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2016年4月23日 (土)

中漠:明応軍乱編⑯後北条家の宗旨報告書Ⅰ(伊勢宗瑞)

 本稿の内容はほぼ「今川家の宗旨報告書Ⅱ(今川義忠~今川氏親)」に被ります。
 今川義忠の正室は伊勢新九郎盛時の姉の北川殿でした。彼女が嫁した今川家は他家同様ごたごた続きであり、盛時は姉を助けて駿河へ下向するわけです。この北側殿輿入れの二年前に伊勢新九郎盛時の弟である賢仲繁哲が駿河国焼津(静岡県焼津市)に林叟院という曹洞宗寺院を建立しております。これは今川義忠と北側殿との婚姻が家格相応の物であり、恙ない結婚生活を送るため準備とみればよいかと思います。後に、今川義忠が急死し、義忠の従兄弟の小鹿範満がお家乗っ取りを企んだ折、焼津にある小山城の長谷川正宣を頼って嫡子龍王丸とともに逃れております。その折に弟の賢仲繁哲が近くにいたことは大変心強かったろうし、もう一人の弟盛時を呼び寄せるきっかけとなったことは想像に難くありません。
 最初は小鹿範満を陣代として認めることで妥協した北川殿も、龍王丸が成人しても陣代を返上しない範満をみて、1487年(長享元年)十一月九日、再び弟を呼び寄せてこれを滅ぼします。その功をもって伊勢新九郎盛時は今川龍王丸、元服して氏親から興国寺城を与えられ、今川家に仕えることとなりました。

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 伊勢新九郎盛時が興国寺城に入った伊豆国修善寺にある修禅寺に叔父の隆渓繁紹を入れます。修禅寺はもともとは真言宗寺院で源範頼、頼家が幽閉され殺害された場所であり、蘭渓道隆が臨済宗の禅寺に改めたのですが、その後廃れておりました。それを曹洞宗寺院として再興させたのです。但し、修禅寺のある伊豆国は今川領ではありません。堀越公方足利政知の直轄地でした。彼は足利義教の次男であり、影響の乱で鎌倉公方足利持氏が滅ぼされた後の関東を支配すべく送り込まれたのですが、地元の諸侯の支持を得られずに伊豆一国に押し込められた形になっておりました。

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 堀越公方足利政知には三人の息子がおりました。茶々丸、清晃、潤童子の三人です。茶々丸と清晃、潤童子とは母親が違っておりました。一応茶々丸が嫡男でしたので、清晃は僧籍に入れられ、潤童子もいずれはそうなるものと思われましたが、一説によると二人の母親の円満院(武者小路隆光の娘)が我が子かわいさのあまり茶々丸について讒言し、その結果茶々丸は素行不良のかどで廃嫡の上、土牢に幽閉の身となったそうです。足利政知は足利義教の次男であり、将軍になる見込みはありませんでした。しかし、彼が僧籍に入った後、兄義勝が急死し、僧籍に入る前の弟の義政がその後継となったのです。間が悪いと言えば間が悪いものです。政治の都合で持氏亡き後の関東公方に選ばれた折もそうでした。還俗させられたのは二十三歳の時です。しかし、幕府は関東公方が独立されることを恐れ、十分な兵力でサポートしなかったために、持氏の遺児の成氏が古河公方として復活してしまった結果、関東全域を支配する予定だった足利政知は伊豆一国に押し込められたのです。足利茶々丸は父政知が還俗した二十三歳の時から次男清晃が生まれた四十七歳の間に生まれた息子です。しかしながら、現代に幼名以外の名は伝わっていないのですね。茶々丸の廃嫡が決まったのが、1487年(長享元年)六月でこの時廃嫡に反対した関東執事の上杉政憲を自害させております。この時点で元服していない年齢となれば、概ね、1475年(文明七年)当たりの生まれであろうと推測できますね。
 ただ、政知は関東公方をあきらめたわけではありませんでした。清晃・潤童子の母親は武者小路隆光の娘で彼のもう一人の娘は九条政基に嫁いで聡明丸という息子がいました。聡明丸は二歳の時に細川政元の養子となっております。姻族つながりで細川政元との縁ができたのです。

 伊勢新九郎盛時が伊豆国修禅寺に叔父隆渓繁紹を入れて再興させたのはこの時期でした。多分ではありますが、伊勢新九郎は修禅寺を通して興国寺城にいながらその情報を探っていたものと思われます。修禅寺再興の翌々年、1491年(延徳三年)、堀越公方足利政知が病死します。次男の清晃(この時数え十一歳)は京の天龍寺香厳院におります。一応僧籍に入っているわけですが、この時点で細川政元は京の室町殿足利義材を見限っており、清晃を次期将軍にすべく、時期をはかっておりました。政知の突然の死は、細川政元にとって関東平定が遅れることを意味しました。但し、関東公方としての足利政知はほぼ京都の傀儡であり、その意味ではその後継に幼君が就くことは歓迎されるべきことでもありました。後継者として指名されたのは廃嫡された茶々丸ではなく、三男の潤童子でした。茶々丸はこれに反発し、挙兵して潤童子とその母親円満院を殺害し、自ら二代目堀越公方を名乗ります。もちろん、単純に私怨で弟や母親を殺害しても誰も賛同しないでしょう。廃嫡に反対した上杉正憲の意を汲む勢力が堀越御所の中にいたはずです。しかしながら、それは管領細川政元にとって受け入れられるものではありませんでした。この機に城して興国寺城の伊勢新九郎盛時は伊豆国に侵入して韮山城を抑えます。それは西伊豆の出口に蓋をして、一時的にではありますが、この政変の影響を国外に出さない効果を生みました。
 その間に管領細川政元はクーデターを仕掛け、室町殿足利義材を蹴落とし、天龍寺香厳院の清晃を還俗させて時期室町殿としました。足利十一代将軍義澄です。新将軍は母親と弟を殺害した異母兄を許しはしませんでした。その意向を受けて1493年(明応二年)十月に伊勢新九郎は堀越御所を攻め、足利茶々丸を追放します。かくして堀越公方は二代で滅亡し、細川政元による関東掌握計画は一時的に頓挫することになります。

 北川殿とともに伊勢新九郎を駿河国に呼び寄せるきっかけを作った弟の賢仲繁哲と伊勢新九郎の伊豆侵攻の先駆けとなって修禅寺に入った叔父隆渓繁紹はともに曹洞宗の僧侶であり、遠州石雲院の崇芝性岱に学んだ同門でした。彼らは同じ曹洞宗であっても今川氏が元々受け入れていた華蔵・海蔵流(道元の弟子が九州を中心に教えを広めた方)ではなく、能登国総持寺三世の峨山韶碩(三代争論で永平寺を飛び出して作られた方)より大源・恕仲の流れを汲む宗派でした。

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