« 中漠:明応軍乱編⑰明応大震災 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑲永正の錯乱 »

2016年5月 7日 (土)

中漠:明応軍乱編⑱東海道打通作戦Ⅰ

 本稿のタイトルに使った『打通作戦』というのは日中戦争末期(と言うか、太平洋戦争…いや、大東亜戦争末期と言った方が良いかもしれない。別にアジア・太平洋戦争でもいいのですが、それだとこの作戦の意義は過小評価されるような気もしますので。)に、大日本帝国陸軍が華北から華南に向けて大兵力を一気に通貫させた戦いです。帝国陸軍はこの作戦を完遂させ、これによって国民党率いる中華民国軍に大打撃を与えました。但し、この戦いの勝利は対米戦を含んだ大局を覆すには至らず、大日本帝国は結局敗北します。

 今川氏親が伊勢宗瑞を使って駿河衆を西上させた意図を考えるに、この打通作戦の様相が参考になるような気がします。明応大地震とそれに伴う津波によって駿河国にある沼津、焼津、清水の三湊は壊滅し、京と駿河を結ぶ要路は陸路のみになってしまいますが、細川政元の意を奉じて小鹿範満や足利茶々丸を討った関係上、通信が途絶えることは死命を制せられることになります。正面の遠江には斯波氏がおりましたが、これを討ち破っても、そして上洛中の足利義尹から遠江守護の座を与えられてもなお侵攻の勢いを止めなかったのは、浜名湖の壊滅が示す通り、遠江国の湊もまた使い物にならなかったためではないかと私は考えてみました。
 前述の峰岸氏の話によると明応地震による津波の影響は、三河国においては近隣国よりも小さかったとしています。その理由として、三河湾を形成する渥美半島と知多半島が津波を防いだために、湾内の港に入るころには波も比較的小さくなっていたそうです。今川氏親はこの戦いの早い段階で西三河の明眼寺に禁制を与えております。当時は敵地での略奪は日常茶飯事でした。禁制とは侵略軍が後々その近辺を占領しても、禁制のある場所は自分達の味方であるから略奪をしてはいけないということを示す文書です。即ち、侵略に備えた保険であり、それが発給される場所は侵略の予定地とも言えるわけですね。氏親としては使える港がある西三河まで到達することが出来れば、そこから京へ至るの海路を確保できると考えたのではないでしょうか。

 その途上にある渥美半島を領していたのは戸田宗光(全久)でした。戸田宗光は松平信光と同じく伊勢貞親の被官であり、応仁の乱においては西軍方についた渥美郡分国守護の一色義直を追い出して渥美半島を手に入れました。1493年(明応二年)には、現在の豊橋市に流れる朝倉川沿いに二連木城という城を建ててそこに自らが入って拠点としました。そこに襲ってきたのが津波です。三河湾内の港湾施設は外洋に面した他国の港よりも被害は小さかったとはいえ、渥美半島の外海側と内海側の両側を津波が襲って戸田宗光も往生したもようです。

 その間隙をついて牛窪にある一色城の牧野古白が今橋に進出、城を建てます。その城は二連木城の目と鼻の先にありました。しかも三河湾側に寄った位置にあります。これが意味する所は、東三河の海運利権を戸田氏から根こそぎ奪うことであり、今橋を付城として戸田氏の拠点である二連木を攻め落とすという意思表示でもあったと思われます。この時点で明応地震より七年の時間が経過しておりましたが、港湾インフラの再整備にはそれなりの時間が必要であったと思われます。もとより三河国は特殊な事情があり、一国の守護が国のすべてに権力を行使できるようには出来ていません。というのは、守護である阿波細川氏の支配圏の他に三河国が一部足利一門衆の本貫地であり、吉良家という将軍家御一家衆の領地や政所執事伊勢氏が管理する室町殿の直轄領があったりする上に足利義教の暴政によって粛清された前守護一色氏の残党勢力圏があったりして、平時ですら割拠状態でした。応仁の乱においては、東軍方についた伊勢氏被官の松平氏と戸田氏が躍進して西三河一帯から渥美半島まで勢力を伸ばしてゆきます。本来の守護である阿波細川成之はこの地の支配が機能していない状況でした。

 二連木を攻めた牧野氏は応仁の乱においては西軍方の一色家につき、戸田氏は東軍方の細川家に従って戦いました。応仁の乱の終結に当たり三河国から一色家の影響力は排除されましたが、牧野古白はその西軍方の生き残りでもあります。戸田全久としては救援を必要とする状況でした。その救援先として考えられるのは今川しかありませんでした。彼は元々伊勢貞親の被官であり、今川家には伊勢一族の宗瑞がおりました。ここに今川家が三河に介入できる大義名分が生じたわけです。1506年(永正三年)七月、今川氏親率いる今川軍は三河国に侵入し、今橋城を囲みます。九月十日には今橋城の外郭を占拠するのですが、落城に至ったのは十一月四日と四ヶ月かかっています。この日、牧野古白は戦死しました。そして同じ月の七日には駿河に戻って遠江国の巨海越中守宛に伊勢宗瑞が参陣の感謝状を贈っています。
 この段階で今川としてはこの前段階の遠州征服戦や津波の影響もあり、戦略目標を戸田氏勢力圏からの侵入者排除に絞っていたようです。戸田宗光としては秩序の回復者でした。さらには、国主なき三河国の国主となり得る者として今川氏親や伊勢宗瑞を見るようになったのではないでしょうか。もとより戸田宗光は伊勢家の被官であり、阿波細川家との主従関係はありませんし、細川成之は三河国に対する守護としての役割を放棄しているようにも見えました。応仁の乱と地震・津波で混乱する三河国にとって国をまとめあげる指導者が必要なのは確かでした。

 今川軍が今橋城を囲んだまさにちょうどその時、加賀の門徒衆が越前国の九頭竜川と越中国の般若野に攻め込んで猛威を振るっておりました。伊勢宗瑞の次の目標は西三河と言うことになるのですが、そこは本願寺教団の盛んな土地でありました。そこで伊勢宗瑞は自分が任されている伊豆と相模に真宗の禁止令を出しています。とは言えその頃の東国は本願寺教団よりも高田派の勢力の方が強く、門徒衆が両国に襲い掛かる恐れはほとんどありません。むしろ、今橋落城の直後に浄土真宗高田派に属する三河国桑子明眼寺宛に禁制を発行している所を見るに、対象は本願寺教団限定で高田派を取り込む動きだったのではないかと思われます。実際両国においてその実効性はほとんどありませんでした。
 しかし、後々になって政情が変わり天文年間になってこの禁教令は先例として扱われ、伊勢宗瑞の支配する関東から真宗勢力が締め出されるようになってゆきますが、それはまた別の話。

 牧野古白を討って、駿河に還った今川氏親と伊勢宗瑞は驚くべき報せを受けることになります。幕府管領細川政元の暗殺でした。

Photo

|

« 中漠:明応軍乱編⑰明応大震災 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑲永正の錯乱 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/63582482

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:明応軍乱編⑱東海道打通作戦Ⅰ:

« 中漠:明応軍乱編⑰明応大震災 | トップページ | 中漠:明応軍乱編⑲永正の錯乱 »