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2016年5月14日 (土)

中漠:明応軍乱編⑲永正の錯乱

 いよいよ、細川政元の晩年を描写させていただきます。明応政変後の細川政元は畿内諸侯の大半を敵に回して戦っていたわけですが、その中でも若狭の武田元信と丹後の一色義有は例外的に政元の味方をしていました。しかし、一色義有の方は若年であったが為に地元の国人勢力の抑えが効かないという統治能力に問題がありました。そこで丹後も武田元信に収めさせようと細川政元は一色義有を罷免したところ、細川政元に反旗を翻したので細川政元は細川澄之と赤澤宗益を連れて武田元信とともに丹後遠征を行います。
 丹後側は一色義有が守る今熊野城と石川直経が守る加悦城を拠点に防御します。今熊野には赤澤宗益と武田元信を、加悦には細川澄之をあてて攻め立てさせますが、なかなか抜くことができません。その内、細川政元は京に戻ってしまいました。丹後側は籠城に入ってしまったので後は部下に任せたというところでしょうか。そしてそれから間もなく、加悦城を攻めていた細川澄之も石川直経と和議を結んだとして兵を引いてしまいました。そもそも一色義有が守護を罷免された理由が石川直経ら国人勢力を抑えきれずにいた為でしたので、一色義有と石川直経との関係は必ずしもしっくりいっていなかったらしい。しかし、それがトラップでした。

 細川政元の命を奪う陰謀が進んでおりました。黒幕は香西元長と薬師寺長忠の二人です。ともに山城と摂津の守護代を務めていました。薬師寺長忠は先に謀反を起こして処罰された薬師寺元一の弟でもありました。彼らが主君を裏切る理由はただ一つ。細川政元の後継者は細川澄元では困るということにありました。香西も薬師寺も細川政元の内衆として仕え、権力を手にしておりました。当初の後継者は九条家出身の聡明丸(後の澄之)と定められ、それを前提に摂津・丹波国人衆は聡明丸との関係を深めておりました。波々伯部五郎元教の父である盛郷は聡明丸の守り役を務めておりますが、波々伯部家も丹波国人の一人です。
 細川政元が後継者を挿げ替えたのは、ひとえに分家である阿波細川家の助力を得る為でした。京兆家の内衆は頑張って主君の為に戦っておりましたが、戦況必ずしも優位でもなく、クーデター後の政権構想は必ずしもうまくいっていませんでした。彼の政権構想を実現する為には何を置いても武力が必要になります。
 しかし、手持ちの内衆はさほどの力に放っておらず、ヘッドハントした赤澤宗益がチートな戦働きをするものの、統治能力を決定的に欠いておりました。そこで阿波細川家から六郎(澄元)を養子にとって、聡明丸(澄之)を廃嫡することによって阿波細川家の強力な戦力を手に入れました。具体的には三好之長です。彼と赤澤宗益がタッグを組むと赤澤宗益が手を焼いていた大和国をあっという間に制圧し、河内国に蟠踞していた畠山尚順を義英ごと追い払うことに成功してしまいました。
 丹後介入もまた、大和・河内両国の制圧によって余裕ができた為の仕儀であり、それを可能にした阿波細川六郎とそれを支える三好之長の存在感は細川家中で猛烈に上がりました。このままゆけば、細川六郎が政元を継ぎ、彼は幼君である為それを補佐する三好之長が細川家中の実権を握ることになります。そうなれば、代々京兆家に仕えてきた内衆たちの扱いは軽んぜられるに違いありません。そして応仁の乱時に三好之長が京で土一揆を扇動し、土蔵・酒屋を襲って阿鼻叫喚の巷に叩き落としたことを誰もが覚えておりました。細川京兆家内衆たちは三好之長を上座に迎えた未来を想像することはできませんでした。そして、思考は一気に飛びます。澄元に代えて澄之を後継に戻せないかということを。それを決めたのは彼らの主君である細川政元でした。阿波細川家の助力を得られて自体は細川政元が書いた絵図通りに動いていますので、主君に澄之の再起用を求めても首を縦に振るとは思えません。このまま座して待てば、京兆家内衆の方が三好之長に粛清されかねません。追い詰められた彼らは細川澄之を奉じてクーデターを起こし、主君政元を暗殺して澄元と三好之長を京から駆逐する計画を立てました。細川澄之の丹後撤退もそのシナリオの一つです。しかし丹後・摂津の内衆は細川政元のもとにいるからその立場にいられるのであり、結果から見れば実に愚かなことでした。
 永正四年六月二十三日、翌日の愛宕詣を控えて潔斎精進の為に細川政元は湯殿に入ったところを戸倉某(別説では竹田孫七)に斬り殺されます。その場には側近の波々伯部源次郎(五郎元教の一族)が居合わせて深手を負わされます。そして、その翌日二十四日に香西元長と薬師寺長忠が軍を起こして細川澄元の陣に攻めかかりました。この戦いに巻き込まれて波々伯部五郎元教が戦死したとも伝えられています。生存して大物崩れまで生きていたという話もありますが、少なくともこの永正の錯乱事件には関わらなくなります。細川澄元は一旦近江に落ち延びます。そして、その翌日、丹後で主君の死を知った赤澤宗益が兵をまとめて帰洛しようとしたところを丹後守護代石川直経に襲撃されて戦死しました。赤澤宗益は戦場ではチートでしたが、その強さの多くを細川政元に依存していたということでありましょう。もちろん、石川直経は細川澄之派の香西・薬師寺と通じていたことは言うまでもありません。

 香西・薬師寺は一応の戦果を得ました。澄之を立てて澄元を京から追い出し、細川京兆家内衆による政権を樹立したのです。しかし、この政権は決定的に大義名分を欠いておりました。反乱に加わらなかった京兆家内衆と澄元派が手を組んだのです。反撃は七月二十八日に始まります。薬師寺万徳丸(元一の子、長忠の甥)が長忠の居城茨木城を攻め落とし、翌日細川高国が香西元長の居城嵐山城を攻め落とします。そして翌八月朔日に三好之長が細川高国と共に細川澄之に止めを刺しました。細川澄之はただ利用されただけだったと思われますだけに哀れです。彼に殉じて波々伯部宗寅(五郎元教の父であり澄之の守り役)が自刃し、澄之派は壊滅しました。 
 しかし、事態はこれですまないのが戦国時代の戦国時代たるゆえんです。細川政元が暗殺された今が好機とばかりに、周防に亡命中の足利義尹(義材)が大内義興をたきつけて上洛戦を開始したのでした。

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