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2016年8月20日 (土)

中漠:天文錯乱編⑦今川家の宗旨報告書Ⅳ(今川了俊②)

 華蔵義曇が九州肥後国からわざわざ東海地方の遠江国まで遊歴してきた理由は、やはり今川了俊の九州征服の印象が強かったからではないかと思っております。今川了俊が九州に来たとき、彼が何らかの形で彼らの禅宗に対する興味を示したのではないでしょうか? 事実、今川了俊は政界引退後、海蔵寺という曹洞宗寺院を建てるわけですが、その寺号は、華蔵義曇が肥後国で修行した寺院と同じ名前でした。今川了俊と肥後海蔵寺を繋ぐ物的証拠はないのですが、偶然とは考えにくいのです。
 しかし、華蔵義曇が遠江国に入った折には今川了俊は既になく、海蔵寺という菩提寺が物外性応によって営まれておりました。物外性応と華蔵義曇は同じ道元を祖とする曹洞宗ではありましたが、寒巌義尹流と徹通義介・瑩山紹瑾流の異なる流派に分かれており、この時点では同門意識は希薄だったのではないかと思われます。

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 遠江今川家も了俊の頃は破竹の勢いて九州に進撃しておりましたが、すでに了俊本人はおらず、遠江今川家も遠江守護職を失って堀越近辺を治める国人領主にまで落魄しておりました。華蔵義曇は時の遠江今川家当主(貞臣か?)に外護を求めたが、財政上の理由か物外性応の干渉(当然のことだと思います)によって断られたのでしょう。ただ、遠江今川家当主も今川了俊の遺徳を頼って遥々肥後からやってきた僧侶を無下に帰すこともためらわれたのでしょう。了俊の娘が吉良家に嫁いでおりました。吉良家は今川家にとって本家筋にあたります。時の吉良家当主は義尚と言い、了俊の孫にあたり、三河国西尾と遠江国曳馬(引馬・現浜松)に領地を持っております。その義尚を華蔵義曇に紹介したとしてもおかしくはないでしょう。
 吉良義尚は華蔵義曇を迎え入れ、曳馬にほど近い寺島の地に随縁寺という寺を建てます。寺号を読み下すなら縁(えにし)に随(した)がうとなり、了俊の縁であるようにも読むことができます。ただ、地方に残る説話だと吉良義尚は外出中に華蔵義曇に偶然出会ったことになっております。了俊は足利義満に謀反を疑われていたこともありましたので、九州での縁は表に出せない話だったのかもしれません。この隨縁寺は洪水にあって無くなってしまうのですが、遠江国広沢に寺基を移して寺号を普済寺に改めます。華蔵義曇はここを拠点に遠江国・三河国に末寺を広げ東海における寒巌派曹洞宗を広めてゆくことになります。

 禅宗僧の名前は通常四文字で構成されておりますが、本来の戒名は四文字中の後半二文字で、前半二文字は道号と呼ばれて禅宗においては修行場所や本人所縁の場所にちなんだ号がつけられるそうです。華蔵義曇の場合は華蔵(けぞう)になるのですが、この華蔵は意味を変えずに漢字を置きかえると花蔵、花倉(はなくら)になります。ここから一気に花倉殿と呼ばれた玄広恵探の話に飛びたいところですが、もう少し下拵えを行います。
 吉良一族の本貫地である三河国吉良荘に金星山華蔵寺という寺がありました。もともとは真言宗を宗旨とする寺院だったのですが、江戸期に入って時の当主吉良義定が妙心寺派臨済宗に宗旨を改め、片岡山華蔵寺とした上で菩提寺にしております。それ以前の吉良氏の菩提寺は実相寺と言い、臨済宗東福寺の円爾が1271年(文永八年)に建てており、ここを使っておりました。但し、吉良氏の本家に当たる足利氏は鎌倉に浄妙寺という臨済宗の菩提寺を持っていたのと同時に、下野国に鑁阿寺という真言宗の菩提寺を持っておりました。これを援用して考えるに、足利分家である吉良家も臨済宗寺院のほかに真言宗の菩提寺を持っていた可能性があります。だとするならば、吉良氏の本貫地である吉良荘にあった華蔵寺はその候補になり得ると考えられるでしょう。1349年(貞和五年)にはこの寺で東福寺・実相寺で住持を務めた一峰明一が示寂しております。さらに1404年(応永十一年)、吉良義尚、大河内氏、巨海氏の援助で華蔵寺内に華厳道場が建ち、大蔵経の経蔵も建立されたとあります。これは吉良義尚が華蔵義曇に出会う以前の話であります。江戸期に入って吉良義定が新たな菩提寺を求めたのは、三河一向一揆によって時の吉良家当主吉良義昭が追い出されて以来、父親の義安が徳川家康の家臣になることによって三河に戻るまで三河に吉良氏は不在だったからです。新たな菩提寺を求めるにしても、おそらくは過去の因縁に基づいて選択されたでしょうから、金星山華蔵寺は吉良氏の真言宗菩提寺だった可能性はあります。ちなみに、吉良義安の院号は華蔵寺殿であり、養父の東条吉良持広の院号は華岳寺殿になっております。吉良家分裂後は東条吉良家によって管理されていたことが伺えるかもしれません。吉良家分裂前の貞和年間には実相寺出身の一峰明一が住持を務めた記録もあるそうですので、華蔵寺は吉良家にとっては重要な寺の一つだったと言えるでしょう。

 吉良義尚の外護を受けた華蔵義曇は猛烈な勢いで末寺を増やし、一代で十三門派を従える勢力になりました。吉良義尚の信任の篤さ故と言えるのですが、吉良家にとっての「華蔵」の意味合いの大きさを考えると、「華蔵」の道号は吉良家から贈られたものであり、その信任故に早い勢力拡張がなったということができるかもしれません。

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