淡海(とほつあはうみ)すなわち遠江国の語源となった湖でした。ちなみに近淡海(ちかつあはうみ)は琵琶湖のことで近江の語源となっています。浜名湖の湖水は浜名川を通って遠州灘に落ちていたのですが、津波によって浜名川そのものが粉砕されて浜名湖と遠州灘がつながってしまい、浜名湖は塩湖となったとのことです。
 この地震と津波被害は遠州だけではなく、東海地方全域及び、紀伊半島東岸に波及しました。今川氏親と伊勢宗瑞のいた駿河国においても、沼津、清水、焼津といったおもな港が壊滅的打撃を受けています。しかし、そうした中でも駿河国は国としての統治形態を保ってなお精強でした。それに対して周辺国は自然の猛威になすすべもなく打ちのめされていたと思われます。その一つが伊豆半島の根深城でした。ここは伊勢宗瑞の伊豆入り後も独立勢力を保っておりましたが、伊勢宗瑞は地震後に兵をここに入れて占拠します。一説によるとここには足利茶々丸が潜伏していて、堀越公方家の再興を狙っていたのですが、まさに天に見放された形で自害を強いられたらしい。
 駿河今川氏はこの地震においても勢力も保ちえたのですが、それが故に壊滅的打撃を受けた近隣諸侯に対し、救民の旗を掲げて勢力を広げる名分と義務を負うことになりました。その勢力を保ちえた理由ですが、私は安倍金山などの金鉱の存在を考えています。詳しくは折を見て別稿を立てる予定です。
 この前後遠江今川氏の一秀が駿府と清水港の中間にある瀬名に住し、瀬名を氏とします。今川了俊の子孫です。氏親の補佐の為に移住したと言うことになっていますが、時期的に遠江国が今川家傘下に入るにあたって、自身で崩壊した遠江国にいる親族への援助ともとらえることもできるかもしれません。そして、救民の視線はさらに西へと進んでゆくのでした。

※本稿を含めたブログ記事は書き溜めたものを順次公開しているのですが、本稿は熊本地震以前に書いていたものです。被災者の方にお見舞い申し上げるとともに、わが国はこういった大きな災害が頻繁に起こる場所であることを思い起こさざるを得ません。

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