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2016年7月30日 (土)

中漠:天文錯乱編④大物崩れ

 細川高国は丹波を失なった状況で洛中の戦いに利がないことを承知しておりました。そこで今回は等持院合戦の轍を踏まずに室町殿の足利義晴を連れて近江国朽木に逃れます。一度は朝倉孝景を口説き落として京都を回復しますが、丹波を押さえられた状況では占領も長続きしませんでした。朝倉家の消極姿勢もあったと言います。
 この時、足利義稙が阿波に遺した足利義維(義賢改め)は堺に進出。船岡山、等持院両合戦の苦い経験から、かつてより有利な条件ではあったものの今回は容易に上洛戦は仕掛けません。堺に幕府を開いてそこから諸侯に号令をかける体制を構築します。
 京においては三好元長が先遣隊としてはいり、先に上洛した柳本賢治と合流しますが、この二人もまた相性がよくありませんでした。先代(正確には先々代)の三好之長の悪名が、なおも尾を引いていたようです。結局の所三好元長は京を追い出される格好になります。柳本賢治としては、阿波細川家による統治はいま一つしっくりこないもののように感じ始めます。そこで近江国朽木にいた足利義晴と密かに通じて義維と和睦の上での帰洛を促す工作を始めました。

 細川高国はこの時近江にはいませんでした。どこにいたかと言うと播磨の浦上村宗を頼っておりました。朝倉家を見限ってのことです。細川高国は足利義晴擁立にあたり、幼い義晴を保護していた浦上村宗と誼を通じておりました。この時の浦上村宗は播磨・備前・美作三国において主家赤松家を凌駕する勢力を築いておりました。そして近江朽木に籠居する足利義晴を救い出して室町幕府を再興する使命に燃えておりました。とは言え、おそらくはこの時点で高国が戦う理由はほぼなくなっていたはずです。
 彼が管領になったのは足利義尹(義稙)に宛がわれたからです。彼には拒否する選択肢もあったはずですが、それを受けたのは細川澄元の政権が細川政元の路線を引き継ぐことに限界と反発を感じていたからでありましょう。彼が敷いた路線の正しさは如意ヶ嶽合戦、船岡山合戦、等持院合戦の三つの戦いで証明されました。この時代の戦いは戦力よりもいかに支持を保つかが重要な要因になります。高国は畿内諸勢力を巧みに結束させて細川澄元の反撃をことごとく封じたのでした。特に等持院合戦においては大内義興という足利義稙の虎の子を欠いての勝利でした。細川高国の強さは周辺諸国の支持の厚さにあったと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、香西元盛の誅殺で丹波衆の支持を失ない、桂川原合戦で敗北し、朝倉氏からも十全な協力を得られない今、細川高国の支持基盤は崩壊しておりました。それでも将軍家への忠節という動機は残っているものの、現将軍足利義晴は細川高国が担ぎあげた傀儡でした。義稙出奔で激怒した後柏原天皇が支持してくれたとはいえ、前将軍の義稙が自らの後継として選んだのは義賢(義維)の方であり、筋としてはこちらの方に分があります。
 阿波細川氏のみを敵として周辺諸国をまとめあげ、現状維持に必死になってきた高国には自らが擁した足利義晴を頂点とした支配体制の理想像は現状維持しかなかったのですが、その現状を喪失した今、それでも前に進むために細川高国は支持を得るための政権構想を打ち立てて世に問わねばならなかったはずですが、高国にはそれを行うための能力と時間が与えられておりませんでした。そのあたりが朝倉氏を動かせなかった理由でもあったのでしょう。
 対して浦上村宗には拡大した自らの勢力を担保した上でさらに拡大したいという野心がありました。実は浦上村宗は勢力拡大の過程で色々無理を重ねておりました。1521年(大永元年)九月に主君赤松義村を暗殺し、播磨国の実権を簒奪していたのです。下剋上を行った彼が必要としていたのは正統性の確保でした。流亡の管領を助けることで政権を立て直しに協力した功績で、播磨、備前、美作三国の支配権を確立したい思惑があったのです。高国・村宗連合軍は東征に動き出しました。

 一方の阿波・丹波連合は烏合の衆で統制を欠いておりました。柳本賢治は三好元長を追い出した手前、自ら洛中洛外の政務を切り盛りしなければならない立場になっておりました。柳本賢治もまた、自らの統治の正統性を担保することを必要としていたのです。柳本賢治は管領でも守護でもありませんので、実力行使以外の権限の進め方がなく、発足間もない堺幕府に一々指示を仰いでいては何も進まないばかりか、現場を知らない者の判断は往々にして頓珍漢なものになりがちで有害です。ここに至って柳本賢治にも細川高国の苦労の一端を味わうに至ります。状況改善に必死になって考えた彼の解が朽木にいる足利義晴と堺の足利義維との和睦でした。これによって細川高国・浦上村宗挙兵の大義名分がなくなることを策したわけですが、この虫のいい提案は足利義維に拒否をされます。世が世なれば幕府将軍として諸侯を率いるべき立場にある者が、阿波で何年も逼塞を強いられていたのですから、当然と言えば当然です。しかし、この提案はこの後、状況がもっと悪化した後で再び芽吹くことになります。結果から見れば一考に値する提案であったと言えたかも知れません。そして堺幕府からは高国・村宗連合軍を迎撃せよと命じられるのでした。

 止む無く柳本賢治は軍を播磨に進めますが、依藤城攻囲中に陣没。暗殺されたとのことです。これを契機に高国・村宗連合軍は摂津に侵入。同時に近江からの勢力が一時的に京を占拠します。ここに至って堺幕府は三好元長を再起用し、連合軍に占領されていた摂津国の防衛拠点である中嶋に派遣。両軍はここに対峙することになります。
 ところがここで連合軍側に裏切りが生じました。後詰めとして神呪寺に配置していた赤松政村が叛旗を掲げて堺幕府方に寝返ったのでした。中嶋に詰めていた連合軍からは離脱者が続出、その間隙に三好元長が一気にこれに襲い掛かりました。ここで細川高国、浦上村宗だけではなく、波々伯部兵庫助を初めとする側近衆までが討ち取られてしまう大惨敗を喫してしまいました。

 細川高国は決して無能の徒ではなく、ひたすら現状維持を求めて戦い続け、その能力に見合った戦果も挙げ続けていました。しかし、武威を示すだけでは終わらないのが戦国時代。最後は支持を失なって保守すべきものを見失ったことが彼の敗因であったのかも知れません。

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2016年7月23日 (土)

中漠:天文錯乱編③高国政権の崩壊

 大内義興が帰国し、足利義稙が脱落して、細川高国が残りました。彼の統治時代は決して平和とは言えませんでした。彼が管領の座についた経緯も下剋上そのもので決して褒められたものではありませんでしたが、それでも細川政元がとったエキセントリックな路線を是正し、京を侵略しようとする征服軍を何度も撃退して守り切りました。明応政変の原因となった畠山政長の子、尚順を政権内に取り込み、河内国との抗争もおさまって、同時に大和国も平穏を取り戻しております。後背の近江六角氏、越前朝倉氏も与党であり、阿波細川家を敵に回してしまったこと以外は盤石な体制を築いていました。しかも、本願寺のような潜在的敵勢力を掃討するようなまねはせず、同時にその軍事力もあてにしないで王法を受け入れさせる徳も見せております。当代一の文化人、三条西実隆が高国に惚れこむ所以でもあります。
 高国体制の核となったのは、丹波国人衆でした。政元の代においては内藤氏や波々伯部氏が活躍しておりましたが、高国の体制では八上城の波多野稙通が台頭しております。高国は彼に丹波国人衆のまとめを任せるとともに、彼の二人の弟を重要なポジションにつかせます。すなわち、次男の元盛には讃岐出身の政元内衆である山城守護代香西元長の名跡を継がせ、香西元盛と名乗らせて職責も継がせました。香西元長は細川家にとって謀反人であり、彼の出身である讃岐国は今は阿波細川家の支配下にありました。本来であれば世襲がベストであるのですが、以上の理由で香西の名跡を取り上げて縁もゆかりもない波多野の次男に与えたわけです。
 同様に三男の賢治には大和国の国人衆の一家である柳本氏を継がせました。元々柳本氏は楊本氏と言って大和国楊本荘という興福寺所有の荘園で荘官を務めていた一族だったのですが、応仁の乱においては総州畠山氏とのかかわりが深く、明応の政変以後の混乱で一族が大和国から没落していたところを細川高国が拾い、丹波神尾城に据えさせました。名跡を継がせて体裁を整えなければならないというところに、細川政元の政権と比較して、スケールダウンの印象は否めません。

 等持院合戦で三好之長と細川澄元を倒し、阿波細川家に完勝したと言っても阿波細川家から各勢力への調略の手はいたるところに張り巡らされておりました。足利義稙もそれにひっかかったクチの一人です。高国政権は常にこの疑心暗鬼と実際の調略の両方に対応しなければならなかったのです。

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 高国政権は細川氏が分裂して興ったものでしたから、味方になってくれる一門衆も限られていました。そんな中で高国と共に戦ったのが細川典廐家でした。当主を尹賢といいますが、養子であり元々は高国とは従兄弟同士の関係でした。高国の嫁は尹賢が養子先、典廐家政賢の娘であり、政賢の娘との間にできた稙国が1525年(大永五年)に死去すると、今度は尹賢の息子を養子にするほど親しい間柄です。

 その尹賢から見て、細川高国政権の基盤は盤石と言い難かったのでしょう。波多野三兄弟で丹波・山城を抑える形になっておりますが、このうちの山城守護代を担当していた香西元盛と典厩細川尹賢との間の相性が特によろしくありませんでした。一説に香西元盛は武勇の人ではあるが、文盲で文書が読めないことを尹賢が疎んじていたと言います。察するに先に謀反で滅びた香西元長が担当していた京兆家内衆としての職務を、武人の元盛が上手く回せなかったと言う所でありましょう。その負担は摂津国を担当する一門衆の典厩細川尹賢にのしかかってきます。尹賢は先年子の氏綱を高国の養子にやりました。次期管領の実父になった彼は香西元盛を排除しようと考えるに至ったものと思われます。
 浅慮と言ってしまえば、その通りではあるのですが細川尹賢は香西元盛排除の手段として、讒訴を選んでしまったと言います。即ち、香西元盛が阿波細川家と密かに通じて謀反を企んでいるとして、その証拠として細川六郎(晴元)や三好元長からの書状を捏造して管領細川高国に渡したと言います。細川高国はこれを真に受けて後々の結果も考えずに香西元盛を上位討ちにかけてしまいました。
 細川尹賢はともかくとして、この時の高国のやり方はらしくありません。永正の錯乱以後における高国の戦略は基本的にやられたらやり返すという専守防衛的な考えで取り進められております。存外、尹賢は独断で元盛誅殺までを済ませた後に、高国に尻拭いを強いたのかもしれません。養子に迎えた氏綱の実父の立場から言われれば否応もなかったのではないでしょうか。断ればまた細川家は二つに割れ、阿波家の跳梁を許すことになります。京兆家当主、管領の立場からの上位討ちと言う形にすることでことが収まることを期待したのではなかったでしょうか。

 しかし、浅慮はいかに覆い隠しても浅慮でしかありませんでした。問題は香西元盛を排除した影響がどこに及ぶのかが一顧だにされていなかったことにありました。香西元盛は波多野さん兄弟の次兄であり、丹波を治める波多野稙通、大和の柳本賢治がこれを許すはずはなく、挙兵の上阿波細川方についたのです。予定調和と言えば予定調和です。おそらくは事前に彼らだけではなく、高国の被官衆の大方には阿波家からの働きかけはあったと思います。被官衆はそれを保険として取って置き、身に危険が及んだり、阿波方に自分を高く売りつけられるタイミングが来たりした時に行使するようにしていたのではないかと私は勘ぐっております。
 ともあれ、亡兄弟への復讐を大義に波多野稙通、柳本賢治は丹波神尾山城に籠もって挙兵、細川氏賢はこれを攻めますが、失敗。勢いを得た波多野勢は桂川原に進出します。細川高国はこれを重く見て氏賢とともに応戦しますが敗れてしまいます。これが高国政権崩壊の引き金となりました。

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2016年7月16日 (土)

中漠:天文錯乱編②足利義稙の脱落

 狭義の両細川の乱は細川高国と細川澄元の二人の戦いであり、澄元が死んだ永正十七年で一端の決着がつくわけではありますが、1552年(天文二十一年)に細川高国の養子である細川氏綱が三好長慶に擁立されて細川京兆家を相続するまで高国系と澄元系という両細川氏の対立は続きます。
 とりあえず本稿においては天文の錯乱の前史として、細川高国の絶頂と没落までをかっとばしてゆきます。

 等持院合戦で露わになったのは、足利義稙の王者としての資質のなさでした。彼は強烈な上昇志向の持ち主ですし、永正の錯乱時には上手く期をつかみ、三好之長とその他の細川京兆家内衆たちとが不仲である間隙をついて調略を成功させるほどの頭の良さを持っていました。かつて船岡山合戦で細川澄元勢を蹴散らした大内義興が脱落している以上、抵抗は無益と考えたのでありましょう。義稙(義尹)を十二年間支えた管領を失うことになりますが、それとて室町幕府の存続に比べるなら些事に見えたのでしょう。しかも、この時の細川澄元には奉じるべき旗印がありませんでした。足利義稙が澄元の誘いに乗ったのは、必ずしも理由のない話ではなかったのです。
 しかし、足利義稙は管領細川高国の実力と丹波国の戦略的価値を完全に見落としておりました。これ以前の京の攻防戦を見ても、明徳の乱の山名氏清(京都占領を目的とした内野合戦で戦死)を除けば丹波国を押さえずして長期の京都確保は成立しません。逆に敵に京都を占領させてから攻撃する戦術が有効であり、その拠点として丹波国は重要な意味を持つのです。

○丹波の支配者から見た京の攻防戦の勝敗表
 1333年(元弘三年)六波羅滅亡  足利高氏 ○足利高氏×六波羅探題
 1336年(建武三年)東寺合戦   仁木頼章 ○足利尊氏×南朝軍
 1352年(観応三年)正平一統   仁木頼章 ○足利尊氏×南朝軍
 1353年(文和二年)山名時氏侵攻 高師詮  ○足利尊氏×山名時氏
 1355年(文和四年)足利直冬侵攻 仁木頼勝 ○足利尊氏×足利直冬
  1360年(延文五年)細川清氏侵攻 仁木義尹 ○足利義詮×細川清氏
 1391年(明徳二年)明徳の乱   山名氏清 ×山名氏清○足利義満
 1467年(応仁元年)応仁の乱   細川勝元 ○細川勝元×山名宗全
 1508年(永正五年)永正の錯乱  内藤貞正ら丹波国人衆(細川高国と同盟) ○細川高国×細川澄元
 1509年(永正六年)如意ヶ嶽合戦 細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元
 1511年(永正八年)船岡山合戦  細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元
 1520年(永正十七年)等持院合戦 細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元

 足利義稙は高国と同道せず、細川田澄元の先遣隊である三好之長を迎え入れて京を差配させました。その結末が等持院合戦での澄元方の敗北です。京を奪還した細川高国は引き続き足利義稙を奉じて管領職務を続けましたが、足利義稙が気まずくなってしまったことには変わりありません。等持院合戦の翌年(大永元年)に足利義稙は京を出奔いたします。その時に足利義稙は奇妙な行動に出ます。その出奔時に養子を連れて和泉・淡路を転々としていたと伝わっているのですね。この養子の名は義賢(後の義維)、1509年(永正六年)生まれの十三歳の少年です。足利義澄の遺児で母親は斯波氏であると伝わっていますが、その幼少時代の経歴はよくわかりません。
 足利義稙の考えを察するに、阿波に落ちるにせよ、阿波細川家を見るに、細川澄元も三好之長も亡くなっていてその勢力再建には時間がかかり、自分の命のあるうちに再建は果たせないと見たからかもしれません。何より自分が京から出て行って京には将軍の成り手がいなくなったわけです。阿波を拠点に調略を進めてゆけば三度の将軍返り咲きもそれほど時間がかからないと考えたわけでしょう。

 しかし、細川高国は足利義稙の予想を超えて強かでした。実は足利義澄の子はもう一人、正室日野阿子との間の息子が、播磨の浦上村宗に撫育されていたというのです。元々は近江国水茎岡山城に籠もっていた足利義澄の死後、城は開城して義澄の遺児は播磨守護の赤松義村に預けられていたのですが、赤松義村が浦上村宗に戦で負けて、村宗に取り上げられたという経緯らしい。名を亀王丸(後の義晴)といいます。日野阿子の息子と書いたのですが、実は亀王丸が生まれた時、日野阿子は出家していたらしいなんて記録もあって、疑義の余地があるといえなくもありません。このあたり、知恵の回る足利義稙にしてはらしくないというか、抜けているというか、まあ等持院合戦でのしくじりを見るに、勘が鈍っていたのかもしれません、また、正平一統の折に弥仁親王(後光厳天皇)の存在を見逃した村上天皇率いる南朝一党や、息子に宗家を相続させておきながら六角佐々木亀寿(満高)の存在を忘れたまま逝去した京極佐々木導誉等の類例があるように、仕掛ける側、かわす側との知恵のせめぎ合いにおいて生じた出来事であり、あまり想像で立ち入ってはいけない領分なのかもしれません。
 細川高国は足利亀王丸を擁立したわけですが、この時わずか十歳でした。高国の養父である細川政元が明応の政変後に足利義澄を立てた時、彼は十五歳。足利義材(義稙)を挟んで管領二代続けて傀儡の幼君を立てたことになり、本来であれば周囲から見放されかねないわけですが、この時足利亀王丸を強力に支持するやんごとなき御方が現れます。後柏原天皇でした。実はこの天皇はとっくに即位したものの、即位の儀式はずっと行えておりませんでした。以前の稿でも紹介したとおり、節約と本願寺などの献金によってようやく目途が立ったタイミングでの足利義稙の出奔だったもので、後柏原天皇はブチ切れました。そして、足利亀王丸の将軍就任を認めたのですね。亀王丸は元服して足利義晴と名乗ります。
 この展開は出奔後阿波に身を寄せた足利義稙には全く予想外のことでした。阿波細川家をみるに、細川澄元は既になく、息子の六郎はわずか七歳の童子です。三好之長も高国に処刑され、嫡男の長秀も高国方に討たれております。後継者である元長はこの時、二十一歳になっていますが、歴戦の手練れである細川高国と争うにはまだ経験値が足りていません。足利義稙はなすすべなく、1523年(大永三年)四月九日、阿波国撫養にて亡くなりました。しかし、彼が遺した後継者は阿波方の後継者と結託して逆転を図る種を遺しました。
 そして、それが芽吹くまではそれほどの時間は必要としませんでした。

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2016年7月 9日 (土)

中漠:天文錯乱編①両細川の乱

 本稿では両細川の乱について記述いたします。割と長期間にわたる戦乱ではあるのですが、本稿だけで軽く済ませてしまおうと思います。

 細川政元が暗殺された後に始まるのが両細川の乱です。斯波家を始めとする有力守護家が分裂する流れをそのまま細川家もたどってゆくことになります。その原因となったと言ってよいのが三好之長でしょう。ここまで実力があってここまで嫌われている人も珍しいと思います。そもそも細川政元が暗殺された理由も、細川澄元が政元の後継者になることが既定路線になって、阿波守護家からお目付役につけられた三好之長の発言力が強くなることを周囲が怖れた為でもありました。細川澄之を担いだ香西・薬師寺を倒してもその構図が変わることはありませんでした。
 足利義尹の上洛を前に、一抜けした細川高国に対して摂津・丹波の国人衆の支持が集まったのも、主に彼らが三好之長を嫌っていたからに他なりません。しかし、彼らはそれまで足利義尹を追い出した細川政元に仕えていた連中です。実際は行われませんでしたが足利義尹による報復も予測されていたはずなのに、それでも細川高国と足利義尹を選んだということはそれでもなお、三好之長につくよりはましと判断されたわけなのでしょう。
 細川高国もまた細川政元の養子ではあるのですが、聡明丸(澄之)や六郎(澄元)とは違って後継となることを当初は期待されていなかったようです。彼を見出したのは他ならぬ足利義尹その人でした。自分につけば管領にしてやると言ったわけでしょう。この頃の足利義尹は細川高国のみならず、大内義興を口説き落として上洛軍を編成させるなどして、非常に冴えておりました。そして、細川高国はよくも悪くも有能な働き者でありました。赤澤長経を河内に派遣するなどして細川政元路線の継承を任じた澄元(三好之長)とは異なり、穏健・堅実なヴィジョンを持っておりました。そうであるが故に三条西実隆のような当代一の文化人との親交を深められたのだと考えられます。細川高国が養父政元や三好之長のようなエキセントリックな性格であれば、山科の本願寺などはあっという間につぶされていたことでしょう。
 しかし、それと同時に政権掌握にあたって一度は惣領と認めた細川澄元を裏切っており、レジマティシー(正統性)に大きな問題を抱えることになります。それ故、彼には常に彼の立場を認めてくれる支持者を必要としておりました。それが足利義尹、後に改名して足利義稙だったわけです。彼は決して足利義尹を裏切ることはしませんでした。それは、足利義尹が細川澄元を敵と見なしている間は実にうまく機能していたわけです。

 一方の三好之長は戦場においては赤澤宗益に匹敵するチートであり、応仁の乱において土一揆を扇動した前科のせいで最期まで人々に怖れられ続けられました。また、一匹狼の赤澤宗益とは違って三好之長は阿波細川家を支える三好一族の惣領でもありました。多少戦略的な過ちを犯してもカバーしてくれる主君や一門衆が揃っておりました。ただ、三好之長は細川高国と比較して武力こそ勝っておりましたが、政治センスと外交能力において大きく水をあけられておりました。しかし、両者共通して備わっていたものがあります。それが粘り強さと諦めの悪さでした。両細川の乱は1508年(永正五年)に細川高国が管領職に就任してから1520年(永正十七年)に三好之長と細川澄元が死ぬまで実に十二年間も続きます。互いの短所を互いの長所でカバーすることによって実力が拮抗し、長期間決着がつかなかったとも言えます。

 両細川の乱は十二年間続いたと書きましたが、その中でターニングポイントとなったのが、以下の三つの合戦です。

1509年(永正 六年)六月 十七日 如意ヶ嶽合戦。
1511年(永正 八年)八月二十三日 船岡山合戦。
1520年(永正十七年)五月  五日 等持院合戦。

 最初の如意ヶ岳合戦は近江国に落ちた足利義澄と細川澄元は京の奪還を画策しておりました。しかし、阿波国がホームの細川澄元にとって近江にあっては募兵もままなりません。そこで三好之長に残存兵力を、京を臨む如意ヶ嶽に集めさせ強襲を試みたのでしたが、逆に大内義興と細川高国に捕捉されて包囲される形になりました。夜になって雨が降ったおかげで澄元・之長主従は戦場を脱出でき、そのまま阿波に落ち延びました。近江には足利義澄が取り残された形になります。彼は水茎岡山城に立て籠もることになりました。

 細川高国は水茎岡山城の足利義澄を攻めますが、なかなか攻めきれないまま二年経過してしまいます。その間に阿波で態勢を立て直した細川澄元率いる阿波細川軍が細川澄元と共に本州へ上陸して一時的に京を奪還します。ところがそのタイミングでそれまで細川高国勢を引き付けていた足利義澄が病死してしまうのですね。この死は秘されていたようですが、澄元方は気力が削がれたこともあったでしょう。また、応仁の乱において大活躍した大内軍が当代においても大きな威力を発揮しました。反対にこの戦いに三好之長は参戦しておりませんでした。京の細川軍を大将として率いていたのは細川政賢だったのですが、戦死、細川澄元は阿波に逃げ帰ります。間の悪いことにこの後阿波守護家の細川成之と持之が相次いで亡くなり、阿波守護家内部の態勢を立て直さなければならなくなりました。

 それによって足利義尹と細川高国・大内義興の体制は安寧を得ます。義尹は義稙と改名し、平和を謳歌するのですが、その平和にかかったコストに耐えられなくなった者がいました。周防国に勢力を張る大内義興でした。彼が領国を留守にしている間に尼子経久をはじめとする辺境勢力との小競り合いが絶えなくなって、領国は常に彼の帰国を促し続けておりました。そして1518年(永正十五年)八月二日、大内義興はついに周防に帰国することとなります。そして彼はその後二度と京に戻ることはありませんでした。
 船岡山合戦の勝利には大内義興の貢献が大でしたが、その義興が抜けることにより、足利義稙の政権基盤の弱体化は避けることができませんでした。

 その機をとらえて阿波細川家は再起動します。1519年(永正十六年)十一月、三好之長は細川高国方の瓦林正頼が守る摂津国越水城を攻め、翌年二月三日に陥落させました。後、瓦林正頼は細川高国から死を賜ることになります。丁度この時京では徳政を求める土一揆が起こっており、摂津上陸軍への対応が遅れます。その遅れは致命的になり、摂津国人衆の守りが瓦解、細川高国は船岡山の時と同様一時京を明け渡すよう進言しますが、義稙はこれを拒否します。実はこの時、澄元方の接触があったようです。土一揆の発生は高国政権に京衆がうんできている証拠であり、長くないものと判断したのかもしれません。いずれにせよ、足利義稙はここで独自行動をとりはじめます。
 細川澄元は三好之長と共に上洛の途についていたのですが、摂津伊丹城に逗留することとなって之長のみが上洛することになりました。この時細川澄元の体は病に冒されていたようです。足利義稙は之長を迎え入れ、洛中の差配を代行させました。しかし、いつまでたってもその主人である細川澄元が上洛する気配がありません。これが病気の為であると洛中の人々に知れわたった時、そこには近江から細川高国と六角定頼軍が丹波から内藤貞正軍が京を包囲していました。三好之長は等持院に陣を張って果敢に戦おうとしましたが、味方の兵は戦意を喪失していました。裏切り・寝返りが相次いで京の三好軍は瓦解します。三好之長は捕虜となって自害させられました。それを聞いた細川澄元も阿波に帰国。間もなく亡くなります。

 以上が両細川の乱のおおまかな経緯ですが、この戦いは決定的な副産物を生みだします。三好之長の上洛を受け入れた足利義稙に対する細川高国の不信と細川高国に対する足利義稙の負い目でした。

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