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2016年6月11日 (土)

中漠:明応軍乱編㉓戦国コンサルティングファーム

 本稿では細川政元の暗殺が大徳寺・妙心寺に与えた影響について簡単に触れておきたいと思います。
 応仁の乱の戦火から大徳寺を再建した一休宗純が、一日だけ四十七世住持を務めた後の大徳寺は関山派の執拗な攻撃を受けておりました。ここから、東溪宗牧(養叟派)が伊勢宗瑞に天岳の道号を与えた1508年(永正五年)までの三十四年間に二十五人の住持が交替しております。そのうちの半分強の十三名が妙心寺系、すなわち関山派の住持たちです。養叟・春浦派はその半分強の八名でしかなく、関山派は大徳寺の主流派を占めております。

養叟・春浦派(8人)
48世 晦翁宗昭、50世 泰叟宗愈、54世 一溪宗統、56世 實傳宗眞、59世 椿叟宗壽、
61世 天琢宗球、70世 陽峯宗韶、72世 東溪宗牧

関山派(13人)
51世 特芳禪傑、52世 悟渓宗頓、53世 東陽英朝、55世 西浦宗肅、57世 天釋禪彌、
60世 天縦宗受、62世 仁濟宗恕、63世 悦堂宗懌、65世 玉浦宗珉、66世 獨秀乾才、
68世 鄧林宗棟、69世 興宗宗松、71世 瑞翁宗縉

未詳・その他(4人)
49世 芳蔭  、58世 桃蹊宗仙、64世 桂菴嫩 、67世 大機竺

 以前の稿において、妙心寺の住持を四派輪住の関山派で独占させることは、徹翁義亨や養叟宗頤が以後の大徳寺の住持は自分の法嗣のみから出すと言っているのと同じ虫のいい制度としたと書きました。それはすなわち、妙心寺が本寺である大徳寺に住持を送り込めるなら、大徳寺もまた末寺である妙心寺に住持を送り込むことも可能ということです。
 それを防ぐために妙心寺が行った対策は、妙心寺から大徳寺住持を送り続けるということでした。この時期の大徳寺住持は平均して一~二年で交替しております。確かに本寺には末寺の住持の人選に干渉できるかもしれませんが、大徳寺歴代住持の半数を関山派で占めてしまえば、養叟・春浦派はその逆をやる暇もありません。何か干渉を行っても一~二年ぬらりくらりとかわしていれば、次の大徳寺住持は関山派ということになって立ち消えになってしまうからです。それを続けていれば、いずれ関山派出身の大徳寺住持に学んだ大徳寺出身僧が住持につけば、本寺・末寺の区別も無くなる。そういう発想であったのではないかと思います。もちろん、それが可能になるのは関山派がいつでも大徳寺住持になることが可能であるという保証が必要でした。それを担ったのが、細川勝元・政元父子です。細川勝元は再建間もない妙心寺を支援しただけではなく、龍安寺も建立。日峰宗舜を関山派出身の初めての大徳寺住持に据えました。二人目の関山派義天玄承には紫衣を着せて晋山式に臨ませました。それは養叟宗頤ら徹翁義亨流の反対を押し切ったごり押しでもありましたが、三人目の関山派、雪江宗深がつくころにはその抵抗もかなり収まっております。それを受け継いだ細川政元は妙心寺を全面支援しておりました。その行き着くところは妙心寺による、大徳寺支配であったと考えても差し支えはないかと思われます。

 大徳寺は養叟宗頤が近江国堅田殿原衆の支援のもとに入山を叶え、さらに支援・支持を得るために(その一部には関山派に対抗するために)入室参禅を容易にし、泉州堺に進出しました。堺は一休宗純の求めに応じて大徳寺復興資金をねん出するほど経済力の高い場所ではありましたが、その場所は細川一門の支配地でもあったのです。よって、養叟宗頤派が抵抗しようにも、細川氏の支援が妙心寺に向いている間は抵抗の仕様がありませんでした。
 この期間の細川政元は絶頂期と言って良いでしょう。応仁の乱は事実上東軍の勝ちであり、引き続き細川氏が幕政に関わることになります。すでに斯波家は分裂状態で過去の威勢はありません。足利義尚の死後、足利義材と組んだ畠山政長が管領となって幕政を壟断しかかりましたが、これも明応のクーデターでひっくり返し、堀越公方の息子を足利義澄として傀儡将軍の座につけることも成功しております。向かう所敵なし状態だったのですが、良いことはそれほど長く続くことはありませんでした。

 1507年(永正四年)六月二十三日、細川政元は暗殺されます。この時、細川政元は山科本願寺を動かして、畠山・朝倉氏の討伐を、今川氏を三河に侵攻させて斯波氏討伐を企図しておりました。それがこの暗殺によって頓挫したのです。妙心寺にとっては最大の支援者を失うに至ります。暗殺後のゴタゴタは最終的に足利義材(義稙)が将軍職に復位し、政元の養子の一人、細川高国が管領としてこれを支える体制となりました。高国は親朝倉・畠山です。これに政所執事伊勢貞宗、貞陸(伊勢宗瑞の宗家です)も降伏し、今川氏親・伊勢宗瑞の三河侵入は終了するわけです。
 この政変をきっかけに妙心寺は生き残りをかける必要がありました。以前、大内義弘に深く入れ込んだために、妙心寺の経営は破たんしました。今回細川政元に大きな部分を依存していたわけですが、細川高国は細川政元の後を継ぐべき人物と予定されていたわけではありません。妙心寺は新たな権力者と関係を作り直さなければならないわけですが、今まで通り大徳寺に住持を出し続ける戦略は不都合と言えるでしょう。1508年(永正五年)の時点で大徳寺住持は養叟・春浦系の東渓宗牧に回っております。時間をかければ細川高国と新たな関係を取り結んで戦略継続は不可能でもなかったと思われますが、時間をかけるということは大徳寺の養叟・春浦派にとっても反撃のチャンスを与えてしまうことになります。

 そこで妙心寺は朝廷に働きかけ、大徳寺の末寺から離れ、紫衣勅願の寺院として独立を果たしたわけです。これ以後、妙心寺は大徳寺の末寺ではなく、妙心寺派臨済宗の総本山となりました。これで大徳寺から人が送り込まれるリスクは回避できたわけです。そして、細川政元に頼りすぎていた現状を見直し、政治的リスクの分散を図るようになります。それは、新たに立ち上げた妙心寺教団を戦国コンサルティングファームに変えることでした。

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 その意味する所は小和田哲男氏の著書「戦国武将を育てた禅僧たち」にあるとおり、名だたる戦国大名の軍師となり、その師弟に教育を施し、外交交渉もこなして領国経営に参与する、シンクタンク集団であったのです。

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