« 中漠:明応軍乱編⑳東海道打通作戦Ⅱ | トップページ | 中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱) »

2016年5月28日 (土)

中漠:明応軍乱編㉑後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞)

 以前一休宗純の生涯をかなり詳しく、同時に邪推をもって描写を進めてきましたが、小和田哲男氏著「戦国武将を育てた禅僧たち」を材料に北条早雲、臨済宗大徳寺派宗旨説を検証してみようと思います。
 小和田氏は根拠として二つの史料をあげられております。一つは1519年(永正十六年)九月十五日 北条氏綱が伊豆韮山で無遮会を行った際、禅僧芳琳乾幢による祭文に「南浦に宗猷す」という文言があることです。この南浦とは南浦紹明を指し、南浦紹明は大徳寺を開いた宗峰妙超の師匠であることから、大徳寺に所縁ありと見なすことができます。
 さらにもう一つが、1508年(永正五年)の冬に、大徳寺七十二世住持の東渓宗牧が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えたという内容の書物「道号頌」(道号の意味・意義についての解説書)に記載されているとのことです。「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」とあるそうです。この正続大宗禅師とは、養叟宗頤の教えを継いだ春浦宗煕のことです。同書においては、伊勢新九郎と東渓宗牧はともに机を並べて春浦宗煕に学び、一人はそのまま大徳寺に居残って、住持となり、もう一人は戦国武将として活躍したさまを描写したうえで、春浦宗煕と険悪な仲であった一休宗純は自著『狂雲集』の中で、「逆行の沙門三尺の剣、禅録を見ずして軍書を読む」と春浦宗煕を批判しているのですが、この僧堂で軍書ばかり読んでいる沙門の筆頭として伊勢宗瑞を小和田氏の著作の中であげられております。

 伊勢新九郎(宗瑞)の生誕年代には二説あります。一つは1432年(永享四年)説で、もう一つは1456年(康正二年)説です。ちなみにネットで調べたところ、小和田氏はどうやら1432年(永享四年)説をとられているようです。とりあえず、どちらの説も矛盾を含んでいて、例えば1432年(永享四年)説だと、今川義忠に嫁いだ時点の伊勢新九郎の姉、北川殿の年齢が高すぎはしないかという話になります。なにしろ、北川殿が今川家に嫁いだ1467年(応仁元年)時点で伊勢新九郎は齢三十六です。この時代の女性であれば、婚期を逃していると言わざるを得ません。なので、1432年(永享四年)説をとる場合には、北川殿は伊勢新九郎の年の離れた妹ということになっております。逆に、1456年(康正二年)説の場合、伊勢新九郎の足利義視に仕えた時期が微妙になるのです。伊勢一族は応仁の乱においては基本的に東軍についているのですが、足利義視は応仁元年八月に京を逃げ出し、応仁二年十一月には西軍に走っております。応仁二年十一月の時点で伊勢宗瑞は数え十二歳。元服をするかしないかの時期なのですね。
 春浦宗煕が大徳寺の住持を務めていた時期は平均一~二年で住持交替が行われていたこの時期には珍しく、1453年(享徳二年)から1462年(寛正三年)までの九年間となります。この期間を1432年(永享四年)説に当てはめれば、数え二十二歳から三十一歳の期間になります。一応軍書を読んでいてもさまになるかもしれません。ちなみに、小和田氏が机を並べたと書いている東渓宗牧の年齢に当てはめると、数え一歳から九歳ということになり、この時代であれば親子ほど年の離れた同窓ということになってしまいますね。東渓宗牧は春浦宗煕とは年齢差があるので、直接印可を受けたわけではなく、春浦宗煕から印可を受けた弟子である實傳宗眞を経由して印可をもらっているので、直接の弟子とも言いづらいところはあります。念のため、1456年(康正二年)説をとった場合は伊勢新九郎数え一歳から七歳となりますね。伊勢宗瑞と東渓宗牧の年齢差は無くなって同窓っぽくはなりますが、大徳寺は幼児・児童教育もやっていたのかという話になってしまいます。アニメの一休さんなんかを見れば、それもありなのかという気にもなりますが、軍書を読む七歳児を想起するならば一休ならずとも慨嘆したくなりますね。(冗談です)

 春浦宗煕が大徳寺住持を退くと、代わって入ってくるのが関山派の雪江宗深でしたので春浦宗煕は大徳寺を出て洛東に大蔭菴という庵を開いてそこに住します。禅僧芳琳乾幢による祭文や「道号頌」には「南浦に宗猷す」とか、「曾て正続大宗禅師の室に入りて、吾が三玄の戈を操り(後略)」としか書いておらず、大徳寺で学んだとは書かれておりません。応仁の乱中は大徳寺は焼失しており、春浦宗煕が大徳寺に帰ってくるのは大徳寺を復興させた一休宗純の死後、1482年(文明十四年)に大徳寺寺域内に塔頭松源院を建立した時となります。狂雲集は応仁期にはすでに存在されていたらしいのですが、著作の中に1471年(文明三年)に囲った森女の話ものっておりますので、死没まで書き足ししていたのでしょう。伊勢新九郎と東渓宗牧が同窓でかつ、兵書を読む沙門の代表が伊勢新九郎であるとすれば、その場所は大徳寺ではなく、洛東大蔭菴ということになるのではないか、と思います。
 とはいえ、「机を並べ」や「兵書を読む新九郎を狂雲集で一休が批判」とあるのは古文書の上に現れている話ではありませんので、理解を促すための小和田氏のレトリックであると考えればよいかと思います。
 いずれにせよ、伊勢新九郎盛時は春浦宗煕に学問を学びましたがそれは必ずしも、禅のみではなく、兵学も併せて学んでいただろうし、それは必ずしも出家を目的としたものではありませんでした。

 1487年(長享元年)に伊勢新九郎盛時は姉の北川殿の要請に応え、今川家陣代小鹿範満を討つために駿河へ下向します。そしてその功をもって東駿河の興国寺城を与えられ、以後東海地方が彼の活躍の場となります。彼が兵書ではなく、仏道に目覚め自らを早雲庵宗瑞と名乗るのは1495年(明応四年)になってから、伊豆国韮山においてです。その翌年に学んだ師である春浦宗煕が遠く離れた京で示寂しましたが、この一両年中に二人が接触した形跡はありません。

Photo

|

« 中漠:明応軍乱編⑳東海道打通作戦Ⅱ | トップページ | 中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/63692860

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:明応軍乱編㉑後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞):

« 中漠:明応軍乱編⑳東海道打通作戦Ⅱ | トップページ | 中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱) »