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2016年8月13日 (土)

中漠:天文錯乱編⑥今川家の宗旨報告書Ⅲ(今川了俊)

 今川家の収支報告書として、曹洞編で二つの記事をかいております。本稿からしばらく、東海地方における斯波・吉良・今川、足利一門三家の関係について描写をしてゆきたいと思います。吉良家が南北朝の風雲に乗り損なって守護として国を任されるようになることはなかった話は既にしておりますので、その後に起こった今川了俊の台頭と斯波家の東海進出あたりの時代描写になります。前稿からはずっと時代が遡ってしまいますが、戦国期の尾・三・遠三国の情勢の背景として、斯波・吉良・今川三家のこの時代の動向を少し追ってゆくこととします。

 曹洞宗の開祖、道元の弟子の一人に、寒巌義尹という皇族出身の僧がおりました。彼は師である道元入寂後、南宋にわたり帰国後は永平寺に戻らず、九州は肥後国に大慈寺という寺を建てて九州に教えを広めておりました。その後、九州は菊池、少弐、足利直冬、懐良親王等の群雄が相戦う状況でしたが、最終的な勝利を得たのは今川了俊という武将でした。今川了俊は、1372年(応安五年)に大宰府を奪回すると、隈部・染土、宇土、八代と懐良・良成両親王の拠点を次々に攻略し、最終的には筑後矢部に良成親王を逼塞させるに至りました。(懐良親王はその途上で亡くなっております)今川了俊の九州征服をもって足利幕府の天下統一は成ったわけですが、それと同時に彼は狡猾な兎が死んだ後の走狗となっていたのですね。
 時の将軍、足利義満は適当な理由をつけて今川了俊を九州探題から解任し、彼と彼の弟の仲秋二人を遠江守護に押し込めてしまいました。そればかりか、今川了俊とともに九州平定に功績のあった大内義弘を挑発し、反乱を起こさせて討ってしまいます。この時、足利義満は大内義弘の反乱をよいことに、その嫌疑を今川了俊にも向け、挑発しますが了俊はそれには乗らず、領地を返上して引退することになります。そんな了俊の為に弟仲秋(彼は了俊の養子でもあります)が建立した寺が海蔵寺と言う曹洞宗寺院です。了俊は1367年(貞治六年)に足利義詮の死をきっかけに一度出家しておりますが、その時点で了俊と曹洞宗の接点は考えにくく、了俊の号は清和源氏に所縁深い真言宗か、臨済宗のものであったと思われます。了俊号の初出が東寺関連のものであることを考えると真言宗の可能性が高いのかもしれません。

 さて、今川了俊と曹洞宗との関わりを考えるに、今川了俊が良成親王を追い詰めるルート上に宇土という土地があります。天草半島の付け根部分、肥後国を南北に分かつ緑川河口にある在所です。良成親王はここに1384年(至徳元年)から六年間、征西府をおいて今川軍に相対したわけですが、その緑川上流、五~六キロ遡った所にある中洲にあったのが大慈寺です。ここは寒巌義尹が開山し寒巌派の拠点とした寺院です。大慈寺は近辺に末寺を有していました。その一つが宇土の征西府北方五キロほどの場所にある海蔵寺です。ここは寒巌義尹の曾孫弟子にあたる梅巌義東が開いた寺でした。今川了俊がこの宇土の征西府を北方から攻略しようとするならば、大慈寺、海蔵寺の両寺院を押さえた可能性はあるんじゃないかと思います。但し、そのような記録は私自身お目にかかっておりませんのであくまで推測です。
 
 遠江国海蔵寺が建立されたのは、1403年(応永十年)で今川了俊が足利義満に政界引退を宣言させられた後のことです。寺地は堀越館という今川了俊邸の一角にあり、この時点で了俊は曹洞宗に宗旨を変えていたとみてもよいでしょう。但し、法流は寒巌義尹のものではなく、三代争論で永平寺を去った徹通義介の流れをくむ能登総持寺峨山から恕仲の流派の物外性応によるものです。政界引退をさせられて、余生を遠江で過ごすことになった了俊は、九州で出会った曹洞禅に興味を持ったものの、九州との往来は遠いので、近場で曹洞宗を求めた所、物外性応に出会ったという推測も成り立つと思います。海蔵寺のある袋井から北にある森町という所に物外性応の師である恕仲の開いた崇信寺という寺があります。

 足利義満による今川家の処分は了俊の政界引退だけは済まされなかったようで、1405年(応永十二年)斯波義重が遠江守護に任じられます。今川家は尾張に続き、遠江守護まで失いますが、今川了俊は堀越近辺の領主として在国し続けます。これは尾張那古屋の今川家と同じ形態です。守護は国の軍事動員権を持ちますが、在地領主たちと主従関係を結んでいるわけではありませんでした。守護はもともと源頼朝が謀反を起こして潜伏した源義経を指名手配する為に設けた役職であり、もともとは警察権しか持っていなかったのですね。徴税対象となる田畑は寺院や貴族が所有する荘園であり、不輸不入の権利を有しておりました。この荘園を管理する主に武士からなる荘官たちと主従関係を結んで国に支配権が及ぶようになったのが、守護大名と呼ばれた人たちでした。了俊とその子孫たちは遠江国堀越(袋井市)に領地をもって土着するわけですが、斯波義重が守護になったからと言って、今川宗家と縁を切って自動的に斯波家家臣になるわけではないわけです。今川了俊は1420年(応永二十七年)に亡くなり、海蔵寺に葬られます。彼の子孫の遠江今川氏は潜在的反斯波勢力として遠江国に存続し続けることになりました。とは言っても、斯波義重と今川貞世(了俊)は吉良氏を介して親戚関係にありました。

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 吉良満義、満貞親子は観応の擾乱において足利直義方についたために、故地である三河吉良荘を追われることになります。最終的に足利義詮に許しを乞うて帰順しますが、その頃には三河の旧臣達は満貞の弟尊義を立ててしまっていたため戻るに戻れない状況になっておりました。やむなく、満貞はやむなく幕府からあてがわれた遠江国曳馬(浜松)荘に入ることになります。後に、尊義とも手打ちがなり尊義の血統は東条吉良氏として存続することになり、満貞も三河西尾と遠江曳馬に領地を持つに西条吉良氏として再出発することになりました。吉良満貞は復帰に当たり自身の立場の再強化を図り、息子を今川貞世(了俊)に、娘を斯波義将に娶せました。吉良満貞の娘と斯波義将との間にできた子が、新たに遠江守護となった斯波義重です。

 吉良満貞の息子の子は義尚といい、西尾と曳馬を領しておりましたが、彼の領地に曹洞宗の僧が流れてきました。彼はかつて今川了俊が征服した肥後国にある海蔵寺で修行を積み、師である梅巌義東の示寂後、その遺言にもとづき諸国遊歴の旅にでていました。彼の名を華蔵義曇といいます。

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