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2016年9月 3日 (土)

中漠:天文錯乱編⑨堺幕府成立

  前稿までで一旦東海地方の動静は置いておいて、引き続き京の情勢に戻ってみたいと思います。先には細川高国を中心に描写して、柳本賢治の話も少し書きましたが、もう少し詳しく阿波・丹波方の動きを追ってみます。

 1527年(大永七年)三好元長に擁された足利義維は堺に入り、官僚を集めてここに政庁を作ります。義維が入ったのは金蓮寺という時宗寺でした。そして三好元長が入ったのが日隆門流の顕本寺です。今谷氏の著書では三好氏は代々法華宗を奉じていたと書かれていますが、私が調べた範囲内では三好氏と法華宗との関係の始まりはここであるように見えます。少なくとも彼の祖父の三好之長は法華宗が盛んな京の町衆には嫌われまくっておりました。
 足利義維は政庁の代表者として堺公方と呼ばれるようになります。公方とは将軍のことですが、朝廷からの将軍宣下は受けておりません。まだ細川高国勢が健在のため、上洛を果たせなかったのですが、上洛しさえすれば将軍宣下を受けられることはまず間違いなかったでしょう。よって義維の政庁を幕府と呼んでも差しつかえないかと私も思います。彼には足利義稙が引き連れてきた官僚衆がおりました。よってそのまま実務は可能と言えば可能なのですが、その束ねが必要です。本来であれば管領がその役目を果たすべきなのですが、その資格を持つ細川六郎はこの時わずか十三歳の少年でした。であれば堺幕府設立の段取り立てをした三好元長が務めるべきかもしれませんが、彼には軍事の役割も負わされておりました、と言うよりむしろそちらの方が得意分野だったわけです。そこで右筆(秘書)を任じ、細川六郎に担わされた事実上の管領職の代行をさせることにしたのですが、その役職についた者は茨木長隆という一介の摂津国人でした。応仁乱後の摂津国人一揆以来、地生えの豪族が細川京兆家側近に取り立てられるという大抜擢人事になります。
 永正の錯乱からこちら政局の安定は至難の業で、細川高国は政権をこそ長期に持たせはしたものの、戦乱は絶えず、難治の畿内に頭を悩ませていました。いわんやずっと阿波に逼塞していた足利義維・三好元長をやです。畿内に支配を及ぼすために地元の政情に精通した人物は絶対に必要でした。細川高国ですら、丹波国人である波多野稙通の弟の元盛に讃岐からの流れを汲む香西家を継がせて内衆として使っていましたので、前例がないわけではないかと思料します。そんなこんなで三好元長は堺幕府の組織作りに奔走していてなかなか京に目を向けられていませんでした。

 桂川原合戦においては、波多野兄弟だけではなく、阿波方から三好一族の三好勝長・政長兄弟も参戦しておりました。高国方は高国と若狭守護の武田元光で戦っていたのですが、戦そのものは激戦でした。三好勝長は武田元光軍と戦って重傷を負って脱落しております。戦いに利なしと判断した細川高国は足利義晴を連れて撤退します。それに対して上洛を果たしたのは波多野兄弟と三好政長でした。波多野稙通は京の防衛を弟の柳本賢治に委ねます。京は丹波を抑えていないとすぐに取り返されてしまうという判断だったのでしょう。

 事実、その翌年細川高国が越前の朝倉宗滴を連れて京を奪い返しますが、半年足らずで奪還されてしまいました。流石に京の防備は疎かにできないと、三好家当主の元長が上洛して山城国守護代に就任します。しかし、彼と柳本賢治、そして三好政長が折り合い悪く、収拾がつかなくなってしまいます。察するに三好之長の悪名がまだついて回っていたものと思われます。おそらくは波多野兄弟のような丹波衆にとって、三好は如意ヶ嶽合戦、船岡山合戦、等持院合戦と三度も京を脅かした悪人軍団で、之長はその中のラスボスのような存在でした。等持院合戦で之長は虜になって京の町衆ら衆人環視のもと、処刑されたわけで、若い頃の応仁の乱で土一揆を煽った前科も思い出されて何一つ良い印象のない人物であったのではないでしょうか。三好之長が京を脅かす悪鬼となってしまったのは他ならぬ細川高国の裏切りにあったことは間違いないのですが、その高国にしても京の平和が守られたという筋立てで統治の正当性を担保する意味合いからその評判を覆す必要性を感じなかったのでしょう。
 三好政長も本来であれば、宗家当主の元長を立てるべき立場ですが、彼には自ら桂川原合戦で細川高国を打ち破った自負がありました。同時に兄の勝長がその戦いにおいて戦死していることもその思いを強くしていたと思います。命がけで戦って占領した京を何もしていなかった宗家が全部持って行ったように感じたのではなかったでしょうか。実際は足利義維を堺につれて幕府の体裁を整えるのに時間がかかっていたわけで、決して遊んでいたわけではありません。とりあえず三好政長には本来なら兄の勝長が行うはずだった宗家を助け、柳本賢治との関係もとりなして朝廷や町衆を慰撫する役割が宛がわれていたはずなのですが、政長が柳本賢治の肩をもって対立を煽ったものですから収まるものも収まりませんでした。阿波細川家に逼塞時の『影の内閣』(将軍はもちろん足利義維)で管領に擬されていた細川六郎少年に対して讒訴状を送ったりしていました。流石にこんな状況では上手くゆくはずもなく、激昂した三好元長は阿波に帰ってしまいました。元長の代役には政長がつき、その苦労が酬いられたはずなのですが、周辺勢力はそんな事情は斟酌してくれませんでした。三好元長の都落ちはむしろ、京奪還のチャンスと見られてしまっていたのです。

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