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2016年9月24日 (土)

中漠:天文錯乱編⑬戦国時代の底

 戦国時代がいつ始まっていつ終わったかについては諸説ありますが、概ね1467年(応仁元年)の応仁の乱又は1493年(明応二年)の明応の政変から始まって、1585年(天正十三年)の豊臣秀吉による惣無事令か、1600年(慶長五年)の関ケ原合戦あたりに終わるということに集約されるのだろうと思います。異論は認めます。

 では、戦国時代が一番戦国時代らしく秩序が崩壊していた時代はいつ頃であろうかと考えるならば、まさしく1532年(享禄五年・天文元年)ではなかったろうかと私は考えます。それまでは曲がりなりにも室町幕府の秩序を維持しようとする姿勢があったのですが、諸家分流の局面が三管四職すべての家に及び、守護としての役目すらも全うできなくなるのがこの頃であるからです。木澤長政や茨木長隆ら、前時代に類例を探してもいないような一代限りの英傑が跳梁跋扈するまさにハロウィンのような時代でありました。
 この時代の後に、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三傑が苦闘の末に天下を統一するわけですが、そのプロセスの始まりはこの時代にあるとも同時に言えるわけです。

  三好元長は激情に駆られて柳本甚次郎を殺害したわけですが、これは手痛い失敗でした。自らの統治能力の欠如をさらけ出したようなものです。細川高国を倒した武功はこれと引き換えにチャラとは言いませんが、大きく減じられてしまったことは否めません。元長本人もさすがにまずいと思ったのか、僧形となり海雲入道と号します。この時の宗旨に私は興味を持っているのですが、今のところ確定的なことは判りません。三好元長は法華宗日隆門流の顕本寺で壮絶な最期を遂げて墓はそこに建てられ、ずっと後に菩提寺として大徳寺派の南宗寺が息子の長慶によって建てられるのですが、おそらくは代々の当主が属した真言宗だったのではないか、と思います。法華では法号に「日」、大徳寺派ですと「宗」がつくことが多いのですが、元長の法号にはそのいずれもありませんので。

 阿波守護の細川持隆が三好元長をかばうことで一応の体裁は繕われます。しかし、その裏で三好元長に対する悪意は蠢動を続けておりました。それは朽木にいる足利義晴を奉じようというものでした。もともと亡き柳本賢治が言い出したことであるのですが、その心は、足利義維を公方として奉じている限り、そこに必ず三好元長がついてくるので、元長を排斥するなら義維も一緒に除いた方がよいのではないか、という発想にあります。細川高国が生きている間はそれはさすがに絵空事に過ぎないのですが、皮肉なことにその高国は元長が倒してしまいました。そして三好元長の失敗を機に、摂津・丹波の国人衆を中心にそうした構想は密かに支持を集め始めておりました。

 もちろん道義的な問題も生じてくるのでそのような発想を嫌う人々もいました。足利義維を保護して盛り立て堺に幕府を立てるお膳立てをした阿波守護細川持隆、河内守護の畠山義堯らです。彼らが堺金蓮寺にいる足利義維を盛り立てている限り、現実味はありません。しかし、思わぬ人物がこの危ない構想をさらに押し進めます。筆頭右筆として細川六郎を補佐する茨木長隆です。もともとは三好元長が畿内の政情に詳しい実務家としてスカウトした人物ですが、この段階でその謀略家としての才能が開花します。筆頭右筆として細川六郎の身近に仕える立場を利用して、細川六郎をして義晴奉戴派に転じせしめたのです。この時六郎は十九歳。おそらくは元服済で義維から偏諱を貰って維元(もしくは綱元?)を名乗っていたのではないかと思うのですが、なぜかこの時期の諱は伝わっておりません。幼いころから阿波守護家に保護をされて、名目上の当主に推戴されるものの、政治判断や実務はすべて周囲の大人たちに取られてしまって自分は何もできないことに歯がゆさを感じていたとは思います。しかし、この判断は最悪の闘争を呼び込むことになりました。

 阿波守護細川持隆は必死に止めましたが、茨木長隆に取り込まれた六郎の意を変えることはできませんでした。失意の持隆が阿波に帰国するに及んで堺幕府は崩壊の危機に瀕することになります。おりしも、畠山義堯の片腕である木澤長政もまたその構想を支持して六郎方につきます。畠山義堯と木澤長政はその前年から武力衝突を始めているのですが、義堯は堺政権崩壊を導きかねない木澤の粛清に動きました。三好元長は一門の三好一秀を派遣して義堯と合流させて木澤長政の居城の飯盛山城を攻め立てます。
 摂津・丹波国衆は中小豪族の乱立状態で、まとまった軍を動かす指導者がいないはずでした。その点、畠山義堯や三好元長は強力な一族郎党に支えられた軍団を持っております。この軍団を使って順番に反対勢力を狩ってゆくことは不可能ではないと考えました。

 それは全くの事実でしたが、畠山・三好連合は致命的な見落としをしていました。中小豪族の期待を受けて義晴奉戴に協力を期待しうる強力な軍団が存在していたのです。それは証如光教率いる本願寺教団でした。本願寺教団はすでに加賀で三ヶ寺の粛清のために軍団派遣を行っておりました。むろんこれは堺幕府の方針に沿ったものです。実は堺幕府と本願寺とのパイプを持っていたのは茨木長隆でした。彼の縁者の妻女が本願寺坊官下間氏の出身であったとのことです。本願寺にとって蓮能との絡みで畠山氏に対しては含むところがありました。大小一揆においても蓮能の実兄畠山家俊が三ヶ寺側で参戦しています。そして、この時は証如本人が自ら石山入りする気合いの入れようでした。証如もまたこの時十七歳の血気盛んな年頃でありました。蓮如以来本願寺の歴代法主は門徒にとってスターのような存在でありました。摂津・丹波が統一されないのは地縁のしがらみがあってのことですが、そのスターが畠山と三好を倒せと煽ったのです。すべてのしがらみはすっとんで雲霞の如き兵が飯盛山目指して湧き上がりました。その数なんと十万と言います。

 大軍に軍略なしとか言いますが、精強を誇った飯盛山攻囲軍はこの大軍にあっという間に飲み込まれてしまいました。畠山義堯や三好一秀は逃げる間もなく討ち死にを遂げます。そして門徒軍は返す刀で堺に向かいました。主力を潰された三好元長には抵抗するすべはありません。足利義維を船で逃がすと、自らは顕本寺で割腹。臓物を腹から引きずり出し、天井に叩きつけて絶命するという壮絶な最期を遂げました。
 しかし、これは後に天文の錯乱と呼ばれる大災厄の始まりに過ぎませんでした。

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