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2016年8月 6日 (土)

中漠:天文錯乱編⑤斯波!吉良!!今川!!!

  本稿より、少し寄り道して東海地方の動向と、さらに寄り道して東海地方の有力諸侯である斯波家、今川家、吉良家の関係について述べてゆきたいと思います。前編で取り上げました永正三河乱後にこの三勢力がくんずほぐれついたしますので、歴史を少しさかのぼりつつ三者の関係を明らかにできたらと思います。
 永正三河乱で三河国に侵入した今川勢は三河国をほぼ制圧していました。松平長親が井田野で善戦したと言っても、吉良家を除く東三河国人連合の勢いは強かったのです。しかしながら戦後処理はずさんの一言でした。その最も大きい部分は三河国に国主を置かなかったことです。本来は三河守護の阿波細川成之がその任にあたるべきなのですが、三河国はそもそも足利一門の第二の創業地であり、伊勢氏が管理する将軍家直轄地や一門衆筆頭格の吉良氏の領地があるだけでなく、足利義教による粛清を受けた前々守護一色義貫の被官衆の領地がある上に、本願寺教団の拠点まであって、それを支える国人・土豪衆も少なからずいます。細川成之は先代の持常より三河国を受け継いだものの、持て余し気味であったようで、寛正年間に起こった国人一揆も単独では鎮圧できずに伊勢氏被官衆の助力を請うたり、応仁乱中では国中の国人・土豪達がそれぞれの思惑で独自行動を取ったりしていました。おまけに応仁乱中には細川勝元から讃岐守護の兼務を命じられ、讃岐国人衆の取り込み行う中で、三河国守護としてまともに支配力を及ぼすことができていませんでした。
 伊勢宗瑞の三河入りは、それら諸勢力に向けて武威を示すことによりてんでんばらばらに動いていた三河国人衆をまとめあげるチャンスでもありました。当初は今川氏親もそれを狙っていたものと思われます。しかし、京において伊勢貞陸が足利義尹に投降したことによって、今川氏親が拠る細川政元路線が破たんしました。そして、伊勢貞陸は伊勢宗瑞が属する伊勢一族の総帥だったのです。
 そんな折に戸田憲光が伊勢宗瑞に今川と手を切るように求めた話が三河物語に記されています。すなわち、足利義尹、伊勢貞陸、伊勢宗瑞のラインで今川家をコントロールする形が考えられていたものと私は想定しています。しかし、今川氏親も伊勢宗瑞もその路線にはのれませんでした。近江には足利義澄がいて、まだ細川澄元も健在だったわけです。今川氏親は遠江守護の座を足利義尹に認められたとはいえ、素直に足利義尹派に取り込まれることを潔しとはしなかったようです。伊勢宗瑞を三河にとどめておくことは、宗瑞を調略の矢面に立たせることになって危険でした。故に今川氏親は伊勢宗瑞を伊豆に戻したのではないか。私はそんな風に考えております。
 三河国は今川が国主を置かないまま兵を引いた為、反動が生じます。その首謀者は尾張の斯波義達でした。斯波家は代々尾張・越前・遠江の守護でありましたが、応仁の乱において越前国を朝倉氏に奪われ、今遠江国が今川に奪われたことに我慢がならなかったのでありましょう。遠江国は今川軍に蹂躙されたものの、その領土には斯波被官衆が多く残されておりました。1511年(永正八年)、斯波義達は遠江国に渡り、御嶽城を拠点に遠江国に戦を仕掛けます。その主力となったのは井伊谷領主、井伊直宗と明応年間の今川軍侵攻によって引馬荘を奪われた吉良家被官の大河内貞綱でした。御嶽城は井伊家の持ち城であり、直宗の子孫は徳川四天王の一人、井伊直政です。大河内貞綱と斯波義達は共闘していました。これはすなわち、吉良家と斯波家が結びついているものと考えられます。斯波義達自身が遠江に渡っているのですから、三河国の今川支配体制はこの時点で崩れていると考えて差し支えないでしょう。常識的に考えてそれを可能にしたのは、大河内貞綱の主君である吉良氏ということになると思います。
 とはいえ、この蜂起は両三年で終結してしまいます。既に伊勢宗瑞は東方担当に配置換えされましたので、それに代わって朝比奈泰以が1513年(永正十年)に御嶽城を陥落させます。これ以後井伊氏は今川氏に臣従することとなります。諦めなかったのは大河内貞綱でした。御岳城陥落の三年後、1516年(永正十三年)に引馬城を奪ってここに立てこもります。この挙に最後のチャンスとばかりに斯波義達がのって引馬城に入るのですが、僅か一年余りで引馬城は陥落させられました。大河内貞綱は自害、斯波義達は捕虜となり、出家姿で尾張に返されます。その後に目付役に氏親の末子嶽王丸(元服後氏豊と名乗る)が那古屋城に派遣されるほどの完全敗北でした。
 これを以て遠江は今川家が完全掌握したのですが、三河国においては別の動きが出ておりました。きっかけは足利義稙(義尹)の都落ちです。それまで在京していた吉良家と足利義稙とは親密な仲でした。永正錯乱後に上洛してきた足利義尹に時の吉良家当主吉良義信は一条室町にあった自邸を義尹の仮御所として提供しております。吉良義信は1516年(永正十三年)に孫の珍王丸に家督を譲り、珍王丸はその三年後に元服して義堯と名乗るのですが、元服の礼物を足利義稙に送っております。その翌年に等持院合戦が起こり、足利義稙の面目は失墜。都落ちはさらにその翌年、1521年(大永元年)でした。
 都落ちした足利義稙が阿波細川方についてしまった為に、足利義稙に近すぎた吉良義堯は京にその居所を失ってしまったようです。そして拠点を三河に移します。実際の所この吉良義堯についてわかっていることは少ないのですが、彼が三河入りした前後から吉良家は被官衆の再編を行っています。すなわち、身分の上下は関係なく地元の有力者と吉良被官衆とを結婚させて自らの勢力として組み込んでいったのです。その最たる例が東条吉良持広と松平信忠の娘との婚姻ではないかと思います。この頃の松平家は一門惣領岩津家が没落後、勢力を伸長してきた安城家に他の一門衆が反発してゴタゴタが起こっておりました。松平家としては吉良家と誼を通じて優越性の誇示をしたかったのでしょうが、明らかに家格不相応かと思います。
 また、この信忠は先に出てきた大河内貞綱の一族、大河内満成の娘を妻としておりますが、この大河内一族から水野忠政、松平清康らの後妻を渡り歩いた於富こと、華陽院などが出ており、三河国人衆の再編が積極的に行われていたわけです。斯波被官衆の織田家もそのネットワークに入り、桜井松平信定は尾張下三郡守護代奉行衆の一人、織田信定の娘を娶ったりしました。この活動が尾張における織田、三河における松平の新しい軍事勢力の台頭を促して、親今川の牧野氏を倒したりするわけですが、そのあたりは既に「川の戦国史」で書いておりますので、次稿からもともと守護でも守護代(つまり守護の被官ですね)でもなかった吉良氏がなぜ三河国において大きな影響力を持ちえたのかについての考察を斯波・今川家との関係と絡めて述べてゆきたいと思います。
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