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2016年6月18日 (土)

中漠:明応軍乱編㉔後柏原帝の朝餉

  明応軍乱編は細川政元のクーデターからその死までの期間を中心に畿内と東海地方がどのような動きをしたかを追ってきましたが、本稿がその締めくくりとなります。

 応仁の乱は戦国時代の嚆矢となった内乱ですが、それが京の街になにをもたらしたかと言うと流通の崩壊でした。端的に言うと、京の街に物資が入ってこなくなったのです。敵対勢力がそれぞれに荷留めをしたり、関所を設けて原価割れするような関銭を取ったりして京に物資が入らなくなってしまったのでした。
 朝廷は基本的に幕府のスポンサードによって成り立っていましたが、幕府自体もこの流通崩壊で予算が足りなくなり、朝廷への財政支援がままならなくなってきておりました。朝廷は武力を持ちませんから、幕府の援助がなければ運営が成り立ちません。朝廷の仕事は各種儀式ではありますが、その運営すらできなくなっておりました。
 例えば後土御門天皇ですが、彼は皇位にあったまま崩御しました。これは当時の皇室においては異例な事態で、これ以前の天皇は存命のうちに後継者に譲位し、上皇となって洛外の院に入りそこで余生を過ごすのが習わしでした。しかし、この当時幕府の財政は逼迫しており、この譲位の儀式に必要な費用拠出ができなくなった結果、終身在位を強いられたわけです。それだけではなく、土御門天皇の亡骸は死後四十日間も禁中にとどめ置かれました。死穢を嫌う朝廷においてはあり得ないことだったようで、その憤懣を近衛政家は日記につけております。「今夜旧主御葬送と云々。亥の刻許り禁裏より泉湧寺に遷幸す。(中略)今日に至り崩御以降四十三日なり。かくの如き遅々、さらに先規あるべからず歟。」(明応九年十一月十一日条)
 そして、その状況は後土御門天皇が崩御されても改善されませんでした。後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇の三帝は財政難が原因により、終身在位を余儀なくされた天皇です。そればかりか、後柏原天皇に至っては践祚をしても即位の礼の儀式を行うことを細川政元によって、停止されていたのです。結局後柏原天皇が即位の礼の儀式を行えたのは、践祚から二十二年目、1521年(大永元年)まで待たなければなりませんでした。本稿では、そんな後柏原天皇の台所事情についてのお話になります。

 明応軍乱編の最後にとある京の老舗の歴史を記します。
 後柏原天皇が践祚した三年後の1503年(文亀三年)に山城国鳥羽に住する一人の武士が、その地位を捨てて洛中正親町に餅屋を開きます。名を渡辺進と言います。鳥羽という土地は山城国一揆が起こった南山城三郡に隣接しており、山城国は一応細川政元が派遣した赤澤宗益(南三郡)と香西元長(北五郡)が山城国守護代として支配して一応の安定を得ることになります。これは南山城からの物資が京に入ってくることを意味しますので、土地を支配する武士から商人に転職した方が生活は安定すると考えたのかもしれません。
 もちろん、この時代に商売を勝手に始める自由はありません。織田信長(正確には六角定頼の方が早い)が楽市・楽座を始める以前のことですので、餅屋を始めるにしても、座に入って通すべきところに筋を通す必要がありました。その商権を握っていたのが寺社勢力です。渡辺進にはその寺社勢力とのコネクションがあったようです。でなければ、禁裏にほど近い正親町に店を持つことはできなかったでしょう。その寺社勢力というのが、洛中に根を張った法華宗勢力でした。

 ただ、戦乱の世は山城国一揆が終結したからと言って、起業を順調に運ばせるほど甘くはありません。1507年(永正四年)山城国守護代の香西元長が徒党を組んで主人である管領細川政元を暗殺、香西元長も細川澄元・高国らに返り討ちにあうのですが、これを好機と周防に亡命していた足利義材が上洛するという事件が起きます。結局、足利義尹(義材・後の義稙)が将軍に復位し、細川高国が管領を務めるという体制が生まれます。下手をすると京の街も再び火の海になる危険がありましたが、この時は大丈夫だったようです。
 後柏原天皇はこの新将軍に細川政元の頃にできなかった即位の礼の挙行を打診しますが、義稙は色よい返事はしなかったようです。後柏原天皇としては、何としても即位の礼を執り行うことが、至上命題となっておりました。そこで始めたのが朝廷内の倹約を勧め、幕府からの支援金を貯金することと、幕府以外の大口スポンサーを探すことでした。

 そもそも朝廷の維持運営にはお金がかかります。天皇の食事も、本来ならばその為だけに存在する役所があり、食事の世話をしておりました。その役所の名前は内膳司と言います。しかし、応仁の乱以降の流通崩壊と即位の礼の為に倹約を強いられた為にその役所も役に立たなくなったわけです。
 そんな折、帝の朝食を用意したのが、先に紹介した渡辺進です。彼は自ら後柏原天皇の為に、朝餉を用意し、自ら禁中に赴いて宅配サービスを行いました。禁裏内の庭にて、女官に朝餉を直接手渡したとのことです。その光景を後柏原天皇は御簾の向こうで見ていたらしい。

 こうして涙ぐましい程の努力で儀式に必要な資金のメドは立ちます。大口のスポンサーも見つかりました。山科本願寺です。その段になって足利義稙は京を出奔します。管領細川高国との折り合いが悪くなったせいでした。細川高国は足利義澄の息子、義晴を立てて取り繕いました。この政変劇で即位の礼挙行も怪しくなりかけたのですが、後柏原天皇が足利義稙にマジギレして、細川高国、足利義晴体制を即座に支持した為、幕府からの妨害を受けることなく挙行することが叶いました。後柏原天皇はその五年後に崩御しましたが、渡辺進の朝食提供サービスはそれ以後の続き、明治に至るまで継続することになるのですが、その前に一波乱が起きました。

 天文元年、細川六郎(晴元)の命(この時細川六郎はまだ若年なので、実質はその側近の命令)によって山科本願寺が動員した門徒兵は畠山義堯、三好元長を屠り、さらに暴徒化して大和国の興福寺に乱入するに至ります。細川六郎もこれはまずいと考え、本願寺の追討を命じます。これに応じたのが京の町衆たちでした。日ごろから本願寺門徒と京の町衆の信奉する法華とは仲が悪いということもあるのですが、山科本願寺は京のすぐ脇にあり、京も制圧される恐れがあったことが大きいでしょう。六角定頼の支援もあって法華衆はこれに成功し、山科本願寺を破却するに至ります。本願寺は摂津欠郡の石山に移りここをあらたな本願寺とします。
 気づいてみると、京の街は将軍も管領もおらず、禁中に帝がおわすだけで、法華衆が自検断、すなわち支配を及ぼす土地となりました。
 これもまたまずいと見て取った、細川六郎の側近たちは延暦寺と六角定頼を再び動かして京の街を制圧します。これによって京の街は再び完膚なきまでに灰燼に帰したとのことです。これを称して天文法華の乱と言います。渡辺進はこれに巻き込まれますが、命は助かり堺に亡命します。その間洛中には法華禁止令が発動されて、法華宗徒は洛中に入れなくなってしまったわけです。

 渡辺進も京に帰れなくなったわけですが、これで困ったのは後柏原天皇の後を継いだ後奈良天皇です。まずは朝食の宅配が受けられなくなりました。と言うか、京から法華を追放するということは、京の経済が壊滅することを意味します。既に法華宗は近衛家とのパイプを築いていました。渡辺進も禁中に対するコネクションを使って運動したのではないかと思います。それが実って、1542年(天文十一年)に後奈良天皇が、法華赦免の綸旨を出すに至りました。この間延暦寺は洛中の法華衆の財産を延暦寺に引き渡すよう要求しているのですが、幕府はこれに対して曖昧な答えしかしていませんでした。それは洛中に山法師を引き入れることと同義であり、さすがの幕府も首を縦に振れないことであったようです。
 渡辺進は無事に帰京できましたが、そのままの形で事業を継続することは憚りがでていました。すなわち、法華衆の自検断にある程度関わったのでありましょう。そういうところとも結びつかないと御所の配膳サービスは成立するとも思えません。渡辺進は郷里の鳥羽から一族の中村五郎左衛門を娘婿とし、彌七郎と名乗らせて餅屋を再開します。この彌七郎は後に出家し道喜と名乗り、これがこの餅屋の店主が継承する名前となりました。道喜はさらに後に織田信長が禁裏修繕を行った折、その一部を奉行し、その功績を持って禁裏より彼が修繕した通用口の門の名前を道喜門と呼びならわされるようになります。この道喜は武野紹鴎から茶を学んでおります。千利休と同門にあたり、利休の茶会に出席記録があるそうです。
 道喜は四代目になって屋号を川端とし、以後御所御用達の粽屋川端道喜は現代にも続く老舗となっております。

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2016年6月11日 (土)

中漠:明応軍乱編㉓戦国コンサルティングファーム

 本稿では細川政元の暗殺が大徳寺・妙心寺に与えた影響について簡単に触れておきたいと思います。
 応仁の乱の戦火から大徳寺を再建した一休宗純が、一日だけ四十七世住持を務めた後の大徳寺は関山派の執拗な攻撃を受けておりました。ここから、東溪宗牧(養叟派)が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えた1508年(永正五年)までの三十四年間に二十五人の住持が交替しております。そのうちの半分強の十三名が妙心寺系、すなわち関山派の住持たちです。養叟・春浦派はその半分強の八名でしかなく、関山派は大徳寺の主流派を占めております。

養叟・春浦派(8人)
48世 晦翁宗昭、50世 泰叟宗愈、54世 一溪宗統、56世 實傳宗眞、59世 椿叟宗壽、
61世 天琢宗球、70世 陽峯宗韶、72世 東溪宗牧

関山派(13人)
51世 特芳禪傑、52世 悟渓宗頓、53世 東陽英朝、55世 西浦宗肅、57世 天釋禪彌、
60世 天縦宗受、62世 仁濟宗恕、63世 悦堂宗懌、65世 玉浦宗珉、66世 獨秀乾才、
68世 鄧林宗棟、69世 興宗宗松、71世 瑞翁宗縉

未詳・その他(4人)
49世 芳蔭  、58世 桃蹊宗仙、64世 桂菴嫩 、67世 大機竺

 以前の稿において、妙心寺の住持を四派輪住の関山派で独占させることは、徹翁義亨や養叟宗頤が以後の大徳寺の住持は自分の法嗣のみから出すと言っているのと同じ虫のいい制度としたと書きました。それはすなわち、妙心寺が本寺である大徳寺に住持を送り込めるなら、大徳寺もまた末寺である妙心寺に住持を送り込むことも可能ということです。
 それを防ぐために妙心寺が行った対策は、妙心寺から大徳寺住持を送り続けるということでした。この時期の大徳寺住持は平均して一~二年で交替しております。確かに本寺には末寺の住持の人選に干渉できるかもしれませんが、大徳寺歴代住持の半数を関山派で占めてしまえば、養叟・春浦派はその逆をやる暇もありません。何か干渉を行っても一~二年ぬらりくらりとかわしていれば、次の大徳寺住持は関山派ということになって立ち消えになってしまうからです。それを続けていれば、いずれ関山派出身の大徳寺住持に学んだ大徳寺出身僧が住持につけば、本寺・末寺の区別も無くなる。そういう発想であったのではないかと思います。もちろん、それが可能になるのは関山派がいつでも大徳寺住持になることが可能であるという保証が必要でした。それを担ったのが、細川勝元・政元父子です。細川勝元は再建間もない妙心寺を支援しただけではなく、龍安寺も建立。日峰宗舜を関山派出身の初めての大徳寺住持に据えました。二人目の関山派義天玄承には紫衣を着せて晋山式に臨ませました。それは養叟宗頤ら徹翁義亨流の反対を押し切ったごり押しでもありましたが、三人目の関山派、雪江宗深がつくころにはその抵抗もかなり収まっております。それを受け継いだ細川政元は妙心寺を全面支援しておりました。その行き着くところは妙心寺による、大徳寺支配であったと考えても差し支えはないかと思われます。

 大徳寺は養叟宗頤が近江国堅田殿原衆の支援のもとに入山を叶え、さらに支援・支持を得るために(その一部には関山派に対抗するために)入室参禅を容易にし、泉州堺に進出しました。堺は一休宗純の求めに応じて大徳寺復興資金をねん出するほど経済力の高い場所ではありましたが、その場所は細川一門の支配地でもあったのです。よって、養叟宗頤派が抵抗しようにも、細川氏の支援が妙心寺に向いている間は抵抗の仕様がありませんでした。
 この期間の細川政元は絶頂期と言って良いでしょう。応仁の乱は事実上東軍の勝ちであり、引き続き細川氏が幕政に関わることになります。すでに斯波家は分裂状態で過去の威勢はありません。足利義尚の死後、足利義材と組んだ畠山政長が管領となって幕政を壟断しかかりましたが、これも明応のクーデターでひっくり返し、堀越公方の息子を足利義澄として傀儡将軍の座につけることも成功しております。向かう所敵なし状態だったのですが、良いことはそれほど長く続くことはありませんでした。

 1507年(永正四年)六月二十三日、細川政元は暗殺されます。この時、細川政元は山科本願寺を動かして、畠山・朝倉氏の討伐を、今川氏を三河に侵攻させて斯波氏討伐を企図しておりました。それがこの暗殺によって頓挫したのです。妙心寺にとっては最大の支援者を失うに至ります。暗殺後のゴタゴタは最終的に足利義材(義稙)が将軍職に復位し、政元の養子の一人、細川高国が管領としてこれを支える体制となりました。高国は親朝倉・畠山です。これに政所執事伊勢貞宗、貞陸(伊勢宗瑞の宗家です)も降伏し、今川氏親・伊勢宗瑞の三河侵入は終了するわけです。
 この政変をきっかけに妙心寺は生き残りをかける必要がありました。以前、大内義弘に深く入れ込んだために、妙心寺の経営は破たんしました。今回細川政元に大きな部分を依存していたわけですが、細川高国は細川政元の後を継ぐべき人物と予定されていたわけではありません。妙心寺は新たな権力者と関係を作り直さなければならないわけですが、今まで通り大徳寺に住持を出し続ける戦略は不都合と言えるでしょう。1508年(永正五年)の時点で大徳寺住持は養叟・春浦系の東渓宗牧に回っております。時間をかければ細川高国と新たな関係を取り結んで戦略継続は不可能でもなかったと思われますが、時間をかけるということは大徳寺の養叟・春浦派にとっても反撃のチャンスを与えてしまうことになります。

 そこで妙心寺は朝廷に働きかけ、大徳寺の末寺から離れ、紫衣勅願の寺院として独立を果たしたわけです。これ以後、妙心寺は大徳寺の末寺ではなく、妙心寺派臨済宗の総本山となりました。これで大徳寺から人が送り込まれるリスクは回避できたわけです。そして、細川政元に頼りすぎていた現状を見直し、政治的リスクの分散を図るようになります。それは、新たに立ち上げた妙心寺教団を戦国コンサルティングファームに変えることでした。

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 その意味する所は小和田哲男氏の著書「戦国武将を育てた禅僧たち」にあるとおり、名だたる戦国大名の軍師となり、その師弟に教育を施し、外交交渉もこなして領国経営に参与する、シンクタンク集団であったのです。

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2016年6月 4日 (土)

中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱)

 伊勢宗瑞が堀越公方領を接収した後も、彼は今川氏親の部将としてとどまっておりました。今川家は伊勢氏とのパイプを通じて細川政元に従っており、関東と東海の東西に目配りをしております。1506年(永正三年)、細川政元は各地に残る反細川派を一掃するために今川氏と本願寺教団に戦闘を支持します。今川氏親に課されたのは遠江を平定し、三河を縦断して斯波家を潰すことでした。今川氏親は伊勢宗瑞を派遣して永正三年に牧野古白を討ち取り、さらに永正五年の秋ごろに三河国伊田野で松平長親と合戦に及びます。(一応、柳営秘鑑では文亀元年、徳川実紀では永正三年説になっているのですが、本稿では永正五年説を採用しております)伊勢宗瑞の三河侵攻はこの井田野合戦でストップします。
 この前年に細川政元は暗殺されており、この世の人ではありませんでした。そして、井田野合戦の直前に今川氏親は遠江守護の役職を足利義材より受け取りました。これをもって今川氏は細川政元⇒澄元ラインから足利義材ラインに乗り換えたと見る向きもありますが、事はそれほど単純ではなかったと思われます。発足間もない義材政権にとっては地方で大合戦をやらかされると困るし、まかり間違ってそこで大勝ちして東海地方が今川氏に統一されてしまうことも必ずしも歓迎できることではなかったのではないでしょうか。大内義興の協力で京は手に入れたもののまだ足利義澄も、細川澄元も健在であり、戦況の動きで不利を蒙るリスクが高いと判断したと私は見ております。よって、遠江守護補任はすでに取得済の遠江領有を将軍も認めるからそれで満足し、静謐を保て、というのがそのメッセージではなかったでしょうか。
 伊勢宗瑞はそれでも兵を進めて西三河の井田野で合戦に及びます。そこに飛び込んできたのが大徳寺七十二世東渓宗牧から、伊勢宗瑞に贈られた天岳という道号でした。伊勢宗瑞の家の宗旨は今まで見た通り総持寺、大源・恕仲流の曹洞宗です。過去に宗瑞が大徳寺に参禅した形跡はあるものの、以後も伊勢新九郎を名乗り、親族が新九郎領地の周辺に曹洞宗の寺を建てていたことから、本格的な入信ではなかったことが読み取れます。彼が名乗った法号である宗瑞の「宗」が大徳寺派臨済宗を現すのだとしても、彼はずっと東海地方にいて京の大徳寺に参内する余裕はなかったと思います。にもかかわらず、このタイミングで東渓宗牧が道号を送ってきた意味をどのように解釈すべきでしょうか。おそらくは、東海にあって細川政元暗殺後の京の動静を測りかねた伊勢宗瑞が、昔の伝手を頼って客観的な情報を求め、それに応える形で道号付与を名目に接触したと見ればよいのではないかと思います。宗家の伊勢貞宗・貞陸は細川高国が足利義材・大内義興連合に寝返って間もなく、これに歩調をあわせて足利義材派に従っております。今までの政元が敷いた路線通りに続けてよいか、義材の話に乗るかについて、足利義材や伊勢宗家や細川高国が現在ついているポジションについて正確な情報を得た上で判断する必要があったのだと思われます。
 伊勢宗瑞は東渓宗牧がもたらした京の情報を持ちかえって今川氏親と協議し、撤兵を決めたのでしょう。以後、伊勢宗瑞は東部戦線に専念し、伊豆・相模両国を領有することになります。伊勢宗瑞は自らが滅ぼした堀越公方の機能を肩代わりできるような力をつけることに腐心したわけです。
 1519年(永正十六年)八月十五日に伊勢宗瑞は伊豆韮山で没します。今川に属する将としてではありますが、伊豆国と相模国を父から受け継いだ氏綱は一つの構想を思い描いておりました。それは関東府の再興です。彼が領した相模国にはかつて同じ桓武平氏出身の北条一族が鎌倉幕府の執権として東国を仕切っておりました。氏綱としてはこの先例に倣って後の世の北条氏たらんと志したのでした。
 北条氏綱は父の死の翌月、韮山に芳琳乾幢という僧を呼んで無遮会という法事を執り行います。無遮会とは、貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う儀式で、故人の遺徳を偲んで金品を配ったということのようです。領民に対する人気取りという側面もあったのでしょう。ここで芳琳乾幢が読んだ祭文の中に、伊勢宗瑞は建仁寺と大徳寺で学んだ経験があることが触れられております。仏法の外護者である旨を申し述べたものでありましょう。この祭文は「玉隠和尚語録」に収められているそうなのですが、この書物の作者は玉隠英與という建長寺住持を務めたことのある鎌倉五山の重鎮です。
 これは想像ですが、鎌倉五山は伊勢宗瑞をそれほど高く評価していなかった現れなのではないかと思います。北条早雲は税を下げて民を安んじた仁君として知られておりますが、逆に言うとそのような宣伝が必要であったという捉え方もできます。宣伝が必要になるのは、不都合な評価を覆い隠すためで、その不都合な評価とは足利茶々丸を殺害したことではなかったかと思います。足利茶々丸は親が定めた後継者である異母弟の潤童子を母親と一緒に殺して堀越公方の座を奪った簒奪者ではありますが、伊勢宗瑞はその堀越公方が治めていた伊豆を茶々丸から奪い自領としているのですから彼もまた簒奪者でもあるのですね。潤童子の敵討ちということであれば、伊豆国は潤童子の縁者(この場合は生き残った足利義澄)に返還すべきものではあるのです。氏綱はおそらくは鎌倉五山に自らが後の世の北条氏たらんとする志を伝えただろうとは思われますが、主張の筋の悪さでやんわりと断られ、落としどころとして行われたのがこの無遮会だったのではないかと推測します。 氏綱としては、「後北条氏構想」の一環として鎌倉五山の外護者としての宗瑞を祀りたかったと思われますが、それは叶いませんでした。

 鎌倉五山の代替として名乗りを上げたのが大徳寺でした。きっかけは東渓宗牧が伊勢宗瑞に与えた天岳の道号であったと考えて差し支えないと思います。大徳寺は氏綱の構想を受け入れます。氏綱は父宗瑞のために韮山に早雲寺を建立します。そこに招かれたのが大徳寺八十三世の以天宗清でした。東溪宗牧と同じ、春浦宗熈の法統に連なる人物です。

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氏綱はこの二年後に氏を伊勢から北条に改めます。そして伊勢宗瑞も北条早雲として祀ることとなりました。

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