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2016年8月27日 (土)

中漠:天文錯乱編⑧楞厳寺寺伝の謎

  話の脱線は本稿が最後です。本当は足利義満時代の華蔵義曇という僧号の読みから、戦国時代今川家に起きた花倉の乱に繋ぐつもりだったのですが、先に天文の錯乱に至る流れの方に戻します。今川家の宗旨は義元の代になってから大きな転機を迎えるのですが、それ以前の永正・大永年間における斯波義達と吉良義信・義堯親子の動きもここで追っておきたかったので脱線してしまいました。本稿は脱線ついでにさらに本筋から離れた話になっています。

 先に、華蔵義曇の話の中で、一代で十三門派を形成した話をしました。その十三門派の一つに三河国刈谷の楞厳寺という寺があります。ここは後に水野忠政が菩提寺にして徳川家康の母於大がよく参拝したことで知られております。ここの寺伝の記述が色々矛盾に満ちていて、興味深いものがあります。

 その寺伝のあらましですが、楞厳寺は1413年(応永二十年)に普済寺の華蔵義曇の弟子、利山義聡が開山したことになっています。ところが、普済寺の開基{1432年(永享四年)}はもちろん、その前身である隨縁寺の開基年代{1428年(正長元年)}と比べても過去に遡っております。さらに言うなら利山義聡はこの十年前の1403年(応永十年)にこの土地を先住していた庭巌門公の帰依を受けて海会寺という寺にしています。楞厳寺はその寺地を広げて作られた寺です。
 華蔵義曇は1375年(永和元年)に誕生し、十歳にして肥後国海蔵寺で出家、参学二十年にして印可を得ておりますので、華蔵義曇が一人前の禅僧として独り立ちできたのは、1404年(応永十一年)前後ということになり、それ以前に弟子をとれるはずはありません。また、華蔵義曇は1413年(応永二十年)に肥後海蔵寺にいた記録が残っております。
 よって、海会寺開山の時点で利山義聡が華蔵義曇の弟子だったとは考えにくいし、楞厳寺開山の時点で普済寺は建立されていなかったし、華蔵義曇も九州にいたのです。

 この矛盾について単純に考えるなら、楞厳寺の創建年代をさらに後代に設定すればよいのでしょう。華蔵義曇十三門派に属する他寺院の創建年を分かる範囲で調べてみたのですが、いずれも普済寺創建以降の話でした。同様に楞厳寺の創建もそれ以降の話というのであれば、「普済寺の利山義聡」が刈谷に楞厳寺を建てたという話はすっきりします。

禅宗寺院の寺伝にはしばしば年代を無視した記述がみられます。例えば、相国寺の開山は夢窓疎石なのですが、相国寺の創建は1382年(永徳二年)で、夢窓疎石の没年はそれ以前の1351年(観応二年)で、開山=寺院を作った人という意味で解するなら、明らかに矛盾しています。これは実際に寺院を創建した春屋妙葩が、自らの師を称揚するために既に没している夢窓疎石を開山に据えて自らは二世住持として寺を管理するという体裁を取ったためです。

 ただ、楞厳寺が古刹にも関わらずこの矛盾を放置したままにしていることは気になります。なので、このあたりの事情を少し調べてみました。華蔵義曇の弟子の一人に誓海義本という人物がいます。彼は普済寺二世住持にして、嘉吉年間に尾張国に圓通寺という曹洞宗寺院を建てました。彼は熱田宮司の田嶋仲宗と言う人物の子息であるそうです。
 彼の伝記によると、1391年(明徳二年)に誕生し、1403年(応永十年)、十三歳の時に得度して肥後国海蔵寺で修行をはじめたそうです。すなわち、この時点で尾張国と肥後の海蔵寺との間で華蔵派の交流があったことが示唆されます。そして、その年は利山義聡が尾張国刈谷に海会寺(楞厳寺の前身)を立ち上げたとされる年でもありました。同時に、遠江国袋井に太源・恕仲派の物外性応が今川了俊の隠居所として海蔵寺を建てた年でもあります。

 尾張国と肥後海蔵寺を結ぶ線は今川仲秋にあったのではないかと思います。彼は1393年(明徳四年)に尾張守護に任じられています。それ以前は中国探題の兄、今川了俊に従って九州征服にいそしんでいました。1384年(至徳元年)に南朝征西府は肥後国宇土に根拠地を移します。宇土の近辺には華蔵義曇の修行した海蔵寺やその本寺である大慈寺があったわけです。その宇土の征西府は九州探題によって征服され、寒巌派の寺院もその保護下に入ったものと言えるでしょう。
 かくして、今川兄弟による九州征服は成功裡に終わったのですが、狡兎死して走狗煮らるのたとえどおり、今川了俊は突然九州探題を解任されてしまいました。今川了俊は管領の細川頼之が後ろ盾になっていたのですが、斯波義将との政争に敗れて失脚してしまったのですね。
 さらに悪いことに、今川兄弟の九州征服を援護してくれていた大内義弘が1399年(応永六年)に幕府に対して反乱を起こして滅ぼされてしまいました。今川了俊はこの反乱への関与を疑われて政界引退を余儀なくされるわけですが、その余波は弟にも及び、1400年(応永七年)今川仲秋は尾張守護を解かれてしまいました。その後も了俊の処遇にたいしては、幕府と今川家の間で折衝が続き、結局1402年(応永九年)に隠居という形で落ち着くわけです。
 今川仲秋は兄の隠居所として「海蔵寺」を建てますが、かつて九州王だった男の隠居所を九州に地盤を持つ教団に運営させては、いつ何時幕府に反乱の疑いをかけられるともわかりませんでした。それはすなわち、宗家を含む今川一門の滅亡を意味します。よって、隠居所の管理は同じ道元の教えの流れを汲んでいても別系の物外性応(太源・恕仲派)に頼み、寒巌派とは一応の距離を置いたものと見てよさそうです。

 これを踏まえて利山義聡や誓海義本の動きを考えるなら、やはり利山義聡は尾張守護今川仲秋の保護を当てにして尾張に来ていた寒巌派僧であり、彼または彼の同志が熱田宮司に取り入って子弟教育を任されていたのではないかと想像します。それが今川仲秋の守護解任とその政敵である斯波義重の新守護就任で今川家の保護がふいになってしまい、彼らは自分で地盤を築かねばならなくなりました。よって、利山義聡は隣国三河国境の刈谷に退き、一方で宮司の息子は肥後で教育を継続させたのではないでしょうか。心配のし過ぎのようにも見えますが、妙心寺がそれで倒産に追い込まれたこともあり、あながち突飛な発想でもないでしょう。

 利山義聡はその後も様子を見つつ粘り強く活動を継続した結果、華蔵義曇が吉良義尚の外護を受けられることになり、普済寺の完成時に正式な印可を受けたとみるならば、一応のつじつまは合うかと思われます。
 その仮定に立つと、利山義聡は寒巌派東海進出のパイオニアであったと言えるかもしれませんが、相国寺開山のたとえにもあるように、禅僧はまず師匠を前にたてるものなので、自らはあくまでも普済寺華蔵義曇の弟子に徹したのでありましょう。ある種の奥ゆかしさも感じます。

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