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2016年9月19日 (月)

中漠:天文錯乱編⑫野合連合

 本稿では三好元長の不遇について書き記そうと思います。三好之長もそうでしたが、三好元長もまた、都人を初めとして丹波・摂津国衆に蛇蝎の如く嫌われまくっておりました。彼らは決して無能ではなく、逆に有能であるが故に周囲から警戒され、本領を発揮できないように強いられ続けて行ったわけです。その意味では現代政治における小沢一郎を想起させられます。
 三好元長が京で柳本賢治との政争に敗れて阿波で逼塞している間、案の定堺幕府は動揺しました。要するに彼抜きでは軍を効率的に運用できないのですね。播磨から細川高国と浦上村宗が挙兵してきた時、柳本賢治が堺の足利義維に向けて、朽木の足利義晴と和睦したいと言ってきたのはその極みです。丹波国人の立場からすれば、上が誰であろうと自分の立場さえ尊重されれば問題ないことが露呈したわけですが、それは他の国人衆とて大差がなかったことがやがて明らかになります。堺幕府は柳本賢治にとりあえず正面の敵を何とかしろ、と命じます。彼が三好元長と上手くやっていれば、彼が出てゆく必要などはありませんでした。結局、一戦も交えることなく柳本賢治は暗殺され、連合軍は摂津に侵入、京は高国派の六角定頼と丹波国人内藤彦七に抑えられ、柳本の後任として上洛していた木澤長政にもなすすべはありませんでした。
 万策尽きた堺幕府は三好元長を呼び寄せます。どの面下げてと毒づきたかったでしょうが、元長は彼に課された義務を果たします。この時点で彼には味方がいました。阿波守護細川持隆です。彼は三好之長が亡くなり、細川澄元が亡くなり、足利義稙が亡くなった後も、残された細川六郎と足利義維を守り、之長の孫の元長を盛り立ててその勢力の再起をプロモートした人物でした。彼が足利義維と細川六郎を上洛させてどんな政治を執らせようとしたのかはわかりませんが、少なくとも義稙、澄元、之長三名の無念を晴らしたかったことは事実でありましょう。
1531年(享禄四年)二月二十一日、三好元長は一万五千の兵を率いて堺に上陸します。そして住吉方面に出兵して一戦交えます。これに対して高国・浦上連合軍は野田・福島に兵二万で防御線をしきました。さらに三月二十五日には阿波守護細川持隆が兵八千とともに堺に入ります。三好・阿波軍は五月十三日に住吉郡に展開したことで、阿倍野の森を挟んで両軍が対峙、戦線が膠着します。
 この均衡を破ったのが摂津神呪寺に陣した赤松政村です。彼はもともと浦上村宗の主筋にあたる人物であるのですが、父の赤松義村は浦上村宗によって失脚・暗殺させられる目にあっています。政村はその後釜として擁立せられた傀儡で、播磨は事実上浦上村宗によって牛耳られていたのでした。この戦いにおいても赤松政村は高国・浦上連合軍の後詰めとして参陣していたのですが、密かに堺方と通じ、六月四日に父の仇、浦上村宗に叛旗を翻したのでした。これによって最前線の野田・福島の陣に動揺が走ります。連合軍に逃亡者が続出して陣の維持に齟齬が生じるようになりました。その虚を突いて三好軍が一気に攻勢に出ます。連合軍はこれを支えきれず、前線は崩壊しました。細川高国は大物城を目指して退却しますが、そこはすでに赤松軍に抑えられておりました。やむを得ず町屋に逃げ込んだところをとらえられて斬られてしまいます。浦上村宗は赤松軍に捕捉され討ち死に。これを称して大物崩れと言います。

 三好元長の鮮やかな逆転勝利でした。山科本願寺はこの直後に加賀三ヶ寺の粛清に踏み切っております。元長は意気揚々と上洛するのですが、その先は何も変わっておりませんでした。むしろ細川高国と言う共通の敵がいなくなったことで、対立はより先鋭化し、対立軸はより目に見えやすいものになったと言えます。上洛した京にいたのは、柳本賢治の息子、甚次郎でした。彼が頼ったのは木澤長政でした。木澤長政は柳本賢治が暗殺された後の京都防衛を任されていたはずですが、いつの間にか軍を退いて京を占領された前科があったのですが、高国方の典廐細川尹賢を殺害した功で堺幕府幕閣の居残りに成功しておりました。その彼がまたしても三好政長と結託して三好元長の讒訴を始めてしまうわけです。

 この何者にも学ばない姿勢は何なのだろうかと思います。三好元長を追い出すことによって招いた窮地を元長にカバーしてもらったこと自体大変恥ずかしいことなのに、まったく同じことを繰り返してしまう。そのことがどれほど恐ろしい事態を引き起こすのか、想像力が欠如しているとしか言いようがありません。
 三好元長はこの挙に激怒して、三条城にいた柳本甚次郎を襲って討ち取ってしまいました。

 うんざりするような展開ですが、事態はさらにやばい方向に悪化します。

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コメント

お初です。
晴元が送った書状には元長を名指しした上で「望共悉く相叶える」とあることからも相当な期待があったことが伺えますね。
三好本家の力の源泉が何だったのかよく分かりませんけど(宮帯出版の本では木材の水運とか)

投稿: 関東第一警備(株) | 2016年9月23日 (金) 12時58分

関東第一警備(株)様
いらっしゃいませ。細川六郎晴元が政界デビューできたのは間違いなく三好元長の尽力によるものであるだけに、後年の決裂が悲しくもあります。仰せの書状は私がネタ本にしている今谷明氏の著書の「戦国三好一族」では、三好政長と茨木長隆の手によるものになっています。その文言は六郎の本音だったかもしれませんが、いずれにせよ祐筆茨木長隆が書き記したものでしょう。細川六郎はこの時十代の少年武者だったので、この件の責任は問い辛くはありますが、この後の展開も含めてもう少し何とかならなかったものかと思ってしまいます。

投稿: 巴々 | 2016年10月 9日 (日) 22時52分

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