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2016年9月17日 (土)

中漠:天文錯乱編⑪飛騨国興亡

 応仁の乱においては、三管四職の有力豪族が分裂して戦ったわけですが、四職を占める京極佐々木氏も例外ではありませんでした。応仁の乱中、当代の京極持清は東軍に属しておりましたが、彼と嫡男の勝秀が乱中にあいついで病死。後継を巡って勝秀の遺児、孫童子丸と乙童子丸の二人をそれぞれ担いで内紛が発生します。これはもちろん、東軍方の京極家に対して西軍側の介入があったためでしょう。佐々木氏宗家の六角高頼は西軍についておりましたので、彼が策した物ではないかと思います。
 1470年(文明二年)に京極勝秀の次男、乙童子丸派が西軍方に走って京極家のお家騒動が顕在化します。東軍側に残った孫童子丸はその翌年に病死し、旗頭は叔父の政経が引き継ぎます。乙童子丸の方は、政経の実兄ですが、佐々木一族の黒田家に養子に行った政光がバックアップし、内紛はヒートアップします。

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 京極家内紛に勝ち残ったのは高清でしたが、その過程で弱体化を余儀なくされます。すなわち、京極佐々木氏は北近江だけではなく、隠岐、出雲、飛騨の三ヶ国の守護も兼務していたわけですが、三国の領地を全て失ってしまったのです。隠岐と出雲を抑えたのは京極一族出身の尼子経久でした。
 今回の話は残る一ヶ国の飛騨国についての話です。

 飛騨国はもともと、建武の親政の時に飛騨国司に任じられた姉小路家が国司に任じられて以来、建武の親政破たん後も実効支配していたのですが、足利尊氏の死の翌年に、佐々木導誉の守護国に加えられました。今川範国の駿河守護の例から見て、守護補任がすぐにその国の支配権の確立を意味するわけではなく、以後も姉小路家が飛騨国を掌握していたわけです。この姉小路家は応永年間に、飛騨の乱という反乱を起こして幕府に鎮圧されます。その後小島家、向小島家、古河家の三家に分かれて対立するようになったわけです。そのタイミングで京極佐々木家は飛騨国に介入して実権を手にしていったわけですが、基本守護である佐々木氏は在京です。飛騨国には京極佐々木家の一族の多賀氏が守護代としてのりこむことになったわけですが、その多賀氏の当主の所領は近江国犬上郡にあり、しばしば在京して幕府の役職についたりしていたので飛騨国にはその代理人がおくりこまれていたようです。そんな形だったので姉小路家は存続していて二重権力状態だったわけです。
 それが応仁の乱が起こって事態が流動化します。京極持清―勝秀―孫童子丸のラインは東軍方だったのですが、乙童子丸(高清)が西軍方について京極家は分裂、そしてそれに以前に持清、勝秀が亡くなり、そののすぐ後に孫童子丸も死にます。対立軸が、乙童子丸、黒田政光(西軍方)と政経、多賀高忠(東軍方)に移ってしまうわけですね。
 多賀高忠は東軍方京極氏の司令塔として活躍するわけですが、次々と宗家の旗頭が亡くなる中で、飛騨国の確保の為に在国の三木久頼を動かして姉小路氏の勢力範囲である古川盆地に攻めこませます。この時姉小路三家のうち、古河姉小路家の基綱がこれに対抗して三木久頼を討ち取ってしまいました。その結果、飛騨国には京極家の息のかかった対抗勢力がいなくなるという事態に陥りますが、共通の利害関係を持つ京極乙童子丸(高清)方が美濃国の斎藤妙椿を動かして仲裁させます。その結果、当主を失った三木氏も斎藤妙椿との関係を持つに至ります。

 応仁の乱における京極家の戦いは多賀高忠の奮戦にもかかわらず、時に利なく京極政経・多賀高忠率いる東軍方は朝倉孝景(英林)が治める越前国に亡命するに至ります。京極乙童子丸(高清)と京極政経の争いは応仁の乱後も続き、逆転、再逆転が続くのですが1507年(永正四年)に高清の勝利で決着がつきます。その結果京極宗家の領地は北近江半国のみになってしまいました。出雲国は尼子経久が自立し、飛騨国は姉小路氏を初めとする諸勢力が分立する割拠状態となっていました。その中でも勢力を伸ばしたのが先の三木氏です。

 応仁の乱の直前に白川郷に入った内ヶ島氏は地元の本願寺教団の正蓮寺衆と対立してこれを焼き討ちしますが、蓮如のとりなしで正蓮寺と和解し、以後は照蓮寺と寺号を改めた旧正蓮寺と連携して行動を取るようになります。その後、細川政元の命令を受けた加賀国門徒衆が越前国と越中国に乱入します。越中では勝利を得ましたが、越前国では朝倉宗摘に百万の大軍が大敗を喫し、越前国は本願寺教団の寺社を全て破却して禁教令を敷きました。これによって山科本願寺から加賀国へ向かう場合に若狭街道と北国街道ルートは取れなくなったことを意味します。
 そこで、近江から美濃に入り、飛騨・越中経由で進むことになるわけですが、本願寺がそのルートを使って兵を加賀へ送らなければならない事態が発生します。大小一揆の勃発です。

 その直前に二つの事件が起こりました。1528年(大永八年)美濃国で守護の土岐頼純が弟の土岐頼芸と斎藤道三の手により越前に追放されたのです。そしてもう一つがその翌年の1528年(享禄元年)に三木直頼が妙心寺竜泉派の明叔慶浚を開山に禅昌寺を建てました。一見ばらばらの出来事に見えますが、この時細川六郎(晴元)と細川高国が京を巡って対立していたことを考えると一本につながります。
 すなわち、土岐頼純が越前国に亡命するということは、越前国主の朝倉氏と土岐頼芸は敵対勢力となったということです。朝倉氏は細川高国派であり、泉州堺にいる細川六郎(晴元)とは敵対していました。その細川六郎に接近していたのが山科本願寺の蓮淳です。
 三木氏はそれ以前に一族の者を妙心寺に入れ修行をさせていました。杲天宗恵と言います。これはおそらくは斎藤妙椿との関係がきっかけになったものと考えられます。妙心寺は細川政元が斃れ、細川高国が政権を握った時に大徳寺から独立をしています。檀家を全国の有力国人に募るようになったのはこの頃からで、その早期ケースに適用されたのが三木氏でした。その動きはなぜか本願寺と連動しております。

 その後内ヶ島氏が大小一揆で蓮淳方の三河兵を領地通過させます。蓮淳方の三河兵は細川六郎の支持を得ていました。それとほぼ同じタイミングで三木直頼は姉小路氏に戦いを挑み、古河姉小路家の乗っ取りを成功させます。この時点の三木氏は本願寺の意向を受けた内ヶ島氏と連携をしていたようで、天文七年に禅昌寺の僧侶を東美濃に派遣して動静を探らせておりました。そして翌年、三木直頼は美濃の国人畑佐氏救援の為に出兵をします。三木軍の中に内ヶ島氏も参加をしておりました。
 実はこの間、細川六郎(晴元)方は細川高国を仕留めることに成功するのですが、その直後に本願寺は細川六郎(晴元)と抗争を始めてしまい、屈服した流れがあります。美濃の土岐氏もこの流れを見て越前の朝倉と和睦して亡命していた土岐頼純が帰国の運びになっていたのですね。畑佐氏は本願寺門徒の国人であったのですが、土岐家の動向の変化に対応して飛騨の勢力を呼び込んだようです。この時の三木氏は親本願寺派として行動しています。この後、土岐頼純、頼芸兄弟の関係は再び破たんし抗争することになりますが、ここで三木氏は土岐頼芸側について支援したのでした。
 三木氏はこの後飛騨国を掌握し、飛騨国司家であった姉小路家を乗っ取り、自ら姉小路の氏を名乗って戦国大名化することになります。
 この本願寺と妙心寺の連動は形を変えて別の地域でも展開されることになってゆくのです。

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