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2016年9月10日 (土)

中漠:天文錯乱編⑩享禄の錯乱

 三好元長の帰国で俄然勢いづいたのが、細川高国でした。彼は美作・西播磨に勢力を持つ浦上村宗とタッグを組んで挙兵します。これに慌てふためいたのが柳本賢治でした。堺幕府に救援を求めますが自らまいた種であるので、この調整は上手くいきませんでした。そこで足利義晴と和睦して高国の大義名分を無くそうとも画策するのですが、これも堺幕府に拒絶されます。それは足利義維の立場を考えない身勝手なプランであり過ぎました。やむを得ず自ら軍を率いて高国・村宗連合軍とあたることとなります。それでも彼の悲鳴は尾張にも届いたらしく、織田達勝が出陣前のタイミングで兵三千を率いて上洛しています。この出陣については判っていないことも多いのですが、察するに足利義維の母が斯波家出身なので堺公方を助けるために斯波義統あたりが命じたものと思われます。とは言え、この時南近江の六角定頼が高国方なのによく通してもらえたものだなあと思います。
 柳本賢治は播磨に入り、依藤城を囲んだのですが、細川高国が放った刺客によって暗殺されてしまいました。最前線が崩れ、京や堺はパニックに陥ります。

 その影響を大きく受けたのが本願寺でした。細川高国が都落ちした時、本願寺の指導者であった蓮淳は阿波方と接触しています。彼は時の法主である証如の外祖父でした。朝倉宗滴の上洛が長続きしなかったのも、越前と国境を接する本願寺王国である加賀国の存在があったのではなかったでしょうか。事実、般若野合戦後の余勢をかって影響力を確保した越中国の荘官を蓮淳の支持のもと、門徒衆に差し替えてゆく荘園侵略が進んで行っていたわけです。これを推し進めたのが、山科本願寺から派遣された坊官下間頼秀と加賀国に亡命中の藤島超勝寺実顕です。かつて越前国にあった寺でしたが、九頭竜合戦で朝倉宗滴に一蹴されて以後、越前国から追い出された亡命寺院で、同じ境遇の本覚寺とともに越前奪還を唱えておりました。これを煙たく思っていたのが加賀国を実質的に支配していた三ヶ寺、若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺という蓮如の三人の息子が開いた寺院でした。蓮如の死後、本願寺教団は一門一家制を敷いて本末寺院の序列を定めました。その序列設定の判断基準となったのは蓮如との血のつながりでした。蓮如の代においては本覚寺や近江堅田にある本福寺の貢献は大なるものがあったのですが、一門一家制によって蓮如の一族が入った寺よりも格下に位置付けられたのでした。本覚寺蓮恵などは九頭竜川合戦の敗戦責任を本泉寺蓮悟に詰め寄ったのですが、本末の序列を乱した罰で一時的に住持が破門を食らったりしております。本覚寺や超勝寺は越前帰還が大きな目標でありましたが、加賀三ヶ寺は加賀国の経営に忙しく、むしろ細川高国と近しい周辺諸国(朝倉氏の越前、神保氏の越中、畠山氏の能登)と無用な摩擦を生じせしめることは疎ましいことだと考えていました。そんな中、柳本賢治軍がまさかの崩壊をしてしまったのです。
 京においても柳本賢治の後任に畠山義堯の被官である木澤長政が河内国から派遣されましたが、都人の動揺を抑えられなかったせいか程なく撤収します。国境の向こうには高国方の六角定頼が蠢動し、東山将軍地蔵山ではいつのまにか同じく高国方に属する丹波国人内藤彦七が陣をはっておりました。木澤長政の撤収によって京の防備体制は消滅し、京は高国方の手に落ちてしまいます。

 この事態は加賀三ヶ寺にとって忍耐の限度を超えるものでした。三ヶ寺は超勝寺がやっている荘園侵略を止めるように警告を繰り返しておりましたが、超勝寺住持実顕はこれを頑として聞き入れませんでした。荘園侵略は本山の意志であるし、実顕は本覚寺と同様越前奪回に動かない加賀三ヶ寺に業を煮やし続けていたのです。しかし、状況はそんなことを言っていられる場合ではありません。そもそも本山である山科本願寺にしても北の朽木に足利義晴、東の観音寺に六角定頼、西の京に内藤彦七と三方を敵に囲まれているのです。越中の荘園侵略はそんな高国方にとって本願寺が次のターゲットであることをふれて回っているのと同然でした。
 本泉寺蓮悟は超勝寺実顕の討伐を決め、加賀全土に命令を出しました。一門一家制の序列に従って粛清は速やかに行われるものと思われましたが、同じ亡命組である本覚寺蓮恵が超勝寺側につきます。加賀門徒は二派に分かれて戦線は膠着状態になりました。三ヶ寺側には富樫稙泰・泰俊親子、蓮能の実兄畠山家俊も参戦して高国方の色を濃くしていたのですがそこに思わぬ事態が出来します。

 摂津の戦線で大物崩れが起こって高国方の中核である細川高国と浦上村宗両名が三好元長に討ち取られてしまったのでした。細川高国の命令で動いていた各勢力は頭脳を失って身動きが取れなくなってしまったのです。この機をとらえて山科本願寺の蓮淳は加賀三ヶ寺を破門の上、討伐令を出します。
 実働したのは蓮淳の甥にあたる実円でした。彼は三河国本宗寺と播磨国本徳寺の住持ではありましたが、専ら本山に詰めて法主や蓮淳の補佐にあたっておりました。本徳寺のある英賀が細川高国・浦上村宗の手に落ちて奪回の算段を立てようとしていた矢先の大物崩れです。実円は勇んで残敵掃討に乗り出します。すなわち、三河本宗寺の門徒衆を動員して加賀に送り込んだのです。

態一筆取向候。仍今度於波佐谷被遂一線、被得大利候。寔忠節悦入候。殊更長々在陣、辛労痛入候。弥馳走可頼入候。穴賢々々
十月五日
          証如(花押)
 三河坊主衆中へ
  其外加州へ下国衆中へ

(諦聴寺文書:井上鋭夫『一向一揆の研究』所載)

わざと一筆取り向け候。今度波佐谷において遂に一戦により、大利を得られ候。まことに忠節よろこび入り候。ことさら長々の在陣、辛労痛み入り候。いよいよ馳走頼み入るべく候。あなかしこ、あなかしこ。

 この時の三河国は松平清康が席巻しておりました。その松平家の有力家臣である石川清兼は三河国における門徒衆の束ねでもあります。尾張の織田家と松平家は松平信定(清康の叔父)を通じて姻戚関係にありましたし、尾張下四郡守護代織田達勝と山科本願寺はパイプを持っておりました。美濃を通過して飛騨には門徒方の内ヶ島氏がおります。
 実円は三河―尾張―美濃―飛騨―越中―加賀のルートで三河兵を下間頼秀・頼盛兄弟とともに送り込み、加賀三ヶ寺を抑え込むことに成功しました。これを称して大小一揆といいます。
 以前、大一揆を蓮淳・超勝寺方、小一揆を三ヶ寺方と呼んだのですが、後に別の本を見て訂正をしました。しかし、同じ研究者でも論文の発表時期によってどちらをどちらと呼称にするのかが違っていたようです。なので、現時点ではどちらを大一揆・小一揆と呼ぶべきかは私自身定まっておりません。むしろ蓮淳・超勝寺方、三ヶ寺方などと呼んだ方がわかりやすいかと思います。

 本稿の内容は川の戦国史でより詳しく書いておりますが、次項においてはそこでも詳しく触れられなかった三河兵の美濃・飛騨ルートについて、寄り道したいと思います。

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