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2016年7月 9日 (土)

中漠:天文錯乱編①両細川の乱

 本稿では両細川の乱について記述いたします。割と長期間にわたる戦乱ではあるのですが、本稿だけで軽く済ませてしまおうと思います。

 細川政元が暗殺された後に始まるのが両細川の乱です。斯波家を始めとする有力守護家が分裂する流れをそのまま細川家もたどってゆくことになります。その原因となったと言ってよいのが三好之長でしょう。ここまで実力があってここまで嫌われている人も珍しいと思います。そもそも細川政元が暗殺された理由も、細川澄元が政元の後継者になることが既定路線になって、阿波守護家からお目付役につけられた三好之長の発言力が強くなることを周囲が怖れた為でもありました。細川澄之を担いだ香西・薬師寺を倒してもその構図が変わることはありませんでした。
 足利義尹の上洛を前に、一抜けした細川高国に対して摂津・丹波の国人衆の支持が集まったのも、主に彼らが三好之長を嫌っていたからに他なりません。しかし、彼らはそれまで足利義尹を追い出した細川政元に仕えていた連中です。実際は行われませんでしたが足利義尹による報復も予測されていたはずなのに、それでも細川高国と足利義尹を選んだということはそれでもなお、三好之長につくよりはましと判断されたわけなのでしょう。
 細川高国もまた細川政元の養子ではあるのですが、聡明丸(澄之)や六郎(澄元)とは違って後継となることを当初は期待されていなかったようです。彼を見出したのは他ならぬ足利義尹その人でした。自分につけば管領にしてやると言ったわけでしょう。この頃の足利義尹は細川高国のみならず、大内義興を口説き落として上洛軍を編成させるなどして、非常に冴えておりました。そして、細川高国はよくも悪くも有能な働き者でありました。赤澤長経を河内に派遣するなどして細川政元路線の継承を任じた澄元(三好之長)とは異なり、穏健・堅実なヴィジョンを持っておりました。そうであるが故に三条西実隆のような当代一の文化人との親交を深められたのだと考えられます。細川高国が養父政元や三好之長のようなエキセントリックな性格であれば、山科の本願寺などはあっという間につぶされていたことでしょう。
 しかし、それと同時に政権掌握にあたって一度は惣領と認めた細川澄元を裏切っており、レジマティシー(正統性)に大きな問題を抱えることになります。それ故、彼には常に彼の立場を認めてくれる支持者を必要としておりました。それが足利義尹、後に改名して足利義稙だったわけです。彼は決して足利義尹を裏切ることはしませんでした。それは、足利義尹が細川澄元を敵と見なしている間は実にうまく機能していたわけです。

 一方の三好之長は戦場においては赤澤宗益に匹敵するチートであり、応仁の乱において土一揆を扇動した前科のせいで最期まで人々に怖れられ続けられました。また、一匹狼の赤澤宗益とは違って三好之長は阿波細川家を支える三好一族の惣領でもありました。多少戦略的な過ちを犯してもカバーしてくれる主君や一門衆が揃っておりました。ただ、三好之長は細川高国と比較して武力こそ勝っておりましたが、政治センスと外交能力において大きく水をあけられておりました。しかし、両者共通して備わっていたものがあります。それが粘り強さと諦めの悪さでした。両細川の乱は1508年(永正五年)に細川高国が管領職に就任してから1520年(永正十七年)に三好之長と細川澄元が死ぬまで実に十二年間も続きます。互いの短所を互いの長所でカバーすることによって実力が拮抗し、長期間決着がつかなかったとも言えます。

 両細川の乱は十二年間続いたと書きましたが、その中でターニングポイントとなったのが、以下の三つの合戦です。

1509年(永正 六年)六月 十七日 如意ヶ嶽合戦。
1511年(永正 八年)八月二十三日 船岡山合戦。
1520年(永正十七年)五月  五日 等持院合戦。

 最初の如意ヶ岳合戦は近江国に落ちた足利義澄と細川澄元は京の奪還を画策しておりました。しかし、阿波国がホームの細川澄元にとって近江にあっては募兵もままなりません。そこで三好之長に残存兵力を、京を臨む如意ヶ嶽に集めさせ強襲を試みたのでしたが、逆に大内義興と細川高国に捕捉されて包囲される形になりました。夜になって雨が降ったおかげで澄元・之長主従は戦場を脱出でき、そのまま阿波に落ち延びました。近江には足利義澄が取り残された形になります。彼は水茎岡山城に立て籠もることになりました。

 細川高国は水茎岡山城の足利義澄を攻めますが、なかなか攻めきれないまま二年経過してしまいます。その間に阿波で態勢を立て直した細川澄元率いる阿波細川軍が細川澄元と共に本州へ上陸して一時的に京を奪還します。ところがそのタイミングでそれまで細川高国勢を引き付けていた足利義澄が病死してしまうのですね。この死は秘されていたようですが、澄元方は気力が削がれたこともあったでしょう。また、応仁の乱において大活躍した大内軍が当代においても大きな威力を発揮しました。反対にこの戦いに三好之長は参戦しておりませんでした。京の細川軍を大将として率いていたのは細川政賢だったのですが、戦死、細川澄元は阿波に逃げ帰ります。間の悪いことにこの後阿波守護家の細川成之と持之が相次いで亡くなり、阿波守護家内部の態勢を立て直さなければならなくなりました。

 それによって足利義尹と細川高国・大内義興の体制は安寧を得ます。義尹は義稙と改名し、平和を謳歌するのですが、その平和にかかったコストに耐えられなくなった者がいました。周防国に勢力を張る大内義興でした。彼が領国を留守にしている間に尼子経久をはじめとする辺境勢力との小競り合いが絶えなくなって、領国は常に彼の帰国を促し続けておりました。そして1518年(永正十五年)八月二日、大内義興はついに周防に帰国することとなります。そして彼はその後二度と京に戻ることはありませんでした。
 船岡山合戦の勝利には大内義興の貢献が大でしたが、その義興が抜けることにより、足利義稙の政権基盤の弱体化は避けることができませんでした。

 その機をとらえて阿波細川家は再起動します。1519年(永正十六年)十一月、三好之長は細川高国方の瓦林正頼が守る摂津国越水城を攻め、翌年二月三日に陥落させました。後、瓦林正頼は細川高国から死を賜ることになります。丁度この時京では徳政を求める土一揆が起こっており、摂津上陸軍への対応が遅れます。その遅れは致命的になり、摂津国人衆の守りが瓦解、細川高国は船岡山の時と同様一時京を明け渡すよう進言しますが、義稙はこれを拒否します。実はこの時、澄元方の接触があったようです。土一揆の発生は高国政権に京衆がうんできている証拠であり、長くないものと判断したのかもしれません。いずれにせよ、足利義稙はここで独自行動をとりはじめます。
 細川澄元は三好之長と共に上洛の途についていたのですが、摂津伊丹城に逗留することとなって之長のみが上洛することになりました。この時細川澄元の体は病に冒されていたようです。足利義稙は之長を迎え入れ、洛中の差配を代行させました。しかし、いつまでたってもその主人である細川澄元が上洛する気配がありません。これが病気の為であると洛中の人々に知れわたった時、そこには近江から細川高国と六角定頼軍が丹波から内藤貞正軍が京を包囲していました。三好之長は等持院に陣を張って果敢に戦おうとしましたが、味方の兵は戦意を喪失していました。裏切り・寝返りが相次いで京の三好軍は瓦解します。三好之長は捕虜となって自害させられました。それを聞いた細川澄元も阿波に帰国。間もなく亡くなります。

 以上が両細川の乱のおおまかな経緯ですが、この戦いは決定的な副産物を生みだします。三好之長の上洛を受け入れた足利義稙に対する細川高国の不信と細川高国に対する足利義稙の負い目でした。

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