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2016年5月21日 (土)

中漠:明応軍乱編⑳東海道打通作戦Ⅱ

 細川政元の死は様々な影響を及ぼします。まずは細川政元の死を契機に畠山尚順が河内に舞い戻ります。これに対して故赤澤宗益の養子であった赤澤長経を派遣しました。これには古市澄胤も付きそっております。おそらくはその他にもいくつかの手を打っているとは思うのですが、八月二日に細川京兆家を継いだ細川澄元にできたことはこのあたりが限界でした。周防から東上してくる足利義尹(義材)、大内義興の進軍を止める力はありませんでした。和解の道を探るべく細川高国が交渉役として義尹とコンタクトをとりますが、逆に籠絡されて伊賀に出奔する始末です。この細川高国は機を見るに敏と言うか、薬師寺万徳丸が薬師寺長忠を倒したタイミングで香西元長を倒し、そのまま三好元長と合流して細川澄之党を滅ぼしてしまいます。この時も伊賀に逼塞しながら丹波衆とコンタクトをとり、京を北西と南東から挟み撃ちにする形勢をとりました。この時点で細川澄元は十九歳です。彼本人に統治能力はあまり期待できませんのでいかに三好之長が嫌われていたかという証左でもあるでしょう。1508年(永正五年)四月、細川澄元は高国に攻められて足利義澄とともに京を脱出して近江に逃れます。

 今川氏親と伊勢宗瑞はこの流動的な京の情勢に対し、指をくわえてみているほかはありませんでした。彼らは基本的に細川政元の意を受けて動いていたわけですが、ここにきて澄元の統治能力に疑問符がつき、足踏みをせざるを得ませんでした。三河国への打通について、永正三年時点で西三河の明眼寺に禁制が出されている所から想像するに、翌年には再出兵して三河国を掌握し、伊勢宗瑞を守護代として、伊勢宗家の貞宗か、貞陸あたりを在京の守護とする体制が想定されていたものと想像します。伊勢宗瑞としては、京の詳しい情勢を宗家とは別ルートで入手する必要に迫られました。私はそれが大徳寺ではなかったかという仮説を立てております。大徳寺は関山派に乗っ取られたことで細川家との関係が深く、宗瑞はかつて大徳寺の春浦宗熈に学んだ経験があり、この年の冬に大徳寺住持の東渓宗牧から天岳という道号をもらっているからです。詳しくは次稿に記します。
 ところが三河国の方で事態が動きます。1508年(永正五年)六月十九日に戸田宗光が亡くなったのでした。これは状況が落ち着くまで現状を維持したかった今川氏親にとって捨て置けないことでした。この時、戸田宗光は二連木を領しておりましたが、その維持には宗光の個人的な力量と今川との関係に大きく依存していたからです。
 この時までに足利義尹(義材)は上洛を果たしておりました。伊勢宗家の貞宗・貞陸親子は足利義澄とともに近江に落ちることはせず、在京して義尹を迎え入れます。河内国では赤澤宗益の養子の長経が古市澄胤と一緒に高屋城を攻めておりましたが、置き去りの形となって敗北。古市澄胤はあえない最期を遂げることとなります。
 足利義尹は今川氏親に遠江守護の座を与えますが、氏親はすでに実力で遠江を手にしており、追認という形です。これは従来説で言われているような今川氏親が足利義尹に従いその意を汲んで三河に侵攻したということではなく、遠江守護を認めることの引き換えに静謐を保てという命令ではなかったかと私は解釈しております。

 今川氏親は静謐を保つことではなく、打通作戦を貫徹することを選択しました。足利義尹が上洛を果たしたと言っても、隣国近江には足利義澄と細川澄元・三好之長が健在です。逆転の目はまだまだありました。三河に入った伊勢宗瑞は戸田憲光(宗光の息子)をはじめとする東三河国人衆を糾合して西三河に攻め込みます。目標は西三河に勢力を持つもう一人の伊勢氏被官岩津松平氏でした。三河物語では安城松平家の松平長親の活躍ばかりを描いていていま一つ目立っていないのですが、長親は長忠と名乗り大樹寺にいて岩津松平家を支える分家に過ぎません。詳しいことはわかっておりませんが、永正三年時点で西三河にある明眼寺に今川氏親から禁制が出されていたことからわかる通り、伊勢貞親の被官であった松平信光直系の岩津松平家はこの時、伊勢宗瑞に従うよう誘いを受けていたものと思われます。岩津松平家はこれを拒絶した模様です。理由を考えるに、明応震災の影響は東三河と違って西三河では比較的軽微であり、東から来た勢力の傘下に入ってしまえば種々の援助・便宜提供を強要されるからと考えたのかもしれません。両軍は岩津と井田野で激突しました。結果として以後岩津松平家は松平氏の歴史にほぼ出てこなくなり、松平長親の属する安城松平氏が松平宗家を自認するようになります。岩津松平家はこの戦いで回復不能なダメージを負ったものと考えられます。井田野合戦は松平長親は小勢ながら善戦したものの、決着がつかないまま夜戦に入り兵の疲労から矢作川対岸に引き揚げました。この善戦の戦果は京にも伝わったようで、三条西実隆は伝聞として「駿河伊豆敗軍事」と伝えております。実際は三河物語に書かれているように松平側がたくさんの敵を倒したことを誇っても、実質戦場に残った今川軍の勝ちと言って良いでしょう。

 但し、岩津松平を成敗した今川軍が井田野合戦に勝利したとしても、先の戦略を描くことができなくなっていました。と言うのは京においては細川高国が管領職につき、伊勢貞陸が引き続き政所執事を務めることが決定していたからです。伊勢宗瑞の三河入りは三河国の守護代や国主になることで京の意志を東海地方に反映させることが目的となっていたと考えられます。しかし、宗家が足利義尹方についたことによって三河統治のあり方が難しくなってゆきます。元々戸田や松平は伊勢宗家の被官であり、今川とは何の縁もありません。そこに今川氏親が細川政元・澄元の意を介して伊勢宗瑞に三河を任せるという形であればことは進めやすかったはずです。しかし、政元が敵対した足利義尹に伊勢氏が従い、政元の戦略を受け継ぐ澄元と対立する状況の中で伊勢宗瑞が三河国主になってしまえば、常に今川氏親からの疑念のまなざしを送られることとなります。すでに味方の戸田憲光からは「駿河に頼んでいては京への上り下りも難しいから手を切れ」という言葉が発せられていたと三河物語に記されています。おそらくは大徳寺のもたらした情報はこのまま三河の国主に収まることは危険ということではなかったでしょうか。

 伊勢宗瑞は伊豆韮山に戻り、以後は三河に係らなくなりました。戦後処理として戸田宗光の菩提を弔う為に全久院を滅ぼされた牧野古白の為に龍拈寺という菩提寺をそれぞれの子息が立てました。その宗旨は宗瑞の弟である賢仲繁哲が宗旨とする曹洞宗の法脈にありました。今川家は伊勢宗瑞と言うエース級の人物を三河統治に回さなかったものの、自らが宗旨とするものと同じ法脈の曹洞宗の寺を東三河に建立することで東三河の国人衆との関係を保とうとしたのだと思います。

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