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2016年9月24日 (土)

中漠:天文錯乱編⑬戦国時代の底

 戦国時代がいつ始まっていつ終わったかについては諸説ありますが、概ね1467年(応仁元年)の応仁の乱又は1493年(明応二年)の明応の政変から始まって、1585年(天正十三年)の豊臣秀吉による惣無事令か、1600年(慶長五年)の関ケ原合戦あたりに終わるということに集約されるのだろうと思います。異論は認めます。

 では、戦国時代が一番戦国時代らしく秩序が崩壊していた時代はいつ頃であろうかと考えるならば、まさしく1532年(享禄五年・天文元年)ではなかったろうかと私は考えます。それまでは曲がりなりにも室町幕府の秩序を維持しようとする姿勢があったのですが、諸家分流の局面が三管四職すべての家に及び、守護としての役目すらも全うできなくなるのがこの頃であるからです。木澤長政や茨木長隆ら、前時代に類例を探してもいないような一代限りの英傑が跳梁跋扈するまさにハロウィンのような時代でありました。
 この時代の後に、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三傑が苦闘の末に天下を統一するわけですが、そのプロセスの始まりはこの時代にあるとも同時に言えるわけです。

  三好元長は激情に駆られて柳本甚次郎を殺害したわけですが、これは手痛い失敗でした。自らの統治能力の欠如をさらけ出したようなものです。細川高国を倒した武功はこれと引き換えにチャラとは言いませんが、大きく減じられてしまったことは否めません。元長本人もさすがにまずいと思ったのか、僧形となり海雲入道と号します。この時の宗旨に私は興味を持っているのですが、今のところ確定的なことは判りません。三好元長は法華宗日隆門流の顕本寺で壮絶な最期を遂げて墓はそこに建てられ、ずっと後に菩提寺として大徳寺派の南宗寺が息子の長慶によって建てられるのですが、おそらくは代々の当主が属した真言宗だったのではないか、と思います。法華では法号に「日」、大徳寺派ですと「宗」がつくことが多いのですが、元長の法号にはそのいずれもありませんので。

 阿波守護の細川持隆が三好元長をかばうことで一応の体裁は繕われます。しかし、その裏で三好元長に対する悪意は蠢動を続けておりました。それは朽木にいる足利義晴を奉じようというものでした。もともと亡き柳本賢治が言い出したことであるのですが、その心は、足利義維を公方として奉じている限り、そこに必ず三好元長がついてくるので、元長を排斥するなら義維も一緒に除いた方がよいのではないか、という発想にあります。細川高国が生きている間はそれはさすがに絵空事に過ぎないのですが、皮肉なことにその高国は元長が倒してしまいました。そして三好元長の失敗を機に、摂津・丹波の国人衆を中心にそうした構想は密かに支持を集め始めておりました。

 もちろん道義的な問題も生じてくるのでそのような発想を嫌う人々もいました。足利義維を保護して盛り立て堺に幕府を立てるお膳立てをした阿波守護細川持隆、河内守護の畠山義堯らです。彼らが堺金蓮寺にいる足利義維を盛り立てている限り、現実味はありません。しかし、思わぬ人物がこの危ない構想をさらに押し進めます。筆頭右筆として細川六郎を補佐する茨木長隆です。もともとは三好元長が畿内の政情に詳しい実務家としてスカウトした人物ですが、この段階でその謀略家としての才能が開花します。筆頭右筆として細川六郎の身近に仕える立場を利用して、細川六郎をして義晴奉戴派に転じせしめたのです。この時六郎は十九歳。おそらくは元服済で義維から偏諱を貰って維元(もしくは綱元?)を名乗っていたのではないかと思うのですが、なぜかこの時期の諱は伝わっておりません。幼いころから阿波守護家に保護をされて、名目上の当主に推戴されるものの、政治判断や実務はすべて周囲の大人たちに取られてしまって自分は何もできないことに歯がゆさを感じていたとは思います。しかし、この判断は最悪の闘争を呼び込むことになりました。

 阿波守護細川持隆は必死に止めましたが、茨木長隆に取り込まれた六郎の意を変えることはできませんでした。失意の持隆が阿波に帰国するに及んで堺幕府は崩壊の危機に瀕することになります。おりしも、畠山義堯の片腕である木澤長政もまたその構想を支持して六郎方につきます。畠山義堯と木澤長政はその前年から武力衝突を始めているのですが、義堯は堺政権崩壊を導きかねない木澤の粛清に動きました。三好元長は一門の三好一秀を派遣して義堯と合流させて木澤長政の居城の飯盛山城を攻め立てます。
 摂津・丹波国衆は中小豪族の乱立状態で、まとまった軍を動かす指導者がいないはずでした。その点、畠山義堯や三好元長は強力な一族郎党に支えられた軍団を持っております。この軍団を使って順番に反対勢力を狩ってゆくことは不可能ではないと考えました。

 それは全くの事実でしたが、畠山・三好連合は致命的な見落としをしていました。中小豪族の期待を受けて義晴奉戴に協力を期待しうる強力な軍団が存在していたのです。それは証如光教率いる本願寺教団でした。本願寺教団はすでに加賀で三ヶ寺の粛清のために軍団派遣を行っておりました。むろんこれは堺幕府の方針に沿ったものです。実は堺幕府と本願寺とのパイプを持っていたのは茨木長隆でした。彼の縁者の妻女が本願寺坊官下間氏の出身であったとのことです。本願寺にとって蓮能との絡みで畠山氏に対しては含むところがありました。大小一揆においても蓮能の実兄畠山家俊が三ヶ寺側で参戦しています。そして、この時は証如本人が自ら石山入りする気合いの入れようでした。証如もまたこの時十七歳の血気盛んな年頃でありました。蓮如以来本願寺の歴代法主は門徒にとってスターのような存在でありました。摂津・丹波が統一されないのは地縁のしがらみがあってのことですが、そのスターが畠山と三好を倒せと煽ったのです。すべてのしがらみはすっとんで雲霞の如き兵が飯盛山目指して湧き上がりました。その数なんと十万と言います。

 大軍に軍略なしとか言いますが、精強を誇った飯盛山攻囲軍はこの大軍にあっという間に飲み込まれてしまいました。畠山義堯や三好一秀は逃げる間もなく討ち死にを遂げます。そして門徒軍は返す刀で堺に向かいました。主力を潰された三好元長には抵抗するすべはありません。足利義維を船で逃がすと、自らは顕本寺で割腹。臓物を腹から引きずり出し、天井に叩きつけて絶命するという壮絶な最期を遂げました。
 しかし、これは後に天文の錯乱と呼ばれる大災厄の始まりに過ぎませんでした。

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2016年9月19日 (月)

中漠:天文錯乱編⑫野合連合

 本稿では三好元長の不遇について書き記そうと思います。三好之長もそうでしたが、三好元長もまた、都人を初めとして丹波・摂津国衆に蛇蝎の如く嫌われまくっておりました。彼らは決して無能ではなく、逆に有能であるが故に周囲から警戒され、本領を発揮できないように強いられ続けて行ったわけです。その意味では現代政治における小沢一郎を想起させられます。
 三好元長が京で柳本賢治との政争に敗れて阿波で逼塞している間、案の定堺幕府は動揺しました。要するに彼抜きでは軍を効率的に運用できないのですね。播磨から細川高国と浦上村宗が挙兵してきた時、柳本賢治が堺の足利義維に向けて、朽木の足利義晴と和睦したいと言ってきたのはその極みです。丹波国人の立場からすれば、上が誰であろうと自分の立場さえ尊重されれば問題ないことが露呈したわけですが、それは他の国人衆とて大差がなかったことがやがて明らかになります。堺幕府は柳本賢治にとりあえず正面の敵を何とかしろ、と命じます。彼が三好元長と上手くやっていれば、彼が出てゆく必要などはありませんでした。結局、一戦も交えることなく柳本賢治は暗殺され、連合軍は摂津に侵入、京は高国派の六角定頼と丹波国人内藤彦七に抑えられ、柳本の後任として上洛していた木澤長政にもなすすべはありませんでした。
 万策尽きた堺幕府は三好元長を呼び寄せます。どの面下げてと毒づきたかったでしょうが、元長は彼に課された義務を果たします。この時点で彼には味方がいました。阿波守護細川持隆です。彼は三好之長が亡くなり、細川澄元が亡くなり、足利義稙が亡くなった後も、残された細川六郎と足利義維を守り、之長の孫の元長を盛り立ててその勢力の再起をプロモートした人物でした。彼が足利義維と細川六郎を上洛させてどんな政治を執らせようとしたのかはわかりませんが、少なくとも義稙、澄元、之長三名の無念を晴らしたかったことは事実でありましょう。
1531年(享禄四年)二月二十一日、三好元長は一万五千の兵を率いて堺に上陸します。そして住吉方面に出兵して一戦交えます。これに対して高国・浦上連合軍は野田・福島に兵二万で防御線をしきました。さらに三月二十五日には阿波守護細川持隆が兵八千とともに堺に入ります。三好・阿波軍は五月十三日に住吉郡に展開したことで、阿倍野の森を挟んで両軍が対峙、戦線が膠着します。
 この均衡を破ったのが摂津神呪寺に陣した赤松政村です。彼はもともと浦上村宗の主筋にあたる人物であるのですが、父の赤松義村は浦上村宗によって失脚・暗殺させられる目にあっています。政村はその後釜として擁立せられた傀儡で、播磨は事実上浦上村宗によって牛耳られていたのでした。この戦いにおいても赤松政村は高国・浦上連合軍の後詰めとして参陣していたのですが、密かに堺方と通じ、六月四日に父の仇、浦上村宗に叛旗を翻したのでした。これによって最前線の野田・福島の陣に動揺が走ります。連合軍に逃亡者が続出して陣の維持に齟齬が生じるようになりました。その虚を突いて三好軍が一気に攻勢に出ます。連合軍はこれを支えきれず、前線は崩壊しました。細川高国は大物城を目指して退却しますが、そこはすでに赤松軍に抑えられておりました。やむを得ず町屋に逃げ込んだところをとらえられて斬られてしまいます。浦上村宗は赤松軍に捕捉され討ち死に。これを称して大物崩れと言います。

 三好元長の鮮やかな逆転勝利でした。山科本願寺はこの直後に加賀三ヶ寺の粛清に踏み切っております。元長は意気揚々と上洛するのですが、その先は何も変わっておりませんでした。むしろ細川高国と言う共通の敵がいなくなったことで、対立はより先鋭化し、対立軸はより目に見えやすいものになったと言えます。上洛した京にいたのは、柳本賢治の息子、甚次郎でした。彼が頼ったのは木澤長政でした。木澤長政は柳本賢治が暗殺された後の京都防衛を任されていたはずですが、いつの間にか軍を退いて京を占領された前科があったのですが、高国方の典廐細川尹賢を殺害した功で堺幕府幕閣の居残りに成功しておりました。その彼がまたしても三好政長と結託して三好元長の讒訴を始めてしまうわけです。

 この何者にも学ばない姿勢は何なのだろうかと思います。三好元長を追い出すことによって招いた窮地を元長にカバーしてもらったこと自体大変恥ずかしいことなのに、まったく同じことを繰り返してしまう。そのことがどれほど恐ろしい事態を引き起こすのか、想像力が欠如しているとしか言いようがありません。
 三好元長はこの挙に激怒して、三条城にいた柳本甚次郎を襲って討ち取ってしまいました。

 うんざりするような展開ですが、事態はさらにやばい方向に悪化します。

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2016年9月17日 (土)

中漠:天文錯乱編⑪飛騨国興亡

 応仁の乱においては、三管四職の有力豪族が分裂して戦ったわけですが、四職を占める京極佐々木氏も例外ではありませんでした。応仁の乱中、当代の京極持清は東軍に属しておりましたが、彼と嫡男の勝秀が乱中にあいついで病死。後継を巡って勝秀の遺児、孫童子丸と乙童子丸の二人をそれぞれ担いで内紛が発生します。これはもちろん、東軍方の京極家に対して西軍側の介入があったためでしょう。佐々木氏宗家の六角高頼は西軍についておりましたので、彼が策した物ではないかと思います。
 1470年(文明二年)に京極勝秀の次男、乙童子丸派が西軍方に走って京極家のお家騒動が顕在化します。東軍側に残った孫童子丸はその翌年に病死し、旗頭は叔父の政経が引き継ぎます。乙童子丸の方は、政経の実兄ですが、佐々木一族の黒田家に養子に行った政光がバックアップし、内紛はヒートアップします。

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 京極家内紛に勝ち残ったのは高清でしたが、その過程で弱体化を余儀なくされます。すなわち、京極佐々木氏は北近江だけではなく、隠岐、出雲、飛騨の三ヶ国の守護も兼務していたわけですが、三国の領地を全て失ってしまったのです。隠岐と出雲を抑えたのは京極一族出身の尼子経久でした。
 今回の話は残る一ヶ国の飛騨国についての話です。

 飛騨国はもともと、建武の親政の時に飛騨国司に任じられた姉小路家が国司に任じられて以来、建武の親政破たん後も実効支配していたのですが、足利尊氏の死の翌年に、佐々木導誉の守護国に加えられました。今川範国の駿河守護の例から見て、守護補任がすぐにその国の支配権の確立を意味するわけではなく、以後も姉小路家が飛騨国を掌握していたわけです。この姉小路家は応永年間に、飛騨の乱という反乱を起こして幕府に鎮圧されます。その後小島家、向小島家、古河家の三家に分かれて対立するようになったわけです。そのタイミングで京極佐々木家は飛騨国に介入して実権を手にしていったわけですが、基本守護である佐々木氏は在京です。飛騨国には京極佐々木家の一族の多賀氏が守護代としてのりこむことになったわけですが、その多賀氏の当主の所領は近江国犬上郡にあり、しばしば在京して幕府の役職についたりしていたので飛騨国にはその代理人がおくりこまれていたようです。そんな形だったので姉小路家は存続していて二重権力状態だったわけです。
 それが応仁の乱が起こって事態が流動化します。京極持清―勝秀―孫童子丸のラインは東軍方だったのですが、乙童子丸(高清)が西軍方について京極家は分裂、そしてそれに以前に持清、勝秀が亡くなり、そののすぐ後に孫童子丸も死にます。対立軸が、乙童子丸、黒田政光(西軍方)と政経、多賀高忠(東軍方)に移ってしまうわけですね。
 多賀高忠は東軍方京極氏の司令塔として活躍するわけですが、次々と宗家の旗頭が亡くなる中で、飛騨国の確保の為に在国の三木久頼を動かして姉小路氏の勢力範囲である古川盆地に攻めこませます。この時姉小路三家のうち、古河姉小路家の基綱がこれに対抗して三木久頼を討ち取ってしまいました。その結果、飛騨国には京極家の息のかかった対抗勢力がいなくなるという事態に陥りますが、共通の利害関係を持つ京極乙童子丸(高清)方が美濃国の斎藤妙椿を動かして仲裁させます。その結果、当主を失った三木氏も斎藤妙椿との関係を持つに至ります。

 応仁の乱における京極家の戦いは多賀高忠の奮戦にもかかわらず、時に利なく京極政経・多賀高忠率いる東軍方は朝倉孝景(英林)が治める越前国に亡命するに至ります。京極乙童子丸(高清)と京極政経の争いは応仁の乱後も続き、逆転、再逆転が続くのですが1507年(永正四年)に高清の勝利で決着がつきます。その結果京極宗家の領地は北近江半国のみになってしまいました。出雲国は尼子経久が自立し、飛騨国は姉小路氏を初めとする諸勢力が分立する割拠状態となっていました。その中でも勢力を伸ばしたのが先の三木氏です。

 応仁の乱の直前に白川郷に入った内ヶ島氏は地元の本願寺教団の正蓮寺衆と対立してこれを焼き討ちしますが、蓮如のとりなしで正蓮寺と和解し、以後は照蓮寺と寺号を改めた旧正蓮寺と連携して行動を取るようになります。その後、細川政元の命令を受けた加賀国門徒衆が越前国と越中国に乱入します。越中では勝利を得ましたが、越前国では朝倉宗摘に百万の大軍が大敗を喫し、越前国は本願寺教団の寺社を全て破却して禁教令を敷きました。これによって山科本願寺から加賀国へ向かう場合に若狭街道と北国街道ルートは取れなくなったことを意味します。
 そこで、近江から美濃に入り、飛騨・越中経由で進むことになるわけですが、本願寺がそのルートを使って兵を加賀へ送らなければならない事態が発生します。大小一揆の勃発です。

 その直前に二つの事件が起こりました。1528年(大永八年)美濃国で守護の土岐頼純が弟の土岐頼芸と斎藤道三の手により越前に追放されたのです。そしてもう一つがその翌年の1528年(享禄元年)に三木直頼が妙心寺竜泉派の明叔慶浚を開山に禅昌寺を建てました。一見ばらばらの出来事に見えますが、この時細川六郎(晴元)と細川高国が京を巡って対立していたことを考えると一本につながります。
 すなわち、土岐頼純が越前国に亡命するということは、越前国主の朝倉氏と土岐頼芸は敵対勢力となったということです。朝倉氏は細川高国派であり、泉州堺にいる細川六郎(晴元)とは敵対していました。その細川六郎に接近していたのが山科本願寺の蓮淳です。
 三木氏はそれ以前に一族の者を妙心寺に入れ修行をさせていました。杲天宗恵と言います。これはおそらくは斎藤妙椿との関係がきっかけになったものと考えられます。妙心寺は細川政元が斃れ、細川高国が政権を握った時に大徳寺から独立をしています。檀家を全国の有力国人に募るようになったのはこの頃からで、その早期ケースに適用されたのが三木氏でした。その動きはなぜか本願寺と連動しております。

 その後内ヶ島氏が大小一揆で蓮淳方の三河兵を領地通過させます。蓮淳方の三河兵は細川六郎の支持を得ていました。それとほぼ同じタイミングで三木直頼は姉小路氏に戦いを挑み、古河姉小路家の乗っ取りを成功させます。この時点の三木氏は本願寺の意向を受けた内ヶ島氏と連携をしていたようで、天文七年に禅昌寺の僧侶を東美濃に派遣して動静を探らせておりました。そして翌年、三木直頼は美濃の国人畑佐氏救援の為に出兵をします。三木軍の中に内ヶ島氏も参加をしておりました。
 実はこの間、細川六郎(晴元)方は細川高国を仕留めることに成功するのですが、その直後に本願寺は細川六郎(晴元)と抗争を始めてしまい、屈服した流れがあります。美濃の土岐氏もこの流れを見て越前の朝倉と和睦して亡命していた土岐頼純が帰国の運びになっていたのですね。畑佐氏は本願寺門徒の国人であったのですが、土岐家の動向の変化に対応して飛騨の勢力を呼び込んだようです。この時の三木氏は親本願寺派として行動しています。この後、土岐頼純、頼芸兄弟の関係は再び破たんし抗争することになりますが、ここで三木氏は土岐頼芸側について支援したのでした。
 三木氏はこの後飛騨国を掌握し、飛騨国司家であった姉小路家を乗っ取り、自ら姉小路の氏を名乗って戦国大名化することになります。
 この本願寺と妙心寺の連動は形を変えて別の地域でも展開されることになってゆくのです。

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2016年9月10日 (土)

中漠:天文錯乱編⑩享禄の錯乱

 三好元長の帰国で俄然勢いづいたのが、細川高国でした。彼は美作・西播磨に勢力を持つ浦上村宗とタッグを組んで挙兵します。これに慌てふためいたのが柳本賢治でした。堺幕府に救援を求めますが自らまいた種であるので、この調整は上手くいきませんでした。そこで足利義晴と和睦して高国の大義名分を無くそうとも画策するのですが、これも堺幕府に拒絶されます。それは足利義維の立場を考えない身勝手なプランであり過ぎました。やむを得ず自ら軍を率いて高国・村宗連合軍とあたることとなります。それでも彼の悲鳴は尾張にも届いたらしく、織田達勝が出陣前のタイミングで兵三千を率いて上洛しています。この出陣については判っていないことも多いのですが、察するに足利義維の母が斯波家出身なので堺公方を助けるために斯波義統あたりが命じたものと思われます。とは言え、この時南近江の六角定頼が高国方なのによく通してもらえたものだなあと思います。
 柳本賢治は播磨に入り、依藤城を囲んだのですが、細川高国が放った刺客によって暗殺されてしまいました。最前線が崩れ、京や堺はパニックに陥ります。

 その影響を大きく受けたのが本願寺でした。細川高国が都落ちした時、本願寺の指導者であった蓮淳は阿波方と接触しています。彼は時の法主である証如の外祖父でした。朝倉宗滴の上洛が長続きしなかったのも、越前と国境を接する本願寺王国である加賀国の存在があったのではなかったでしょうか。事実、般若野合戦後の余勢をかって影響力を確保した越中国の荘官を蓮淳の支持のもと、門徒衆に差し替えてゆく荘園侵略が進んで行っていたわけです。これを推し進めたのが、山科本願寺から派遣された坊官下間頼秀と加賀国に亡命中の藤島超勝寺実顕です。かつて越前国にあった寺でしたが、九頭竜合戦で朝倉宗滴に一蹴されて以後、越前国から追い出された亡命寺院で、同じ境遇の本覚寺とともに越前奪還を唱えておりました。これを煙たく思っていたのが加賀国を実質的に支配していた三ヶ寺、若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺という蓮如の三人の息子が開いた寺院でした。蓮如の死後、本願寺教団は一門一家制を敷いて本末寺院の序列を定めました。その序列設定の判断基準となったのは蓮如との血のつながりでした。蓮如の代においては本覚寺や近江堅田にある本福寺の貢献は大なるものがあったのですが、一門一家制によって蓮如の一族が入った寺よりも格下に位置付けられたのでした。本覚寺蓮恵などは九頭竜川合戦の敗戦責任を本泉寺蓮悟に詰め寄ったのですが、本末の序列を乱した罰で一時的に住持が破門を食らったりしております。本覚寺や超勝寺は越前帰還が大きな目標でありましたが、加賀三ヶ寺は加賀国の経営に忙しく、むしろ細川高国と近しい周辺諸国(朝倉氏の越前、神保氏の越中、畠山氏の能登)と無用な摩擦を生じせしめることは疎ましいことだと考えていました。そんな中、柳本賢治軍がまさかの崩壊をしてしまったのです。
 京においても柳本賢治の後任に畠山義堯の被官である木澤長政が河内国から派遣されましたが、都人の動揺を抑えられなかったせいか程なく撤収します。国境の向こうには高国方の六角定頼が蠢動し、東山将軍地蔵山ではいつのまにか同じく高国方に属する丹波国人内藤彦七が陣をはっておりました。木澤長政の撤収によって京の防備体制は消滅し、京は高国方の手に落ちてしまいます。

 この事態は加賀三ヶ寺にとって忍耐の限度を超えるものでした。三ヶ寺は超勝寺がやっている荘園侵略を止めるように警告を繰り返しておりましたが、超勝寺住持実顕はこれを頑として聞き入れませんでした。荘園侵略は本山の意志であるし、実顕は本覚寺と同様越前奪回に動かない加賀三ヶ寺に業を煮やし続けていたのです。しかし、状況はそんなことを言っていられる場合ではありません。そもそも本山である山科本願寺にしても北の朽木に足利義晴、東の観音寺に六角定頼、西の京に内藤彦七と三方を敵に囲まれているのです。越中の荘園侵略はそんな高国方にとって本願寺が次のターゲットであることをふれて回っているのと同然でした。
 本泉寺蓮悟は超勝寺実顕の討伐を決め、加賀全土に命令を出しました。一門一家制の序列に従って粛清は速やかに行われるものと思われましたが、同じ亡命組である本覚寺蓮恵が超勝寺側につきます。加賀門徒は二派に分かれて戦線は膠着状態になりました。三ヶ寺側には富樫稙泰・泰俊親子、蓮能の実兄畠山家俊も参戦して高国方の色を濃くしていたのですがそこに思わぬ事態が出来します。

 摂津の戦線で大物崩れが起こって高国方の中核である細川高国と浦上村宗両名が三好元長に討ち取られてしまったのでした。細川高国の命令で動いていた各勢力は頭脳を失って身動きが取れなくなってしまったのです。この機をとらえて山科本願寺の蓮淳は加賀三ヶ寺を破門の上、討伐令を出します。
 実働したのは蓮淳の甥にあたる実円でした。彼は三河国本宗寺と播磨国本徳寺の住持ではありましたが、専ら本山に詰めて法主や蓮淳の補佐にあたっておりました。本徳寺のある英賀が細川高国・浦上村宗の手に落ちて奪回の算段を立てようとしていた矢先の大物崩れです。実円は勇んで残敵掃討に乗り出します。すなわち、三河本宗寺の門徒衆を動員して加賀に送り込んだのです。

態一筆取向候。仍今度於波佐谷被遂一線、被得大利候。寔忠節悦入候。殊更長々在陣、辛労痛入候。弥馳走可頼入候。穴賢々々
十月五日
          証如(花押)
 三河坊主衆中へ
  其外加州へ下国衆中へ

(諦聴寺文書:井上鋭夫『一向一揆の研究』所載)

わざと一筆取り向け候。今度波佐谷において遂に一戦により、大利を得られ候。まことに忠節よろこび入り候。ことさら長々の在陣、辛労痛み入り候。いよいよ馳走頼み入るべく候。あなかしこ、あなかしこ。

 この時の三河国は松平清康が席巻しておりました。その松平家の有力家臣である石川清兼は三河国における門徒衆の束ねでもあります。尾張の織田家と松平家は松平信定(清康の叔父)を通じて姻戚関係にありましたし、尾張下四郡守護代織田達勝と山科本願寺はパイプを持っておりました。美濃を通過して飛騨には門徒方の内ヶ島氏がおります。
 実円は三河―尾張―美濃―飛騨―越中―加賀のルートで三河兵を下間頼秀・頼盛兄弟とともに送り込み、加賀三ヶ寺を抑え込むことに成功しました。これを称して大小一揆といいます。
 以前、大一揆を蓮淳・超勝寺方、小一揆を三ヶ寺方と呼んだのですが、後に別の本を見て訂正をしました。しかし、同じ研究者でも論文の発表時期によってどちらをどちらと呼称にするのかが違っていたようです。なので、現時点ではどちらを大一揆・小一揆と呼ぶべきかは私自身定まっておりません。むしろ蓮淳・超勝寺方、三ヶ寺方などと呼んだ方がわかりやすいかと思います。

 本稿の内容は川の戦国史でより詳しく書いておりますが、次項においてはそこでも詳しく触れられなかった三河兵の美濃・飛騨ルートについて、寄り道したいと思います。

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2016年9月 3日 (土)

中漠:天文錯乱編⑨堺幕府成立

  前稿までで一旦東海地方の動静は置いておいて、引き続き京の情勢に戻ってみたいと思います。先には細川高国を中心に描写して、柳本賢治の話も少し書きましたが、もう少し詳しく阿波・丹波方の動きを追ってみます。

 1527年(大永七年)三好元長に擁された足利義維は堺に入り、官僚を集めてここに政庁を作ります。義維が入ったのは金蓮寺という時宗寺でした。そして三好元長が入ったのが日隆門流の顕本寺です。今谷氏の著書では三好氏は代々法華宗を奉じていたと書かれていますが、私が調べた範囲内では三好氏と法華宗との関係の始まりはここであるように見えます。少なくとも彼の祖父の三好之長は法華宗が盛んな京の町衆には嫌われまくっておりました。
 足利義維は政庁の代表者として堺公方と呼ばれるようになります。公方とは将軍のことですが、朝廷からの将軍宣下は受けておりません。まだ細川高国勢が健在のため、上洛を果たせなかったのですが、上洛しさえすれば将軍宣下を受けられることはまず間違いなかったでしょう。よって義維の政庁を幕府と呼んでも差しつかえないかと私も思います。彼には足利義稙が引き連れてきた官僚衆がおりました。よってそのまま実務は可能と言えば可能なのですが、その束ねが必要です。本来であれば管領がその役目を果たすべきなのですが、その資格を持つ細川六郎はこの時わずか十三歳の少年でした。であれば堺幕府設立の段取り立てをした三好元長が務めるべきかもしれませんが、彼には軍事の役割も負わされておりました、と言うよりむしろそちらの方が得意分野だったわけです。そこで右筆(秘書)を任じ、細川六郎に担わされた事実上の管領職の代行をさせることにしたのですが、その役職についた者は茨木長隆という一介の摂津国人でした。応仁乱後の摂津国人一揆以来、地生えの豪族が細川京兆家側近に取り立てられるという大抜擢人事になります。
 永正の錯乱からこちら政局の安定は至難の業で、細川高国は政権をこそ長期に持たせはしたものの、戦乱は絶えず、難治の畿内に頭を悩ませていました。いわんやずっと阿波に逼塞していた足利義維・三好元長をやです。畿内に支配を及ぼすために地元の政情に精通した人物は絶対に必要でした。細川高国ですら、丹波国人である波多野稙通の弟の元盛に讃岐からの流れを汲む香西家を継がせて内衆として使っていましたので、前例がないわけではないかと思料します。そんなこんなで三好元長は堺幕府の組織作りに奔走していてなかなか京に目を向けられていませんでした。

 桂川原合戦においては、波多野兄弟だけではなく、阿波方から三好一族の三好勝長・政長兄弟も参戦しておりました。高国方は高国と若狭守護の武田元光で戦っていたのですが、戦そのものは激戦でした。三好勝長は武田元光軍と戦って重傷を負って脱落しております。戦いに利なしと判断した細川高国は足利義晴を連れて撤退します。それに対して上洛を果たしたのは波多野兄弟と三好政長でした。波多野稙通は京の防衛を弟の柳本賢治に委ねます。京は丹波を抑えていないとすぐに取り返されてしまうという判断だったのでしょう。

 事実、その翌年細川高国が越前の朝倉宗滴を連れて京を奪い返しますが、半年足らずで奪還されてしまいました。流石に京の防備は疎かにできないと、三好家当主の元長が上洛して山城国守護代に就任します。しかし、彼と柳本賢治、そして三好政長が折り合い悪く、収拾がつかなくなってしまいます。察するに三好之長の悪名がまだついて回っていたものと思われます。おそらくは波多野兄弟のような丹波衆にとって、三好は如意ヶ嶽合戦、船岡山合戦、等持院合戦と三度も京を脅かした悪人軍団で、之長はその中のラスボスのような存在でした。等持院合戦で之長は虜になって京の町衆ら衆人環視のもと、処刑されたわけで、若い頃の応仁の乱で土一揆を煽った前科も思い出されて何一つ良い印象のない人物であったのではないでしょうか。三好之長が京を脅かす悪鬼となってしまったのは他ならぬ細川高国の裏切りにあったことは間違いないのですが、その高国にしても京の平和が守られたという筋立てで統治の正当性を担保する意味合いからその評判を覆す必要性を感じなかったのでしょう。
 三好政長も本来であれば、宗家当主の元長を立てるべき立場ですが、彼には自ら桂川原合戦で細川高国を打ち破った自負がありました。同時に兄の勝長がその戦いにおいて戦死していることもその思いを強くしていたと思います。命がけで戦って占領した京を何もしていなかった宗家が全部持って行ったように感じたのではなかったでしょうか。実際は足利義維を堺につれて幕府の体裁を整えるのに時間がかかっていたわけで、決して遊んでいたわけではありません。とりあえず三好政長には本来なら兄の勝長が行うはずだった宗家を助け、柳本賢治との関係もとりなして朝廷や町衆を慰撫する役割が宛がわれていたはずなのですが、政長が柳本賢治の肩をもって対立を煽ったものですから収まるものも収まりませんでした。阿波細川家に逼塞時の『影の内閣』(将軍はもちろん足利義維)で管領に擬されていた細川六郎少年に対して讒訴状を送ったりしていました。流石にこんな状況では上手くゆくはずもなく、激昂した三好元長は阿波に帰ってしまいました。元長の代役には政長がつき、その苦労が酬いられたはずなのですが、周辺勢力はそんな事情は斟酌してくれませんでした。三好元長の都落ちはむしろ、京奪還のチャンスと見られてしまっていたのです。

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