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2016年7月16日 (土)

中漠:天文錯乱編②足利義稙の脱落

 狭義の両細川の乱は細川高国と細川澄元の二人の戦いであり、澄元が死んだ永正十七年で一端の決着がつくわけではありますが、1552年(天文二十一年)に細川高国の養子である細川氏綱が三好長慶に擁立されて細川京兆家を相続するまで高国系と澄元系という両細川氏の対立は続きます。
 とりあえず本稿においては天文の錯乱の前史として、細川高国の絶頂と没落までをかっとばしてゆきます。

 等持院合戦で露わになったのは、足利義稙の王者としての資質のなさでした。彼は強烈な上昇志向の持ち主ですし、永正の錯乱時には上手く期をつかみ、三好之長とその他の細川京兆家内衆たちとが不仲である間隙をついて調略を成功させるほどの頭の良さを持っていました。かつて船岡山合戦で細川澄元勢を蹴散らした大内義興が脱落している以上、抵抗は無益と考えたのでありましょう。義稙(義尹)を十二年間支えた管領を失うことになりますが、それとて室町幕府の存続に比べるなら些事に見えたのでしょう。しかも、この時の細川澄元には奉じるべき旗印がありませんでした。足利義稙が澄元の誘いに乗ったのは、必ずしも理由のない話ではなかったのです。
 しかし、足利義稙は管領細川高国の実力と丹波国の戦略的価値を完全に見落としておりました。これ以前の京の攻防戦を見ても、明徳の乱の山名氏清(京都占領を目的とした内野合戦で戦死)を除けば丹波国を押さえずして長期の京都確保は成立しません。逆に敵に京都を占領させてから攻撃する戦術が有効であり、その拠点として丹波国は重要な意味を持つのです。

○丹波の支配者から見た京の攻防戦の勝敗表
 1333年(元弘三年)六波羅滅亡  足利高氏 ○足利高氏×六波羅探題
 1336年(建武三年)東寺合戦   仁木頼章 ○足利尊氏×南朝軍
 1352年(観応三年)正平一統   仁木頼章 ○足利尊氏×南朝軍
 1353年(文和二年)山名時氏侵攻 高師詮  ○足利尊氏×山名時氏
 1355年(文和四年)足利直冬侵攻 仁木頼勝 ○足利尊氏×足利直冬
  1360年(延文五年)細川清氏侵攻 仁木義尹 ○足利義詮×細川清氏
 1391年(明徳二年)明徳の乱   山名氏清 ×山名氏清○足利義満
 1467年(応仁元年)応仁の乱   細川勝元 ○細川勝元×山名宗全
 1508年(永正五年)永正の錯乱  内藤貞正ら丹波国人衆(細川高国と同盟) ○細川高国×細川澄元
 1509年(永正六年)如意ヶ嶽合戦 細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元
 1511年(永正八年)船岡山合戦  細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元
 1520年(永正十七年)等持院合戦 細川高国内衆 ○細川高国×細川澄元

 足利義稙は高国と同道せず、細川田澄元の先遣隊である三好之長を迎え入れて京を差配させました。その結末が等持院合戦での澄元方の敗北です。京を奪還した細川高国は引き続き足利義稙を奉じて管領職務を続けましたが、足利義稙が気まずくなってしまったことには変わりありません。等持院合戦の翌年(大永元年)に足利義稙は京を出奔いたします。その時に足利義稙は奇妙な行動に出ます。その出奔時に養子を連れて和泉・淡路を転々としていたと伝わっているのですね。この養子の名は義賢(後の義維)、1509年(永正六年)生まれの十三歳の少年です。足利義澄の遺児で母親は斯波氏であると伝わっていますが、その幼少時代の経歴はよくわかりません。
 足利義稙の考えを察するに、阿波に落ちるにせよ、阿波細川家を見るに、細川澄元も三好之長も亡くなっていてその勢力再建には時間がかかり、自分の命のあるうちに再建は果たせないと見たからかもしれません。何より自分が京から出て行って京には将軍の成り手がいなくなったわけです。阿波を拠点に調略を進めてゆけば三度の将軍返り咲きもそれほど時間がかからないと考えたわけでしょう。

 しかし、細川高国は足利義稙の予想を超えて強かでした。実は足利義澄の子はもう一人、正室日野阿子との間の息子が、播磨の浦上村宗に撫育されていたというのです。元々は近江国水茎岡山城に籠もっていた足利義澄の死後、城は開城して義澄の遺児は播磨守護の赤松義村に預けられていたのですが、赤松義村が浦上村宗に戦で負けて、村宗に取り上げられたという経緯らしい。名を亀王丸(後の義晴)といいます。日野阿子の息子と書いたのですが、実は亀王丸が生まれた時、日野阿子は出家していたらしいなんて記録もあって、疑義の余地があるといえなくもありません。このあたり、知恵の回る足利義稙にしてはらしくないというか、抜けているというか、まあ等持院合戦でのしくじりを見るに、勘が鈍っていたのかもしれません、また、正平一統の折に弥仁親王(後光厳天皇)の存在を見逃した村上天皇率いる南朝一党や、息子に宗家を相続させておきながら六角佐々木亀寿(満高)の存在を忘れたまま逝去した京極佐々木導誉等の類例があるように、仕掛ける側、かわす側との知恵のせめぎ合いにおいて生じた出来事であり、あまり想像で立ち入ってはいけない領分なのかもしれません。
 細川高国は足利亀王丸を擁立したわけですが、この時わずか十歳でした。高国の養父である細川政元が明応の政変後に足利義澄を立てた時、彼は十五歳。足利義材(義稙)を挟んで管領二代続けて傀儡の幼君を立てたことになり、本来であれば周囲から見放されかねないわけですが、この時足利亀王丸を強力に支持するやんごとなき御方が現れます。後柏原天皇でした。実はこの天皇はとっくに即位したものの、即位の儀式はずっと行えておりませんでした。以前の稿でも紹介したとおり、節約と本願寺などの献金によってようやく目途が立ったタイミングでの足利義稙の出奔だったもので、後柏原天皇はブチ切れました。そして、足利亀王丸の将軍就任を認めたのですね。亀王丸は元服して足利義晴と名乗ります。
 この展開は出奔後阿波に身を寄せた足利義稙には全く予想外のことでした。阿波細川家をみるに、細川澄元は既になく、息子の六郎はわずか七歳の童子です。三好之長も高国に処刑され、嫡男の長秀も高国方に討たれております。後継者である元長はこの時、二十一歳になっていますが、歴戦の手練れである細川高国と争うにはまだ経験値が足りていません。足利義稙はなすすべなく、1523年(大永三年)四月九日、阿波国撫養にて亡くなりました。しかし、彼が遺した後継者は阿波方の後継者と結託して逆転を図る種を遺しました。
 そして、それが芽吹くまではそれほどの時間は必要としませんでした。

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