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2016年7月30日 (土)

中漠:天文錯乱編④大物崩れ

 細川高国は丹波を失なった状況で洛中の戦いに利がないことを承知しておりました。そこで今回は等持院合戦の轍を踏まずに室町殿の足利義晴を連れて近江国朽木に逃れます。一度は朝倉孝景を口説き落として京都を回復しますが、丹波を押さえられた状況では占領も長続きしませんでした。朝倉家の消極姿勢もあったと言います。
 この時、足利義稙が阿波に遺した足利義維(義賢改め)は堺に進出。船岡山、等持院両合戦の苦い経験から、かつてより有利な条件ではあったものの今回は容易に上洛戦は仕掛けません。堺に幕府を開いてそこから諸侯に号令をかける体制を構築します。
 京においては三好元長が先遣隊としてはいり、先に上洛した柳本賢治と合流しますが、この二人もまた相性がよくありませんでした。先代(正確には先々代)の三好之長の悪名が、なおも尾を引いていたようです。結局の所三好元長は京を追い出される格好になります。柳本賢治としては、阿波細川家による統治はいま一つしっくりこないもののように感じ始めます。そこで近江国朽木にいた足利義晴と密かに通じて義維と和睦の上での帰洛を促す工作を始めました。

 細川高国はこの時近江にはいませんでした。どこにいたかと言うと播磨の浦上村宗を頼っておりました。朝倉家を見限ってのことです。細川高国は足利義晴擁立にあたり、幼い義晴を保護していた浦上村宗と誼を通じておりました。この時の浦上村宗は播磨・備前・美作三国において主家赤松家を凌駕する勢力を築いておりました。そして近江朽木に籠居する足利義晴を救い出して室町幕府を再興する使命に燃えておりました。とは言え、おそらくはこの時点で高国が戦う理由はほぼなくなっていたはずです。
 彼が管領になったのは足利義尹(義稙)に宛がわれたからです。彼には拒否する選択肢もあったはずですが、それを受けたのは細川澄元の政権が細川政元の路線を引き継ぐことに限界と反発を感じていたからでありましょう。彼が敷いた路線の正しさは如意ヶ嶽合戦、船岡山合戦、等持院合戦の三つの戦いで証明されました。この時代の戦いは戦力よりもいかに支持を保つかが重要な要因になります。高国は畿内諸勢力を巧みに結束させて細川澄元の反撃をことごとく封じたのでした。特に等持院合戦においては大内義興という足利義稙の虎の子を欠いての勝利でした。細川高国の強さは周辺諸国の支持の厚さにあったと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、香西元盛の誅殺で丹波衆の支持を失ない、桂川原合戦で敗北し、朝倉氏からも十全な協力を得られない今、細川高国の支持基盤は崩壊しておりました。それでも将軍家への忠節という動機は残っているものの、現将軍足利義晴は細川高国が担ぎあげた傀儡でした。義稙出奔で激怒した後柏原天皇が支持してくれたとはいえ、前将軍の義稙が自らの後継として選んだのは義賢(義維)の方であり、筋としてはこちらの方に分があります。
 阿波細川氏のみを敵として周辺諸国をまとめあげ、現状維持に必死になってきた高国には自らが擁した足利義晴を頂点とした支配体制の理想像は現状維持しかなかったのですが、その現状を喪失した今、それでも前に進むために細川高国は支持を得るための政権構想を打ち立てて世に問わねばならなかったはずですが、高国にはそれを行うための能力と時間が与えられておりませんでした。そのあたりが朝倉氏を動かせなかった理由でもあったのでしょう。
 対して浦上村宗には拡大した自らの勢力を担保した上でさらに拡大したいという野心がありました。実は浦上村宗は勢力拡大の過程で色々無理を重ねておりました。1521年(大永元年)九月に主君赤松義村を暗殺し、播磨国の実権を簒奪していたのです。下剋上を行った彼が必要としていたのは正統性の確保でした。流亡の管領を助けることで政権を立て直しに協力した功績で、播磨、備前、美作三国の支配権を確立したい思惑があったのです。高国・村宗連合軍は東征に動き出しました。

 一方の阿波・丹波連合は烏合の衆で統制を欠いておりました。柳本賢治は三好元長を追い出した手前、自ら洛中洛外の政務を切り盛りしなければならない立場になっておりました。柳本賢治もまた、自らの統治の正統性を担保することを必要としていたのです。柳本賢治は管領でも守護でもありませんので、実力行使以外の権限の進め方がなく、発足間もない堺幕府に一々指示を仰いでいては何も進まないばかりか、現場を知らない者の判断は往々にして頓珍漢なものになりがちで有害です。ここに至って柳本賢治にも細川高国の苦労の一端を味わうに至ります。状況改善に必死になって考えた彼の解が朽木にいる足利義晴と堺の足利義維との和睦でした。これによって細川高国・浦上村宗挙兵の大義名分がなくなることを策したわけですが、この虫のいい提案は足利義維に拒否をされます。世が世なれば幕府将軍として諸侯を率いるべき立場にある者が、阿波で何年も逼塞を強いられていたのですから、当然と言えば当然です。しかし、この提案はこの後、状況がもっと悪化した後で再び芽吹くことになります。結果から見れば一考に値する提案であったと言えたかも知れません。そして堺幕府からは高国・村宗連合軍を迎撃せよと命じられるのでした。

 止む無く柳本賢治は軍を播磨に進めますが、依藤城攻囲中に陣没。暗殺されたとのことです。これを契機に高国・村宗連合軍は摂津に侵入。同時に近江からの勢力が一時的に京を占拠します。ここに至って堺幕府は三好元長を再起用し、連合軍に占領されていた摂津国の防衛拠点である中嶋に派遣。両軍はここに対峙することになります。
 ところがここで連合軍側に裏切りが生じました。後詰めとして神呪寺に配置していた赤松政村が叛旗を掲げて堺幕府方に寝返ったのでした。中嶋に詰めていた連合軍からは離脱者が続出、その間隙に三好元長が一気にこれに襲い掛かりました。ここで細川高国、浦上村宗だけではなく、波々伯部兵庫助を初めとする側近衆までが討ち取られてしまう大惨敗を喫してしまいました。

 細川高国は決して無能の徒ではなく、ひたすら現状維持を求めて戦い続け、その能力に見合った戦果も挙げ続けていました。しかし、武威を示すだけでは終わらないのが戦国時代。最後は支持を失なって保守すべきものを見失ったことが彼の敗因であったのかも知れません。

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