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2016年6月 4日 (土)

中漠:明応軍乱編㉒後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱)

 伊勢宗瑞が堀越公方領を接収した後も、彼は今川氏親の部将としてとどまっておりました。今川家は伊勢氏とのパイプを通じて細川政元に従っており、関東と東海の東西に目配りをしております。1506年(永正三年)、細川政元は各地に残る反細川派を一掃するために今川氏と本願寺教団に戦闘を支持します。今川氏親に課されたのは遠江を平定し、三河を縦断して斯波家を潰すことでした。今川氏親は伊勢宗瑞を派遣して永正三年に牧野古白を討ち取り、さらに永正五年の秋ごろに三河国伊田野で松平長親と合戦に及びます。(一応、柳営秘鑑では文亀元年、徳川実紀では永正三年説になっているのですが、本稿では永正五年説を採用しております)伊勢宗瑞の三河侵攻はこの井田野合戦でストップします。
 この前年に細川政元は暗殺されており、この世の人ではありませんでした。そして、井田野合戦の直前に今川氏親は遠江守護の役職を足利義材より受け取りました。これをもって今川氏は細川政元⇒澄元ラインから足利義材ラインに乗り換えたと見る向きもありますが、事はそれほど単純ではなかったと思われます。発足間もない義材政権にとっては地方で大合戦をやらかされると困るし、まかり間違ってそこで大勝ちして東海地方が今川氏に統一されてしまうことも必ずしも歓迎できることではなかったのではないでしょうか。大内義興の協力で京は手に入れたもののまだ足利義澄も、細川澄元も健在であり、戦況の動きで不利を蒙るリスクが高いと判断したと私は見ております。よって、遠江守護補任はすでに取得済の遠江領有を将軍も認めるからそれで満足し、静謐を保て、というのがそのメッセージではなかったでしょうか。
 伊勢宗瑞はそれでも兵を進めて西三河の井田野で合戦に及びます。そこに飛び込んできたのが大徳寺七十二世東渓宗牧から、伊勢宗瑞に贈られた天岳という道号でした。伊勢宗瑞の家の宗旨は今まで見た通り総持寺、大源・恕仲流の曹洞宗です。過去に宗瑞が大徳寺に参禅した形跡はあるものの、以後も伊勢新九郎を名乗り、親族が新九郎領地の周辺に曹洞宗の寺を建てていたことから、本格的な入信ではなかったことが読み取れます。彼が名乗った法号である宗瑞の「宗」が大徳寺派臨済宗を現すのだとしても、彼はずっと東海地方にいて京の大徳寺に参内する余裕はなかったと思います。にもかかわらず、このタイミングで東渓宗牧が道号を送ってきた意味をどのように解釈すべきでしょうか。おそらくは、東海にあって細川政元暗殺後の京の動静を測りかねた伊勢宗瑞が、昔の伝手を頼って客観的な情報を求め、それに応える形で道号付与を名目に接触したと見ればよいのではないかと思います。宗家の伊勢貞宗・貞陸は細川高国が足利義材・大内義興連合に寝返って間もなく、これに歩調をあわせて足利義材派に従っております。今までの政元が敷いた路線通りに続けてよいか、義材の話に乗るかについて、足利義材や伊勢宗家や細川高国が現在ついているポジションについて正確な情報を得た上で判断する必要があったのだと思われます。
 伊勢宗瑞は東渓宗牧がもたらした京の情報を持ちかえって今川氏親と協議し、撤兵を決めたのでしょう。以後、伊勢宗瑞は東部戦線に専念し、伊豆・相模両国を領有することになります。伊勢宗瑞は自らが滅ぼした堀越公方の機能を肩代わりできるような力をつけることに腐心したわけです。
 1519年(永正十六年)八月十五日に伊勢宗瑞は伊豆韮山で没します。今川に属する将としてではありますが、伊豆国と相模国を父から受け継いだ氏綱は一つの構想を思い描いておりました。それは関東府の再興です。彼が領した相模国にはかつて同じ桓武平氏出身の北条一族が鎌倉幕府の執権として東国を仕切っておりました。氏綱としてはこの先例に倣って後の世の北条氏たらんと志したのでした。
 北条氏綱は父の死の翌月、韮山に芳琳乾幢という僧を呼んで無遮会という法事を執り行います。無遮会とは、貴賤・僧俗・上下・男女の区別なくだれにでも財施・法施を行う儀式で、故人の遺徳を偲んで金品を配ったということのようです。領民に対する人気取りという側面もあったのでしょう。ここで芳琳乾幢が読んだ祭文の中に、伊勢宗瑞は建仁寺と大徳寺で学んだ経験があることが触れられております。仏法の外護者である旨を申し述べたものでありましょう。この祭文は「玉隠和尚語録」に収められているそうなのですが、この書物の作者は玉隠英與という建長寺住持を務めたことのある鎌倉五山の重鎮です。
 これは想像ですが、鎌倉五山は伊勢宗瑞をそれほど高く評価していなかった現れなのではないかと思います。北条早雲は税を下げて民を安んじた仁君として知られておりますが、逆に言うとそのような宣伝が必要であったという捉え方もできます。宣伝が必要になるのは、不都合な評価を覆い隠すためで、その不都合な評価とは足利茶々丸を殺害したことではなかったかと思います。足利茶々丸は親が定めた後継者である異母弟の潤童子を母親と一緒に殺して堀越公方の座を奪った簒奪者ではありますが、伊勢宗瑞はその堀越公方が治めていた伊豆を茶々丸から奪い自領としているのですから彼もまた簒奪者でもあるのですね。潤童子の敵討ちということであれば、伊豆国は潤童子の縁者(この場合は生き残った足利義澄)に返還すべきものではあるのです。氏綱はおそらくは鎌倉五山に自らが後の世の北条氏たらんとする志を伝えただろうとは思われますが、主張の筋の悪さでやんわりと断られ、落としどころとして行われたのがこの無遮会だったのではないかと推測します。 氏綱としては、「後北条氏構想」の一環として鎌倉五山の外護者としての宗瑞を祀りたかったと思われますが、それは叶いませんでした。

 鎌倉五山の代替として名乗りを上げたのが大徳寺でした。きっかけは東渓宗牧が伊勢宗瑞に与えた天岳の道号であったと考えて差し支えないと思います。大徳寺は氏綱の構想を受け入れます。氏綱は父宗瑞のために韮山に早雲寺を建立します。そこに招かれたのが大徳寺八十三世の以天宗清でした。東溪宗牧と同じ、春浦宗熈の法統に連なる人物です。

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氏綱はこの二年後に氏を伊勢から北条に改めます。そして伊勢宗瑞も北条早雲として祀ることとなりました。

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