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2016年8月27日 (土)

中漠:天文錯乱編⑧楞厳寺寺伝の謎

  話の脱線は本稿が最後です。本当は足利義満時代の華蔵義曇という僧号の読みから、戦国時代今川家に起きた花倉の乱に繋ぐつもりだったのですが、先に天文の錯乱に至る流れの方に戻します。今川家の宗旨は義元の代になってから大きな転機を迎えるのですが、それ以前の永正・大永年間における斯波義達と吉良義信・義堯親子の動きもここで追っておきたかったので脱線してしまいました。本稿は脱線ついでにさらに本筋から離れた話になっています。

 先に、華蔵義曇の話の中で、一代で十三門派を形成した話をしました。その十三門派の一つに三河国刈谷の楞厳寺という寺があります。ここは後に水野忠政が菩提寺にして徳川家康の母於大がよく参拝したことで知られております。ここの寺伝の記述が色々矛盾に満ちていて、興味深いものがあります。

 その寺伝のあらましですが、楞厳寺は1413年(応永二十年)に普済寺の華蔵義曇の弟子、利山義聡が開山したことになっています。ところが、普済寺の開基{1432年(永享四年)}はもちろん、その前身である隨縁寺の開基年代{1428年(正長元年)}と比べても過去に遡っております。さらに言うなら利山義聡はこの十年前の1403年(応永十年)にこの土地を先住していた庭巌門公の帰依を受けて海会寺という寺にしています。楞厳寺はその寺地を広げて作られた寺です。
 華蔵義曇は1375年(永和元年)に誕生し、十歳にして肥後国海蔵寺で出家、参学二十年にして印可を得ておりますので、華蔵義曇が一人前の禅僧として独り立ちできたのは、1404年(応永十一年)前後ということになり、それ以前に弟子をとれるはずはありません。また、華蔵義曇は1413年(応永二十年)に肥後海蔵寺にいた記録が残っております。
 よって、海会寺開山の時点で利山義聡が華蔵義曇の弟子だったとは考えにくいし、楞厳寺開山の時点で普済寺は建立されていなかったし、華蔵義曇も九州にいたのです。

 この矛盾について単純に考えるなら、楞厳寺の創建年代をさらに後代に設定すればよいのでしょう。華蔵義曇十三門派に属する他寺院の創建年を分かる範囲で調べてみたのですが、いずれも普済寺創建以降の話でした。同様に楞厳寺の創建もそれ以降の話というのであれば、「普済寺の利山義聡」が刈谷に楞厳寺を建てたという話はすっきりします。

禅宗寺院の寺伝にはしばしば年代を無視した記述がみられます。例えば、相国寺の開山は夢窓疎石なのですが、相国寺の創建は1382年(永徳二年)で、夢窓疎石の没年はそれ以前の1351年(観応二年)で、開山=寺院を作った人という意味で解するなら、明らかに矛盾しています。これは実際に寺院を創建した春屋妙葩が、自らの師を称揚するために既に没している夢窓疎石を開山に据えて自らは二世住持として寺を管理するという体裁を取ったためです。

 ただ、楞厳寺が古刹にも関わらずこの矛盾を放置したままにしていることは気になります。なので、このあたりの事情を少し調べてみました。華蔵義曇の弟子の一人に誓海義本という人物がいます。彼は普済寺二世住持にして、嘉吉年間に尾張国に圓通寺という曹洞宗寺院を建てました。彼は熱田宮司の田嶋仲宗と言う人物の子息であるそうです。
 彼の伝記によると、1391年(明徳二年)に誕生し、1403年(応永十年)、十三歳の時に得度して肥後国海蔵寺で修行をはじめたそうです。すなわち、この時点で尾張国と肥後の海蔵寺との間で華蔵派の交流があったことが示唆されます。そして、その年は利山義聡が尾張国刈谷に海会寺(楞厳寺の前身)を立ち上げたとされる年でもありました。同時に、遠江国袋井に太源・恕仲派の物外性応が今川了俊の隠居所として海蔵寺を建てた年でもあります。

 尾張国と肥後海蔵寺を結ぶ線は今川仲秋にあったのではないかと思います。彼は1393年(明徳四年)に尾張守護に任じられています。それ以前は九州探題の兄、今川了俊に従って九州征服にいそしんでいました。1384年(至徳元年)に南朝征西府は肥後国宇土に根拠地を移します。宇土の近辺には華蔵義曇の修行した海蔵寺やその本寺である大慈寺があったわけです。その宇土の征西府は九州探題によって征服され、寒巌派の寺院もその保護下に入ったものと言えるでしょう。
 かくして、今川兄弟による九州征服は成功裡に終わったのですが、狡兎死して走狗煮らるのたとえどおり、今川了俊は突然九州探題を解任されてしまいました。今川了俊は管領の細川頼之が後ろ盾になっていたのですが、斯波義将との政争に敗れて失脚してしまったのですね。
 さらに悪いことに、今川兄弟の九州征服を援護してくれていた大内義弘が1399年(応永六年)に幕府に対して反乱を起こして滅ぼされてしまいました。今川了俊はこの反乱への関与を疑われて政界引退を余儀なくされるわけですが、その余波は弟にも及び、1400年(応永七年)今川仲秋は尾張守護を解かれてしまいました。その後も了俊の処遇にたいしては、幕府と今川家の間で折衝が続き、結局1402年(応永九年)に隠居という形で落ち着くわけです。
 今川仲秋は兄の隠居所として「海蔵寺」を建てますが、かつて九州王だった男の隠居所を九州に地盤を持つ教団に運営させては、いつ何時幕府に反乱の疑いをかけられるともわかりませんでした。それはすなわち、宗家を含む今川一門の滅亡を意味します。よって、隠居所の管理は同じ道元の教えの流れを汲んでいても別系の物外性応(太源・恕仲派)に頼み、寒巌派とは一応の距離を置いたものと見てよさそうです。

 これを踏まえて利山義聡や誓海義本の動きを考えるなら、やはり利山義聡は尾張守護今川仲秋の保護を当てにして尾張に来ていた寒巌派僧であり、彼または彼の同志が熱田宮司に取り入って子弟教育を任されていたのではないかと想像します。それが今川仲秋の守護解任とその政敵である斯波義重の新守護就任で今川家の保護がふいになってしまい、彼らは自分で地盤を築かねばならなくなりました。よって、利山義聡は隣国三河国境の刈谷に退き、一方で宮司の息子は肥後で教育を継続させたのではないでしょうか。心配のし過ぎのようにも見えますが、妙心寺がそれで倒産に追い込まれたこともあり、あながち突飛な発想でもないでしょう。

 利山義聡はその後も様子を見つつ粘り強く活動を継続した結果、華蔵義曇が吉良義尚の外護を受けられることになり、普済寺の完成時に正式な印可を受けたとみるならば、一応のつじつまは合うかと思われます。
 その仮定に立つと、利山義聡は寒巌派東海進出のパイオニアであったと言えるかもしれませんが、相国寺開山のたとえにもあるように、禅僧はまず師匠を前にたてるものなので、自らはあくまでも普済寺華蔵義曇の弟子に徹したのでありましょう。ある種の奥ゆかしさも感じます。

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2016年8月20日 (土)

中漠:天文錯乱編⑦今川家の宗旨報告書Ⅳ(今川了俊②)

 華蔵義曇が九州肥後国からわざわざ東海地方の遠江国まで遊歴してきた理由は、やはり今川了俊の九州征服の印象が強かったからではないかと思っております。今川了俊が九州に来たとき、彼が何らかの形で彼らの禅宗に対する興味を示したのではないでしょうか? 事実、今川了俊は政界引退後、海蔵寺という曹洞宗寺院を建てるわけですが、その寺号は、華蔵義曇が肥後国で修行した寺院と同じ名前でした。今川了俊と肥後海蔵寺を繋ぐ物的証拠はないのですが、偶然とは考えにくいのです。
 しかし、華蔵義曇が遠江国に入った折には今川了俊は既になく、海蔵寺という菩提寺が物外性応によって営まれておりました。物外性応と華蔵義曇は同じ道元を祖とする曹洞宗ではありましたが、寒巌義尹流と徹通義介・瑩山紹瑾流の異なる流派に分かれており、この時点では同門意識は希薄だったのではないかと思われます。

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 遠江今川家も了俊の頃は破竹の勢いて九州に進撃しておりましたが、すでに了俊本人はおらず、遠江今川家も遠江守護職を失って堀越近辺を治める国人領主にまで落魄しておりました。華蔵義曇は時の遠江今川家当主(貞臣か?)に外護を求めたが、財政上の理由か物外性応の干渉(当然のことだと思います)によって断られたのでしょう。ただ、遠江今川家当主も今川了俊の遺徳を頼って遥々肥後からやってきた僧侶を無下に帰すこともためらわれたのでしょう。了俊の娘が吉良家に嫁いでおりました。吉良家は今川家にとって本家筋にあたります。時の吉良家当主は義尚と言い、了俊の孫にあたり、三河国西尾と遠江国曳馬(引馬・現浜松)に領地を持っております。その義尚を華蔵義曇に紹介したとしてもおかしくはないでしょう。
 吉良義尚は華蔵義曇を迎え入れ、曳馬にほど近い寺島の地に随縁寺という寺を建てます。寺号を読み下すなら縁(えにし)に随(した)がうとなり、了俊の縁であるようにも読むことができます。ただ、地方に残る説話だと吉良義尚は外出中に華蔵義曇に偶然出会ったことになっております。了俊は足利義満に謀反を疑われていたこともありましたので、九州での縁は表に出せない話だったのかもしれません。この隨縁寺は洪水にあって無くなってしまうのですが、遠江国広沢に寺基を移して寺号を普済寺に改めます。華蔵義曇はここを拠点に遠江国・三河国に末寺を広げ東海における寒巌派曹洞宗を広めてゆくことになります。

 禅宗僧の名前は通常四文字で構成されておりますが、本来の戒名は四文字中の後半二文字で、前半二文字は道号と呼ばれて禅宗においては修行場所や本人所縁の場所にちなんだ号がつけられるそうです。華蔵義曇の場合は華蔵(けぞう)になるのですが、この華蔵は意味を変えずに漢字を置きかえると花蔵、花倉(はなくら)になります。ここから一気に花倉殿と呼ばれた玄広恵探の話に飛びたいところですが、もう少し下拵えを行います。
 吉良一族の本貫地である三河国吉良荘に金星山華蔵寺という寺がありました。もともとは真言宗を宗旨とする寺院だったのですが、江戸期に入って時の当主吉良義定が妙心寺派臨済宗に宗旨を改め、片岡山華蔵寺とした上で菩提寺にしております。それ以前の吉良氏の菩提寺は実相寺と言い、臨済宗東福寺の円爾が1271年(文永八年)に建てており、ここを使っておりました。但し、吉良氏の本家に当たる足利氏は鎌倉に浄妙寺という臨済宗の菩提寺を持っていたのと同時に、下野国に鑁阿寺という真言宗の菩提寺を持っておりました。これを援用して考えるに、足利分家である吉良家も臨済宗寺院のほかに真言宗の菩提寺を持っていた可能性があります。だとするならば、吉良氏の本貫地である吉良荘にあった華蔵寺はその候補になり得ると考えられるでしょう。1349年(貞和五年)にはこの寺で東福寺・実相寺で住持を務めた一峰明一が示寂しております。さらに1404年(応永十一年)、吉良義尚、大河内氏、巨海氏の援助で華蔵寺内に華厳道場が建ち、大蔵経の経蔵も建立されたとあります。これは吉良義尚が華蔵義曇に出会う以前の話であります。江戸期に入って吉良義定が新たな菩提寺を求めたのは、三河一向一揆によって時の吉良家当主吉良義昭が追い出されて以来、父親の義安が徳川家康の家臣になることによって三河に戻るまで三河に吉良氏は不在だったからです。新たな菩提寺を求めるにしても、おそらくは過去の因縁に基づいて選択されたでしょうから、金星山華蔵寺は吉良氏の真言宗菩提寺だった可能性はあります。ちなみに、吉良義安の院号は華蔵寺殿であり、養父の東条吉良持広の院号は華岳寺殿になっております。吉良家分裂後は東条吉良家によって管理されていたことが伺えるかもしれません。吉良家分裂前の貞和年間には実相寺出身の一峰明一が住持を務めた記録もあるそうですので、華蔵寺は吉良家にとっては重要な寺の一つだったと言えるでしょう。

 吉良義尚の外護を受けた華蔵義曇は猛烈な勢いで末寺を増やし、一代で十三門派を従える勢力になりました。吉良義尚の信任の篤さ故と言えるのですが、吉良家にとっての「華蔵」の意味合いの大きさを考えると、「華蔵」の道号は吉良家から贈られたものであり、その信任故に早い勢力拡張がなったということができるかもしれません。

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2016年8月13日 (土)

中漠:天文錯乱編⑥今川家の宗旨報告書Ⅲ(今川了俊)

 今川家の収支報告書として、曹洞編で二つの記事をかいております。本稿からしばらく、東海地方における斯波・吉良・今川、足利一門三家の関係について描写をしてゆきたいと思います。吉良家が南北朝の風雲に乗り損なって守護として国を任されるようになることはなかった話は既にしておりますので、その後に起こった今川了俊の台頭と斯波家の東海進出あたりの時代描写になります。前稿からはずっと時代が遡ってしまいますが、戦国期の尾・三・遠三国の情勢の背景として、斯波・吉良・今川三家のこの時代の動向を少し追ってゆくこととします。

 曹洞宗の開祖、道元の弟子の一人に、寒巌義尹という皇族出身の僧がおりました。彼は師である道元入寂後、南宋にわたり帰国後は永平寺に戻らず、九州は肥後国に大慈寺という寺を建てて九州に教えを広めておりました。その後、九州は菊池、少弐、足利直冬、懐良親王等の群雄が相戦う状況でしたが、最終的な勝利を得たのは今川了俊という武将でした。今川了俊は、1372年(応安五年)に大宰府を奪回すると、隈部・染土、宇土、八代と懐良・良成両親王の拠点を次々に攻略し、最終的には筑後矢部に良成親王を逼塞させるに至りました。(懐良親王はその途上で亡くなっております)今川了俊の九州征服をもって足利幕府の天下統一は成ったわけですが、それと同時に彼は狡猾な兎が死んだ後の走狗となっていたのですね。
 時の将軍、足利義満は適当な理由をつけて今川了俊を九州探題から解任し、彼と彼の弟の仲秋二人を遠江守護に押し込めてしまいました。そればかりか、今川了俊とともに九州平定に功績のあった大内義弘を挑発し、反乱を起こさせて討ってしまいます。この時、足利義満は大内義弘の反乱をよいことに、その嫌疑を今川了俊にも向け、挑発しますが了俊はそれには乗らず、領地を返上して引退することになります。そんな了俊の為に弟仲秋(彼は了俊の養子でもあります)が建立した寺が海蔵寺と言う曹洞宗寺院です。了俊は1367年(貞治六年)に足利義詮の死をきっかけに一度出家しておりますが、その時点で了俊と曹洞宗の接点は考えにくく、了俊の号は清和源氏に所縁深い真言宗か、臨済宗のものであったと思われます。了俊号の初出が東寺関連のものであることを考えると真言宗の可能性が高いのかもしれません。

 さて、今川了俊と曹洞宗との関わりを考えるに、今川了俊が良成親王を追い詰めるルート上に宇土という土地があります。天草半島の付け根部分、肥後国を南北に分かつ緑川河口にある在所です。良成親王はここに1384年(至徳元年)から六年間、征西府をおいて今川軍に相対したわけですが、その緑川上流、五~六キロ遡った所にある中洲にあったのが大慈寺です。ここは寒巌義尹が開山し寒巌派の拠点とした寺院です。大慈寺は近辺に末寺を有していました。その一つが宇土の征西府北方五キロほどの場所にある海蔵寺です。ここは寒巌義尹の曾孫弟子にあたる梅巌義東が開いた寺でした。今川了俊がこの宇土の征西府を北方から攻略しようとするならば、大慈寺、海蔵寺の両寺院を押さえた可能性はあるんじゃないかと思います。但し、そのような記録は私自身お目にかかっておりませんのであくまで推測です。
 
 遠江国海蔵寺が建立されたのは、1403年(応永十年)で今川了俊が足利義満に政界引退を宣言させられた後のことです。寺地は堀越館という今川了俊邸の一角にあり、この時点で了俊は曹洞宗に宗旨を変えていたとみてもよいでしょう。但し、法流は寒巌義尹のものではなく、三代争論で永平寺を去った徹通義介の流れをくむ能登総持寺峨山から恕仲の流派の物外性応によるものです。政界引退をさせられて、余生を遠江で過ごすことになった了俊は、九州で出会った曹洞禅に興味を持ったものの、九州との往来は遠いので、近場で曹洞宗を求めた所、物外性応に出会ったという推測も成り立つと思います。海蔵寺のある袋井から北にある森町という所に物外性応の師である恕仲の開いた崇信寺という寺があります。

 足利義満による今川家の処分は了俊の政界引退だけは済まされなかったようで、1405年(応永十二年)斯波義重が遠江守護に任じられます。今川家は尾張に続き、遠江守護まで失いますが、今川了俊は堀越近辺の領主として在国し続けます。これは尾張那古屋の今川家と同じ形態です。守護は国の軍事動員権を持ちますが、在地領主たちと主従関係を結んでいるわけではありませんでした。守護はもともと源頼朝が謀反を起こして潜伏した源義経を指名手配する為に設けた役職であり、もともとは警察権しか持っていなかったのですね。徴税対象となる田畑は寺院や貴族が所有する荘園であり、不輸不入の権利を有しておりました。この荘園を管理する主に武士からなる荘官たちと主従関係を結んで国に支配権が及ぶようになったのが、守護大名と呼ばれた人たちでした。了俊とその子孫たちは遠江国堀越(袋井市)に領地をもって土着するわけですが、斯波義重が守護になったからと言って、今川宗家と縁を切って自動的に斯波家家臣になるわけではないわけです。今川了俊は1420年(応永二十七年)に亡くなり、海蔵寺に葬られます。彼の子孫の遠江今川氏は潜在的反斯波勢力として遠江国に存続し続けることになりました。とは言っても、斯波義重と今川貞世(了俊)は吉良氏を介して親戚関係にありました。

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 吉良満義、満貞親子は観応の擾乱において足利直義方についたために、故地である三河吉良荘を追われることになります。最終的に足利義詮に許しを乞うて帰順しますが、その頃には三河の旧臣達は満貞の弟尊義を立ててしまっていたため戻るに戻れない状況になっておりました。やむなく、満貞はやむなく幕府からあてがわれた遠江国曳馬(浜松)荘に入ることになります。後に、尊義とも手打ちがなり尊義の血統は東条吉良氏として存続することになり、満貞も三河西尾と遠江曳馬に領地を持つに西条吉良氏として再出発することになりました。吉良満貞は復帰に当たり自身の立場の再強化を図り、息子を今川貞世(了俊)に、娘を斯波義将に娶せました。吉良満貞の娘と斯波義将との間にできた子が、新たに遠江守護となった斯波義重です。

 吉良満貞の息子の子は義尚といい、西尾と曳馬を領しておりましたが、彼の領地に曹洞宗の僧が流れてきました。彼はかつて今川了俊が征服した肥後国にある海蔵寺で修行を積み、師である梅巌義東の示寂後、その遺言にもとづき諸国遊歴の旅にでていました。彼の名を華蔵義曇といいます。

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2016年8月 6日 (土)

中漠:天文錯乱編⑤斯波!吉良!!今川!!!

  本稿より、少し寄り道して東海地方の動向と、さらに寄り道して東海地方の有力諸侯である斯波家、今川家、吉良家の関係について述べてゆきたいと思います。前編で取り上げました永正三河乱後にこの三勢力がくんずほぐれついたしますので、歴史を少しさかのぼりつつ三者の関係を明らかにできたらと思います。

 永正三河乱で三河国に侵入した今川勢は三河国をほぼ制圧していました。松平長親が井田野で善戦したと言っても、吉良家を除く東三河国人連合の勢いは強かったのです。しかしながら戦後処理はずさんの一言でした。その最も大きい部分は三河国に国主を置かなかったことです。本来は三河守護の阿波細川成之がその任にあたるべきなのですが、三河国はそもそも足利一門の第二の創業地であり、伊勢氏が管理する将軍家直轄地や一門衆筆頭格の吉良氏の領地があるだけでなく、足利義教による粛清を受けた前々守護一色義貫の被官衆の領地がある上に、本願寺教団の拠点まであって、それを支える国人・土豪衆も少なからずいます。細川成之は先代の持常より三河国を受け継いだものの、持て余し気味であったようで、寛正年間に起こった国人一揆も単独では鎮圧できずに伊勢氏被官衆の助力を請うたり、応仁乱中では国中の国人・土豪達がそれぞれの思惑で独自行動を取ったりしていました。おまけに応仁乱中には細川勝元から讃岐守護の兼務を命じられ、讃岐国人衆の取り込み行う中で、三河国守護としてまともに支配力を及ぼすことができていませんでした。

 伊勢宗瑞の三河入りは、それら諸勢力に向けて武威を示すことによりてんでんばらばらに動いていた三河国人衆をまとめあげるチャンスでもありました。当初は今川氏親もそれを狙っていたものと思われます。しかし、京において伊勢貞陸が足利義尹に投降したことによって、今川氏親が拠る細川政元路線が破たんしました。そして、伊勢貞陸は伊勢宗瑞が属する伊勢一族の総帥だったのです。

 そんな折に戸田憲光が伊勢宗瑞に今川と手を切るように求めた話が三河物語に記されています。すなわち、足利義尹、伊勢貞陸、伊勢宗瑞のラインで今川家をコントロールする形が考えられていたものと私は想定しています。しかし、今川氏親も伊勢宗瑞もその路線にはのれませんでした。近江には足利義澄がいて、まだ細川澄元も健在だったわけです。今川氏親は遠江守護の座を足利義尹に認められたとはいえ、素直に足利義尹派に取り込まれることを潔しとはしなかったようです。伊勢宗瑞を三河にとどめておくことは、宗瑞を調略の矢面に立たせることになって危険でした。故に今川氏親は伊勢宗瑞を伊豆に戻したのではないか。私はそんな風に考えております。

 三河国は今川が国主を置かないまま兵を引いた為、反動が生じます。その首謀者は尾張の斯波義達でした。斯波家は代々尾張・越前・遠江の守護でありましたが、応仁の乱において越前国を朝倉氏に奪われ、今遠江国が今川に奪われたことに我慢がならなかったのでありましょう。遠江国は今川軍に蹂躙されたものの、その領土には斯波被官衆が多く残されておりました。1511年(永正八年)、斯波義達は遠江国に渡り、御嶽城を拠点に遠江国に戦を仕掛けます。その主力となったのは井伊谷領主、井伊直宗と明応年間の今川軍侵攻によって引馬荘を奪われた吉良家被官の大河内貞綱でした。御嶽城は井伊家の持ち城であり、直宗の子孫は徳川四天王の一人、井伊直政です。大河内貞綱と斯波義達は共闘していました。これはすなわち、吉良家と斯波家が結びついているものと考えられます。斯波義達自身が遠江に渡っているのですから、三河国の今川支配体制はこの時点で崩れていると考えて差し支えないでしょう。常識的に考えてそれを可能にしたのは、大河内貞綱の主君である吉良氏ということになると思います。

 とはいえ、この蜂起は両三年で終結してしまいます。既に伊勢宗瑞は東方担当に配置換えされましたので、それに代わって朝比奈泰以が1513年(永正十年)に御嶽城を陥落させます。これ以後井伊氏は今川氏に臣従することとなります。諦めなかったのは大河内貞綱でした。御岳城陥落の三年後、1516年(永正十三年)に引馬城を奪ってここに立てこもります。この挙に最後のチャンスとばかりに斯波義達がのって引馬城に入るのですが、僅か一年余りで引馬城は陥落させられました。大河内貞綱は自害、斯波義達は捕虜となり、出家姿で尾張に返されます。その後に目付役に氏親の末子嶽王丸(元服後氏豊と名乗る)が那古屋城に派遣されるほどの完全敗北でした。

 これを以て遠江は今川家が完全掌握したのですが、三河国においては別の動きが出ておりました。きっかけは足利義稙(義尹)の都落ちです。それまで在京していた吉良家と足利義稙とは親密な仲でした。永正錯乱後に上洛してきた足利義尹に時の吉良家当主吉良義信は一条室町にあった自邸を義尹の仮御所として提供しております。吉良義信は1516年(永正十三年)に孫の珍王丸に家督を譲り、珍王丸はその三年後に元服して義堯と名乗るのですが、元服の礼物を足利義稙に送っております。その翌年に等持院合戦が起こり、足利義稙の面目は失墜。都落ちはさらにその翌年、1521年(大永元年)でした。

 都落ちした足利義稙が阿波細川方についてしまった為に、足利義稙に近すぎた吉良義堯は京にその居所を失ってしまったようです。そして拠点を三河に移します。実際の所この吉良義堯についてわかっていることは少ないのですが、彼が三河入りした前後から吉良家は被官衆の再編を行っています。すなわち、身分の上下は関係なく地元の有力者と吉良被官衆とを結婚させて自らの勢力として組み込んでいったのです。その最たる例が東条吉良持広と松平信忠の娘との婚姻ではないかと思います。この頃の松平家は一門惣領岩津家が没落後、勢力を伸長してきた安城家に他の一門衆が反発してゴタゴタが起こっておりました。松平家としては吉良家と誼を通じて優越性の誇示をしたかったのでしょうが、明らかに家格不相応かと思います。

 また、この信忠は先に出てきた大河内貞綱の一族、大河内満成の娘を妻としておりますが、この大河内一族から水野忠政、松平清康らの後妻を渡り歩いた於富こと、華陽院などが出ており、三河国人衆の再編が積極的に行われていたわけです。斯波被官衆の織田家もそのネットワークに入り、桜井松平信定は尾張下三郡守護代奉行衆の一人、織田信定の娘を娶ったりしました。この活動が尾張における織田、三河における松平の新しい軍事勢力の台頭を促して、親今川の牧野氏を倒したりするわけですが、そのあたりは既に「川の戦国史」で書いておりますので、次稿からもともと守護でも守護代(つまり守護の被官ですね)でもなかった吉良氏がなぜ三河国において大きな影響力を持ちえたのかについての考察を斯波・今川家との関係と絡めて述べてゆきたいと思います。
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