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2016年5月28日 (土)

中漠:明応軍乱編㉑後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞)

 以前一休宗純の生涯をかなり詳しく、同時に邪推をもって描写を進めてきましたが、小和田哲男氏著「戦国武将を育てた禅僧たち」を材料に北条早雲、臨済宗大徳寺派宗旨説を検証してみようと思います。
 小和田氏は根拠として二つの史料をあげられております。一つは1519年(永正十六年)九月十五日 北条氏綱が伊豆韮山で無遮会を行った際、禅僧芳琳乾幢による祭文に「南浦に宗猷す」という文言があることです。この南浦とは南浦紹明を指し、南浦紹明は大徳寺を開いた宗峰妙超の師匠であることから、大徳寺に所縁ありと見なすことができます。
 さらにもう一つが、1508年(永正五年)の冬に、大徳寺七十二世住持の東渓宗牧が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えたという内容の書物「道号頌」(道号の意味・意義についての解説書)に記載されているとのことです。「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」とあるそうです。この正続大宗禅師とは、養叟宗頤の教えを継いだ春浦宗煕のことです。同書においては、伊勢新九郎と東渓宗牧はともに机を並べて春浦宗煕に学び、一人はそのまま大徳寺に居残って、住持となり、もう一人は戦国武将として活躍したさまを描写したうえで、春浦宗煕と険悪な仲であった一休宗純は自著『狂雲集』の中で、「逆行の沙門三尺の剣、禅録を見ずして軍書を読む」と春浦宗煕を批判しているのですが、この僧堂で軍書ばかり読んでいる沙門の筆頭として伊勢宗瑞を小和田氏の著作の中であげられております。

 伊勢新九郎(宗瑞)の生誕年代には二説あります。一つは1432年(永享四年)説で、もう一つは1456年(康正二年)説です。ちなみにネットで調べたところ、小和田氏はどうやら1432年(永享四年)説をとられているようです。とりあえず、どちらの説も矛盾を含んでいて、例えば1432年(永享四年)説だと、今川義忠に嫁いだ時点の伊勢新九郎の姉、北川殿の年齢が高すぎはしないかという話になります。なにしろ、北川殿が今川家に嫁いだ1467年(応仁元年)時点で伊勢新九郎は齢三十六です。この時代の女性であれば、婚期を逃していると言わざるを得ません。なので、1432年(永享四年)説をとる場合には、北川殿は伊勢新九郎の年の離れた妹ということになっております。逆に、1456年(康正二年)説の場合、伊勢新九郎の足利義視に仕えた時期が微妙になるのです。伊勢一族は応仁の乱においては基本的に東軍についているのですが、足利義視は応仁元年八月に京を逃げ出し、応仁二年十一月には西軍に走っております。応仁二年十一月の時点で伊勢宗瑞は数え十二歳。元服をするかしないかの時期なのですね。
 春浦宗煕が大徳寺の住持を務めていた時期は平均一~二年で住持交替が行われていたこの時期には珍しく、1453年(享徳二年)から1462年(寛正三年)までの九年間となります。この期間を1432年(永享四年)説に当てはめれば、数え二十二歳から三十一歳の期間になります。一応軍書を読んでいてもさまになるかもしれません。ちなみに、小和田氏が机を並べたと書いている東渓宗牧の年齢に当てはめると、数え一歳から九歳ということになり、この時代であれば親子ほど年の離れた同窓ということになってしまいますね。東渓宗牧は春浦宗煕とは年齢差があるので、直接印可を受けたわけではなく、春浦宗煕から印可を受けた弟子である實傳宗眞を経由して印可をもらっているので、直接の弟子とも言いづらいところはあります。念のため、1456年(康正二年)説をとった場合は伊勢新九郎数え一歳から七歳となりますね。伊勢宗瑞と東渓宗牧の年齢差は無くなって同窓っぽくはなりますが、大徳寺は幼児・児童教育もやっていたのかという話になってしまいます。アニメの一休さんなんかを見れば、それもありなのかという気にもなりますが、軍書を読む七歳児を想起するならば一休ならずとも慨嘆したくなりますね。(冗談です)

 春浦宗煕が大徳寺住持を退くと、代わって入ってくるのが関山派の雪江宗深でしたので春浦宗煕は大徳寺を出て洛東に大蔭菴という庵を開いてそこに住します。禅僧芳琳乾幢による祭文や「道号頌」には「南浦に宗猷す」とか、「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」としか書いておらず、大徳寺で学んだとは書かれておりません。応仁の乱中は大徳寺は焼失しており、春浦宗煕が大徳寺に帰ってくるのは大徳寺を復興させた一休宗純の死後、1482年(文明十四年)に大徳寺寺域内に塔頭松源院を建立した時となります。狂雲集は応仁期にはすでに存在されていたらしいのですが、著作の中に1471年(文明三年)に囲った森女の話ものっておりますので、死没まで書き足ししていたのでしょう。伊勢新九郎と東渓宗牧が同窓でかつ、兵書を読む沙門の代表が伊勢新九郎であるとすれば、その場所は大徳寺ではなく、洛東大蔭菴ということになるのではないか、と思います。
 とはいえ、「机を並べ」や「兵書を読む新九郎を狂雲集で一休が批判」とあるのは古文書の上に現れている話ではありませんので、理解を促すための小和田氏のレトリックであると考えればよいかと思います。
 いずれにせよ、伊勢新九郎盛時は春浦宗煕に学問を学びましたがそれは必ずしも、禅のみではなく、兵学も併せて学んでいただろうし、それは必ずしも出家を目的としたものではありませんでした。

 1487年(長享元年)に伊勢新九郎盛時は姉の北川殿の要請に応え、今川家陣代小鹿範満を討つために駿河へ下向します。そしてその功をもって東駿河の興国寺城を与えられ、以後東海地方が彼の活躍の場となります。彼が兵書ではなく、仏道に目覚め自らを早雲庵宗瑞と名乗るのは1495年(明応四年)になってから、伊豆国韮山においてです。その翌年に学んだ師である春浦宗煕が遠く離れた京で示寂しましたが、この一両年中に二人が接触した形跡はありません。

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2016年5月21日 (土)

中漠:明応軍乱編⑳東海道打通作戦Ⅱ

 細川政元の死は様々な影響を及ぼします。まずは細川政元の死を契機に畠山尚順が河内に舞い戻ります。これに対して故赤澤宗益の養子であった赤澤長経を派遣しました。これには古市澄胤も付きそっております。おそらくはその他にもいくつかの手を打っているとは思うのですが、八月二日に細川京兆家を継いだ細川澄元にできたことはこのあたりが限界でした。周防から東上してくる足利義尹(義材)、大内義興の進軍を止める力はありませんでした。和解の道を探るべく細川高国が交渉役として義尹とコンタクトをとりますが、逆に籠絡されて伊賀に出奔する始末です。この細川高国は機を見るに敏と言うか、薬師寺万徳丸が薬師寺長忠を倒したタイミングで香西元長を倒し、そのまま三好元長と合流して細川澄之党を滅ぼしてしまいます。この時も伊賀に逼塞しながら丹波衆とコンタクトをとり、京を北西と南東から挟み撃ちにする形勢をとりました。この時点で細川澄元は十九歳です。彼本人に統治能力はあまり期待できませんのでいかに三好之長が嫌われていたかという証左でもあるでしょう。1508年(永正五年)四月、細川澄元は高国に攻められて足利義澄とともに京を脱出して近江に逃れます。

 今川氏親と伊勢宗瑞はこの流動的な京の情勢に対し、指をくわえてみているほかはありませんでした。彼らは基本的に細川政元の意を受けて動いていたわけですが、ここにきて澄元の統治能力に疑問符がつき、足踏みをせざるを得ませんでした。三河国への打通について、永正三年時点で西三河の明眼寺に禁制が出されている所から想像するに、翌年には再出兵して三河国を掌握し、伊勢宗瑞を守護代として、伊勢宗家の貞宗か、貞陸あたりを在京の守護とする体制が想定されていたものと想像します。伊勢宗瑞としては、京の詳しい情勢を宗家とは別ルートで入手する必要に迫られました。私はそれが大徳寺ではなかったかという仮説を立てております。大徳寺は関山派に乗っ取られたことで細川家との関係が深く、宗瑞はかつて大徳寺の春浦宗熈に学んだ経験があり、この年の冬に大徳寺住持の東渓宗牧から天岳という道号をもらっているからです。詳しくは次稿に記します。
 ところが三河国の方で事態が動きます。1508年(永正五年)六月十九日に戸田宗光が亡くなったのでした。これは状況が落ち着くまで現状を維持したかった今川氏親にとって捨て置けないことでした。この時、戸田宗光は二連木を領しておりましたが、その維持には宗光の個人的な力量と今川との関係に大きく依存していたからです。
 この時までに足利義尹(義材)は上洛を果たしておりました。伊勢宗家の貞宗・貞陸親子は足利義澄とともに近江に落ちることはせず、在京して義尹を迎え入れます。河内国では赤澤宗益の養子の長経が古市澄胤と一緒に高屋城を攻めておりましたが、置き去りの形となって敗北。古市澄胤はあえない最期を遂げることとなります。
 足利義尹は今川氏親に遠江守護の座を与えますが、氏親はすでに実力で遠江を手にしており、追認という形です。これは従来説で言われているような今川氏親が足利義尹に従いその意を汲んで三河に侵攻したということではなく、遠江守護を認めることの引き換えに静謐を保てという命令ではなかったかと私は解釈しております。

 今川氏親は静謐を保つことではなく、打通作戦を貫徹することを選択しました。足利義尹が上洛を果たしたと言っても、隣国近江には足利義澄と細川澄元・三好之長が健在です。逆転の目はまだまだありました。三河に入った伊勢宗瑞は戸田憲光(宗光の息子)をはじめとする東三河国人衆を糾合して西三河に攻め込みます。目標は西三河に勢力を持つもう一人の伊勢氏被官岩津松平氏でした。三河物語では安城松平家の松平長親の活躍ばかりを描いていていま一つ目立っていないのですが、長親は長忠と名乗り大樹寺にいて岩津松平家を支える分家に過ぎません。詳しいことはわかっておりませんが、永正三年時点で西三河にある明眼寺に今川氏親から禁制が出されていたことからわかる通り、伊勢貞親の被官であった松平信光直系の岩津松平家はこの時、伊勢宗瑞に従うよう誘いを受けていたものと思われます。岩津松平家はこれを拒絶した模様です。理由を考えるに、明応震災の影響は東三河と違って西三河では比較的軽微であり、東から来た勢力の傘下に入ってしまえば種々の援助・便宜提供を強要されるからと考えたのかもしれません。両軍は岩津と井田野で激突しました。結果として以後岩津松平家は松平氏の歴史にほぼ出てこなくなり、松平長親の属する安城松平氏が松平宗家を自認するようになります。岩津松平家はこの戦いで回復不能なダメージを負ったものと考えられます。井田野合戦は松平長親は小勢ながら善戦したものの、決着がつかないまま夜戦に入り兵の疲労から矢作川対岸に引き揚げました。この善戦の戦果は京にも伝わったようで、三条西実隆は伝聞として「駿河伊豆敗軍事」と伝えております。実際は三河物語に書かれているように松平側がたくさんの敵を倒したことを誇っても、実質戦場に残った今川軍の勝ちと言って良いでしょう。

 但し、岩津松平を成敗した今川軍が井田野合戦に勝利したとしても、先の戦略を描くことができなくなっていました。と言うのは京においては細川高国が管領職につき、伊勢貞陸が引き続き政所執事を務めることが決定していたからです。伊勢宗瑞の三河入りは三河国の守護代や国主になることで京の意志を東海地方に反映させることが目的となっていたと考えられます。しかし、宗家が足利義尹方についたことによって三河統治のあり方が難しくなってゆきます。元々戸田や松平は伊勢宗家の被官であり、今川とは何の縁もありません。そこに今川氏親が細川政元・澄元の意を介して伊勢宗瑞に三河を任せるという形であればことは進めやすかったはずです。しかし、政元が敵対した足利義尹に伊勢氏が従い、政元の戦略を受け継ぐ澄元と対立する状況の中で伊勢宗瑞が三河国主になってしまえば、常に今川氏親からの疑念のまなざしを送られることとなります。すでに味方の戸田憲光からは「駿河に頼んでいては京への上り下りも難しいから手を切れ」という言葉が発せられていたと三河物語に記されています。おそらくは大徳寺のもたらした情報はこのまま三河の国主に収まることは危険ということではなかったでしょうか。

 伊勢宗瑞は伊豆韮山に戻り、以後は三河に係らなくなりました。戦後処理として戸田宗光の菩提を弔う為に全久院を滅ぼされた牧野古白の為に龍拈寺という菩提寺をそれぞれの子息が立てました。その宗旨は宗瑞の弟である賢仲繁哲が宗旨とする曹洞宗の法脈にありました。今川家は伊勢宗瑞と言うエース級の人物を三河統治に回さなかったものの、自らが宗旨とするものと同じ法脈の曹洞宗の寺を東三河に建立することで東三河の国人衆との関係を保とうとしたのだと思います。

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2016年5月14日 (土)

中漠:明応軍乱編⑲永正の錯乱

 いよいよ、細川政元の晩年を描写させていただきます。明応政変後の細川政元は畿内諸侯の大半を敵に回して戦っていたわけですが、その中でも若狭の武田元信と丹後の一色義有は例外的に政元の味方をしていました。しかし、一色義有の方は若年であったが為に地元の国人勢力の抑えが効かないという統治能力に問題がありました。そこで丹後も武田元信に収めさせようと細川政元は一色義有を罷免したところ、細川政元に反旗を翻したので細川政元は細川澄之と赤澤宗益を連れて武田元信とともに丹後遠征を行います。
 丹後側は一色義有が守る今熊野城と石川直経が守る加悦城を拠点に防御します。今熊野には赤澤宗益と武田元信を、加悦には細川澄之をあてて攻め立てさせますが、なかなか抜くことができません。その内、細川政元は京に戻ってしまいました。丹後側は籠城に入ってしまったので後は部下に任せたというところでしょうか。そしてそれから間もなく、加悦城を攻めていた細川澄之も石川直経と和議を結んだとして兵を引いてしまいました。そもそも一色義有が守護を罷免された理由が石川直経ら国人勢力を抑えきれずにいた為でしたので、一色義有と石川直経との関係は必ずしもしっくりいっていなかったらしい。しかし、それがトラップでした。

 細川政元の命を奪う陰謀が進んでおりました。黒幕は香西元長と薬師寺長忠の二人です。ともに山城と摂津の守護代を務めていました。薬師寺長忠は先に謀反を起こして処罰された薬師寺元一の弟でもありました。彼らが主君を裏切る理由はただ一つ。細川政元の後継者は細川澄元では困るということにありました。香西も薬師寺も細川政元の内衆として仕え、権力を手にしておりました。当初の後継者は九条家出身の聡明丸(後の澄之)と定められ、それを前提に摂津・丹波国人衆は聡明丸との関係を深めておりました。波々伯部五郎元教の父である盛郷は聡明丸の守り役を務めておりますが、波々伯部家も丹波国人の一人です。
 細川政元が後継者を挿げ替えたのは、ひとえに分家である阿波細川家の助力を得る為でした。京兆家の内衆は頑張って主君の為に戦っておりましたが、戦況必ずしも優位でもなく、クーデター後の政権構想は必ずしもうまくいっていませんでした。彼の政権構想を実現する為には何を置いても武力が必要になります。
 しかし、手持ちの内衆はさほどの力に放っておらず、ヘッドハントした赤澤宗益がチートな戦働きをするものの、統治能力を決定的に欠いておりました。そこで阿波細川家から六郎(澄元)を養子にとって、聡明丸(澄之)を廃嫡することによって阿波細川家の強力な戦力を手に入れました。具体的には三好之長です。彼と赤澤宗益がタッグを組むと赤澤宗益が手を焼いていた大和国をあっという間に制圧し、河内国に蟠踞していた畠山尚順を義英ごと追い払うことに成功してしまいました。
 丹後介入もまた、大和・河内両国の制圧によって余裕ができた為の仕儀であり、それを可能にした阿波細川六郎とそれを支える三好之長の存在感は細川家中で猛烈に上がりました。このままゆけば、細川六郎が政元を継ぎ、彼は幼君である為それを補佐する三好之長が細川家中の実権を握ることになります。そうなれば、代々京兆家に仕えてきた内衆たちの扱いは軽んぜられるに違いありません。そして応仁の乱時に三好之長が京で土一揆を扇動し、土蔵・酒屋を襲って阿鼻叫喚の巷に叩き落としたことを誰もが覚えておりました。細川京兆家内衆たちは三好之長を上座に迎えた未来を想像することはできませんでした。そして、思考は一気に飛びます。澄元に代えて澄之を後継に戻せないかということを。それを決めたのは彼らの主君である細川政元でした。阿波細川家の助力を得られて自体は細川政元が書いた絵図通りに動いていますので、主君に澄之の再起用を求めても首を縦に振るとは思えません。このまま座して待てば、京兆家内衆の方が三好之長に粛清されかねません。追い詰められた彼らは細川澄之を奉じてクーデターを起こし、主君政元を暗殺して澄元と三好之長を京から駆逐する計画を立てました。細川澄之の丹後撤退もそのシナリオの一つです。しかし丹後・摂津の内衆は細川政元のもとにいるからその立場にいられるのであり、結果から見れば実に愚かなことでした。
 永正四年六月二十三日、翌日の愛宕詣を控えて潔斎精進の為に細川政元は湯殿に入ったところを戸倉某(別説では竹田孫七)に斬り殺されます。その場には側近の波々伯部源次郎(五郎元教の一族)が居合わせて深手を負わされます。そして、その翌日二十四日に香西元長と薬師寺長忠が軍を起こして細川澄元の陣に攻めかかりました。この戦いに巻き込まれて波々伯部五郎元教が戦死したとも伝えられています。生存して大物崩れまで生きていたという話もありますが、少なくともこの永正の錯乱事件には関わらなくなります。細川澄元は一旦近江に落ち延びます。そして、その翌日、丹後で主君の死を知った赤澤宗益が兵をまとめて帰洛しようとしたところを丹後守護代石川直経に襲撃されて戦死しました。赤澤宗益は戦場ではチートでしたが、その強さの多くを細川政元に依存していたということでありましょう。もちろん、石川直経は細川澄之派の香西・薬師寺と通じていたことは言うまでもありません。

 香西・薬師寺は一応の戦果を得ました。澄之を立てて澄元を京から追い出し、細川京兆家内衆による政権を樹立したのです。しかし、この政権は決定的に大義名分を欠いておりました。反乱に加わらなかった京兆家内衆と澄元派が手を組んだのです。反撃は七月二十八日に始まります。薬師寺万徳丸(元一の子、長忠の甥)が長忠の居城茨木城を攻め落とし、翌日細川高国が香西元長の居城嵐山城を攻め落とします。そして翌八月朔日に三好之長が細川高国と共に細川澄之に止めを刺しました。細川澄之はただ利用されただけだったと思われますだけに哀れです。彼に殉じて波々伯部宗寅(五郎元教の父であり澄之の守り役)が自刃し、澄之派は壊滅しました。 
 しかし、事態はこれですまないのが戦国時代の戦国時代たるゆえんです。細川政元が暗殺された今が好機とばかりに、周防に亡命中の足利義尹(義材)が大内義興をたきつけて上洛戦を開始したのでした。

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2016年5月 7日 (土)

中漠:明応軍乱編⑱東海道打通作戦Ⅰ

 本稿のタイトルに使った『打通作戦』というのは日中戦争末期(と言うか、太平洋戦争…いや、大東亜戦争末期と言った方が良いかもしれない。別にアジア・太平洋戦争でもいいのですが、それだとこの作戦の意義は過小評価されるような気もしますので。)に、大日本帝国陸軍が華北から華南に向けて大兵力を一気に通貫させた戦いです。帝国陸軍はこの作戦を完遂させ、これによって国民党率いる中華民国軍に大打撃を与えました。但し、この戦いの勝利は対米戦を含んだ大局を覆すには至らず、大日本帝国は結局敗北します。

 今川氏親が伊勢宗瑞を使って駿河衆を西上させた意図を考えるに、この打通作戦の様相が参考になるような気がします。明応大地震とそれに伴う津波によって駿河国にある沼津、焼津、清水の三湊は壊滅し、京と駿河を結ぶ要路は陸路のみになってしまいますが、細川政元の意を奉じて小鹿範満や足利茶々丸を討った関係上、通信が途絶えることは死命を制せられることになります。正面の遠江には斯波氏がおりましたが、これを討ち破っても、そして上洛中の足利義尹から遠江守護の座を与えられてもなお侵攻の勢いを止めなかったのは、浜名湖の壊滅が示す通り、遠江国の湊もまた使い物にならなかったためではないかと私は考えてみました。
 前述の峰岸氏の話によると明応地震による津波の影響は、三河国においては近隣国よりも小さかったとしています。その理由として、三河湾を形成する渥美半島と知多半島が津波を防いだために、湾内の港に入るころには波も比較的小さくなっていたそうです。今川氏親はこの戦いの早い段階で西三河の明眼寺に禁制を与えております。当時は敵地での略奪は日常茶飯事でした。禁制とは侵略軍が後々その近辺を占領しても、禁制のある場所は自分達の味方であるから略奪をしてはいけないということを示す文書です。即ち、侵略に備えた保険であり、それが発給される場所は侵略の予定地とも言えるわけですね。氏親としては使える港がある西三河まで到達することが出来れば、そこから京へ至るの海路を確保できると考えたのではないでしょうか。

 その途上にある渥美半島を領していたのは戸田宗光(全久)でした。戸田宗光は松平信光と同じく伊勢貞親の被官であり、応仁の乱においては西軍方についた渥美郡分国守護の一色義直を追い出して渥美半島を手に入れました。1493年(明応二年)には、現在の豊橋市に流れる朝倉川沿いに二連木城という城を建ててそこに自らが入って拠点としました。そこに襲ってきたのが津波です。三河湾内の港湾施設は外洋に面した他国の港よりも被害は小さかったとはいえ、渥美半島の外海側と内海側の両側を津波が襲って戸田宗光も往生したもようです。

 その間隙をついて牛窪にある一色城の牧野古白が今橋に進出、城を建てます。その城は二連木城の目と鼻の先にありました。しかも三河湾側に寄った位置にあります。これが意味する所は、東三河の海運利権を戸田氏から根こそぎ奪うことであり、今橋を付城として戸田氏の拠点である二連木を攻め落とすという意思表示でもあったと思われます。この時点で明応地震より七年の時間が経過しておりましたが、港湾インフラの再整備にはそれなりの時間が必要であったと思われます。もとより三河国は特殊な事情があり、一国の守護が国のすべてに権力を行使できるようには出来ていません。というのは、守護である阿波細川氏の支配圏の他に三河国が一部足利一門衆の本貫地であり、吉良家という将軍家御一家衆の領地や政所執事伊勢氏が管理する室町殿の直轄領があったりする上に足利義教の暴政によって粛清された前守護一色氏の残党勢力圏があったりして、平時ですら割拠状態でした。応仁の乱においては、東軍方についた伊勢氏被官の松平氏と戸田氏が躍進して西三河一帯から渥美半島まで勢力を伸ばしてゆきます。本来の守護である阿波細川成之はこの地の支配が機能していない状況でした。

 二連木を攻めた牧野氏は応仁の乱においては西軍方の一色家につき、戸田氏は東軍方の細川家に従って戦いました。応仁の乱の終結に当たり三河国から一色家の影響力は排除されましたが、牧野古白はその西軍方の生き残りでもあります。戸田全久としては救援を必要とする状況でした。その救援先として考えられるのは今川しかありませんでした。彼は元々伊勢貞親の被官であり、今川家には伊勢一族の宗瑞がおりました。ここに今川家が三河に介入できる大義名分が生じたわけです。1506年(永正三年)七月、今川氏親率いる今川軍は三河国に侵入し、今橋城を囲みます。九月十日には今橋城の外郭を占拠するのですが、落城に至ったのは十一月四日と四ヶ月かかっています。この日、牧野古白は戦死しました。そして同じ月の七日には駿河に戻って遠江国の巨海越中守宛に伊勢宗瑞が参陣の感謝状を贈っています。
 この段階で今川としてはこの前段階の遠州征服戦や津波の影響もあり、戦略目標を戸田氏勢力圏からの侵入者排除に絞っていたようです。戸田宗光としては秩序の回復者でした。さらには、国主なき三河国の国主となり得る者として今川氏親や伊勢宗瑞を見るようになったのではないでしょうか。もとより戸田宗光は伊勢家の被官であり、阿波細川家との主従関係はありませんし、細川成之は三河国に対する守護としての役割を放棄しているようにも見えました。応仁の乱と地震・津波で混乱する三河国にとって国をまとめあげる指導者が必要なのは確かでした。

 今川軍が今橋城を囲んだまさにちょうどその時、加賀の門徒衆が越前国の九頭竜川と越中国の般若野に攻め込んで猛威を振るっておりました。伊勢宗瑞の次の目標は西三河と言うことになるのですが、そこは本願寺教団の盛んな土地でありました。そこで伊勢宗瑞は自分が任されている伊豆と相模に真宗の禁止令を出しています。とは言えその頃の東国は本願寺教団よりも高田派の勢力の方が強く、門徒衆が両国に襲い掛かる恐れはほとんどありません。むしろ、今橋落城の直後に浄土真宗高田派に属する三河国桑子明眼寺宛に禁制を発行している所を見るに、対象は本願寺教団限定で高田派を取り込む動きだったのではないかと思われます。実際両国においてその実効性はほとんどありませんでした。
 しかし、後々になって政情が変わり天文年間になってこの禁教令は先例として扱われ、伊勢宗瑞の支配する関東から真宗勢力が締め出されるようになってゆきますが、それはまた別の話。

 牧野古白を討って、駿河に還った今川氏親と伊勢宗瑞は驚くべき報せを受けることになります。幕府管領細川政元の暗殺でした。

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