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2016年10月29日 (土)

中漠:天文錯乱編⑱松本問答

 1527年(大永七年)に桂川合戦に敗れた細川高国が足利義晴とともに京を離れて以来、1536年(天文五年)に足利幕府が正式に京に復帰するまでの九年間。途中一時帰京などもあったものの、事実上京には将軍も管領もいない状況でした。その間京を支配していたのは、柳本賢治―三好元長―柳本賢治―木澤長政―柳本甚次郎―三好元長と丹波・阿波・河内から派遣される代理人が目まぐるしく交替しています。それも、本願寺が蜂起して幕府と抗争を始めてからは、洛中法華衆は柳本信堯や柳本家家臣山村正次の手によって軍団化されます。
 ただ、柳本の軍勢については、1532年(天文元年)九月の山崎での合戦で敗退したことにより、軍組織としては機能しなくなります。柳本氏は元々は大和国楊本庄の荘官が大和国国人同士の潰し合いで大和国を飛びだした勢力であり、それを細川高国が拾って丹波の波多野稙通の弟に名跡を継がせた勢力でした。柳本氏の京支配の正当性を保証していたのは堺の次期京兆家候補と賢治の実家である丹波波多野家でした。ところが、山崎の合戦の翌年、細川高国の弟である晴国が蜂起すると波多野稙通は八郎方についてしまいました。山城を支配する柳本氏は生粋の地元勢力ではなく、戦闘に敗れてしまえば再起が難しいといった状況だったようです。
 但し、柳本氏が組織化した法華軍団は山崎の合戦後も健在であり、その翌年、すなわち天文二年には石山本願寺の拠点に向けて軍事行動を取っております。

 その兵力については、1532年(天文元年)八月十七日の東山合戦で「京勢一万人ばかり(二水記)」、二十三日の山科本願寺襲撃には「京勢三、四万人…武士の衆小勢(同)」であり、「上下京衆日蓮門徒はその寺々に所属(経厚法印日記)」と描写され、各寺単位に部隊化された堂々たるものでした。山科言継の日記には「一万ばかりこれあり、馬上四百騎と云々。ことごとく地下人なり。兵具以下目を驚かすものなり(天文二年三月七日条)」と山科言継が三条京極で出くわした打ち廻りの様子を、一万人の軍勢中、騎馬四百で武士は一人もいないのだが金のかかった装備をしていると描写されております。

 ただ、洛中法華衆の実働部隊としての働きは、同年に三好千熊丸が和睦の労を執った頃に終息しております。西院まで進出した細川晴国を撃退した後の戦いは京の治安にとって益するものは何もなく、洛中法華軍として加勢する必要性を感じなかったわけでしょう。但し、細川六郎を助けて軍役についたということは、洛中法華が自らの手によって京を治める正当性を得たことを意味していました。千熊丸の和議に基づいて一時的に上洛した細川六郎が感じた違和感はまさしくそれだったわけです。1533年(天文二年)一月に妙顕寺を放火した容疑をもって洛中法華衆が捕まえた犯人を殺害しました。京の法華衆は基本的に酒屋や土蔵を営む商人でしたが、中には武士階級を捨てて粽屋を営んだ渡辺進のような人物もおりましたので、専業武士団程ではないものの自治の礎となる武力は確保していたわけです。但し、その検断は京の打ち廻りを行った町衆の部隊の判断ではなく、集会を開き、町衆の総意をもって処罰を科すという手続きが取られております。
 その事件も特に問題になるわけでもなく、三好千熊丸仲介の和議のもと、足利義晴と細川六郎が上洛いたします。京の町衆はその支配に服しましたが、細川六郎にとっては自らがコントロールできない町衆の総意でいつでも動員されてしまう一万~四万の軍勢が存在すること自体、極めて居心地の悪いことでした。当面の敵が同じく細川六郎のコントロールから外れた石山本願寺であることを考えれば尚更です。なので、細川六郎は早々に摂津芥川に戻ったりしております。

 1535年(天文四年)十一月に本願寺が降伏した後、細川六郎は改めて法華対策に取り組むようになります。尚、この頃までに細川六郎は右京兆家家督を足利義晴に認められたようです。すなわち、六郎ではなく、右京大夫殿と呼ばれるようになったわけです。時期ははっきりしないのですが、偏諱をもらって晴元と呼ばれるようになったのもこの頃でありましょう。なので以降は細川六郎のことを晴元と呼称します。但し、近年の研究によると細川晴元は高国以前の京兆家家督と異なり、管領を名乗ることはなかったらしい。

 そして晴元が法華対策を実行する機会が訪れました。洛中で法華宗徒が山門僧侶に宗論を吹っ掛けた上で法衣を剥いだという事件が起きたのです。その法華宗徒は下総国藻原妙光寺の信徒、松本新左衛門久吉と言います。それにちなんでこの一件を松本問答と称します。妙光寺は身延山久遠寺を本山とする日向門流の寺院であり、京には同門の妙伝寺と言う寺があります。よくも悪くも非京都人であり、空気を読まず、誰彼構わず折伏したのではないかとも考えられるのですが、明応年間には妙蓮寺と妙覚寺が宗論を巡ってそれぞれを支持する町衆達が合戦をしたりもしているので、お行儀が悪いのは余所者だけとは限りません。よって松本久吉はスケーブゴートにされた可能性も頭に入れておいてもよいかもしれません。一方の山門僧侶とは比叡山延暦寺西塔北尾華王房と伝えられております。現代に伝わっている松本問答の内容だと、彼は延暦寺学僧の中でも浄土宗容認派であったようで、他力本願と阿弥陀仏を擁護したところを松本久吉が過去に延暦寺が法然を弾圧した事例をひいて矛盾を指摘して論破したという流れになっています。但し、この伝自体の信憑性は留保しておいた方がよいかもしれません。法華宗徒相手に山門僧が浄土擁護をするのはやはり考えにくいし、論争の流れがテンプレート通りなのですから。

 但し、宗論自体があったことは確かでした。延暦寺はこの挙に激高し、西塔、東塔、横川の大衆からなる三塔集会で糾弾及び法華宗の末寺化要求を決議し、朝廷、幕府、天台宗末寺や他宗諸寺院に向けて与同を呼びかけました。

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2016年10月22日 (土)

中漠:天文錯乱編⑰一向衆滅亡

 今回は、本願寺が幕府にこっぴどく敗北する話です。タイトルはこれを時の帝である後奈良天皇が「一向衆滅亡」と表現したことにちなんだものです。

 この時点では河内の畠山家は尾州家(政長系)、総州家(義就系)のいずれの当主も実権を失っておりました。実権を握っていたのはそれぞれ尾州家側が遊佐長教、総州家側が木澤長政でした。木澤長政は主君畠山義堯に攻め滅ぼされかけた所を細川六郎(実質筆頭右筆茨木長隆)の命令で動員された本願寺門徒の手で救われ、義堯は門徒衆に殺されております。尾州家側の遊佐長教の主君を畠山稙長と言いましたが、これが遊佐の反対を押し切って門徒側についてしまいました。それにはさすがについてゆけなくなった遊佐長教は木澤長政と結託、1534年(天文三年)八月に主君稙長を紀州に追放。その弟長経を立てて河内国は事実上木澤と遊佐の分け取りと言う形になりました。本願寺への反撃体制が整った河内衆は本願寺への再戦を挑みます。

 畠山と三好の脱落によって、本願寺の再戦構想における勝ち目は無くなってしまっておりました。遊佐・木澤は勝ちにかかって高屋衆に石山本願寺攻めを命じます。それでも下間頼盛は門徒衆・与同勢力を結集して防御の為に出陣します。そんな折に帰ってきたのが蓮淳でした。彼はその怜悧な頭脳に一つの決意を秘めて帰ってきておりました。それは本願寺の存続に他ならず、そのためにはいかなる犠牲を払うことは厭わないということでした。
 彼が本願寺に復帰して間もなく、祐心という老尼僧が本願寺を訪れます。彼女は蓮如の娘であるとともに、実如・蓮淳の同母妹であり、なおかつ証如の大叔母・外祖母でもありました。さらには彼女は権中納言中山宣親に嫁ぎ、息子も羽林家格の庭田家の養子に入って権中納言になっております。元々親鸞の家系である大谷家の血統は日野一族の保護を得ておりましたが、蓮如の代になって殿上にがっちり食い込むようになっておりました。彼女が来訪した目的は「お仲なお」り、即ち和議の締結にありました。三好千熊丸の仲裁により当事者同士で和解をしても彼ら自身にそれを守る力がないのであれば、より上位の立場に仲介を求める必要がありました。すなわち、朝廷を動かすことです。

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 河内高屋衆は河内八箇所(現在の大阪市鶴見区、門真市、大東市あたり)に侵入します。そこは本願寺のテリトリーでした。そして1535年(天文四年)六月十一日までには杜河内、長田、稲田、天王寺、高津、渡辺、津村ら各郷が次々に落とされました。下間頼盛は残存兵力をかき集めて決戦を挑みますが、翌日大敗北を喫しました。五百の戦死者を出して後奈良天皇の日記に「一向衆滅亡歟」などと書かれています。蓮淳はこの敗北を受けて雑賀衆を初めとする紀州国人衆を本願寺に入れて防備を固めますが、この敗北の影響は大きく、一時は一向衆側に寝返っていた摂津国衆の茨木氏が再び六郎側につきます。本願寺は孤立し、追い詰められてしまいました。
 但し、この事態は蓮淳の駆け引きではないかと私には思われます。三好千熊丸の仲介の時には、細川晴国が一揆方に味方し、六郎方の摂津国人薬師寺国忠を討ち取った直後でした。反撃して勝ちに乗った時点での交渉においては末端がより多くの利益を要求して結果、和平は破れました。本願寺が敗北し、誰でもわかる形で降参する態で終戦させたなら、継戦の意欲は小さくならざるを得ません。それでも本願寺と証如は守らなければならない総大将なので、紀州からの援軍で防備を固めたと言うことではないでしょうか。下間頼盛にとっては貧乏くじを引かされたことには違いありません。そうした間隙をついて和平交渉は取りまとめられます。それを有効にするためには本願寺に反撃は許されませんでした。それを担保するために、蓮淳は手段を選びません。

 天文四年(1535年)十一月にようやく、本願寺と幕府との間に二度目の和議が成立しました。しかし、最前線の摂津中嶋においては、下間頼盛と細川晴国が尚、幕府軍と戦っております。少なくともこの時点において、紀州門徒の他に、三河、美濃、尾張そして伊勢の門徒達が本山防衛軍として駆り出されておりました。
 当ブログ内の「川の戦国史」の中だけで立てている仮説ですが、この二度目の和睦の翌月に三河の覇者こと松平清康が尾張国守山にて家臣阿部弥七郎に斬り殺されております。彼が何の目的で尾張まで出張ったのかは謎であり、三河物語は誤解から生じた不幸な事故として取り扱っております。松平清康は三河国の実力者であると同時に、根拠地の西三河は本願寺門徒が数多くいる土地で、彼の家臣の中にも有力な門徒衆がおりました。この時本願寺を助けて幕府軍と戦うために動員された門徒兵の動きを知らなかったとは思えないわけで、私は彼は出征した三河門徒兵の後詰めとして守山まで出かけたのではないか、その行動が蓮淳の方針に反するために起こったのが守山崩れではないかと考えております。
 中嶋での抗戦は翌年まで続き、三好長慶(千熊丸)の軍が投入されて七月には開城されます。細川晴国は天王寺に落ちますが、そこでともに本願寺方として戦った摂津国人三宅国村の裏切りによって殺害されました。最後まで戦った下間頼盛とその兄頼秀はその三年後に蓮淳の送った刺客の刃にかかって亡くなったと言います。下間兄弟の死の翌年に山科陥落の責任をなすりつけられて三度目の破門をくらった堅田本福寺の明宗が寂しました。彼の場合は蓮淳の恨みを買った部分が大きいのですが、彼は反蓮淳分子として彼が死ぬまで許されず、彼を頼った門徒衆の中からは餓死者がでるほどの惨状であったそうです。松平清康の件はあくまで仮説でありますが、敗北の受け入れと言う方針を破った物に対しては、死を与えることも厭わないという態度を貫徹することによって、ようやく本願寺は内部を統制することが出来たということが出来るのかも知れません。

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2016年10月15日 (土)

中漠:天文錯乱編⑯トラブルシューターw

 三好千熊丸が本願寺教団と細川六郎(晴元)との間を仲裁したのは、細川晴国勢が薬師寺国忠を討ち取った翌々日でした。三好千熊丸にとってこの両者は間違いなく親の仇でした。なので両者が殺し合いをするのであれば、両者の決着がつくまで阿波に引きこもって力を蓄え、決着がついた頃合いを見て勝った方を討ち取って親の恨みをはらせばよいだけのはずでした。それができないのなら六郎の心変わりを見て潔く身を引いた阿波細川持隆の守護者としての人生を全うしさえすればよかったはずです。そのいずれも選ばなかったという点で、三好千熊丸は戦国時代を通しても稀有なほどの御人好しであったと言えるでしょう。

 この和議のあり得なさをどのように書き連ねても現実に和議は行われているので、少ない情報の中から何故この和解が行われたのかを推し測るしかないのですが、千熊丸少年の正義感と三好政長の懇願くらいしか思いつきません。政長の懇願を示す根拠を持っているわけではありませんし、政長は宗家の元長を陥れる片棒を担いだ一人です。しかし、彼が宗家を裏切ったのは新たな体制に自らが参加する為であって、それが本願寺の暴走で元も子もなくなるのであれば、その裏切りは何の意味を持たなくなります。元より六郎の政権は今、存続の為に打てる手立ては見境なくとられています。幸い三好元長は排除済みで遺児の千熊丸は若年です。彼に細川六郎政権への参政の道を拓いてやることで政長自身が宗家をコントロールすることも可能と踏んだのかもしれません。それにしたって虫のよすぎる考えなので流石にどうかとも思うのですが、細川六郎側で三好千熊丸を動かせるパイプを持ちえた人間は彼くらいしかいないので当座そのように考えざるを得ないという所です。

 ただ問題は本願寺の内部統制にありました。この時、証如少年を支えていたのは顧名の五子の一人実円と、下間頼玄及びその子頼秀・頼盛兄弟でした。それまで教団の方針を定めていた蓮淳は伊勢長嶋願証寺に引きこもり中です。そもそも証如の統制が教団の末端まで行き届いていたなら蓮淳は伊勢落ちする必要もなく、本願寺は今も山科に健在なはずでした。末端で門徒衆を束ねて武力行使する現場指揮者と本寺の中枢にいる指導層とは致命的な認識ギャップがあり、それはいまだに埋まっていませんでした。現場はあくまで現場の利害で動き、証如の檄はそれにお墨付きを与えたに過ぎないか、都合よく解釈を変えられてしまっていたわけです。

 よって三好千熊丸が細川六郎と本願寺証如との間を取り持ったとしてもそれが長く継続しないことは必然でした。本願寺も山科を放棄し、石山御坊を新たな本願寺と定めます。交渉の持って行き方によっては山科本願寺を再建してそちらに復帰することも不可能ではなかったかと思うのですが、法華宗が猖獗を極める京が脇にあり防御に難のある山科よりも、後の織田信長すら攻めあぐむような淀川に浮かぶ水上要塞にいた方が都合がよかった、敢えてそちらの方を選んだと言うことでありましょう。それこそがこの和議の危うさを象徴しておりました。

 九月になって、本願寺教団の継戦派が摂津国御園・西宮方面で蠢動している所を千熊丸は兵を出してこれを取り押さえます。しかし、戦いの機運は一向に鎮まらず、十月には細川六郎方の丹波国人赤澤景盛が細川晴国方に討たれ、また、木澤・大和衆が摂津国御厨に押し出したりしています。十一月末には石山本願寺としての初めての報恩講(宗祖親鸞の祥月命日)が営まれますが、ここにかつてない程の大群衆が集まり、気勢をあげておりました。そんな中、本願寺中枢にいて門徒衆の指揮をとっていた下間頼秀が失脚し、本願寺から退去します。路線対立があってのことと言います。
 下間頼秀の役目は弟の頼盛、父の頼玄が引き継いでいますが、下間頼盛は山科陥落以後、翌年(1533年(天文二年))七月に密かに石山本願寺に帰還するまでは伊勢に潜伏していたと言います。伊勢国長嶋願証寺には蓮淳が避難しておりましたので、頼盛は蓮淳の本願寺復帰を説得していたのかもしれません。あるいは蓮淳の何らかの指示を受けていたのかもしれません。
 いずれにせよ、その後に起こったことがその後の本願寺の方針を示していると言えるでしょう。明けて1534年(天文三年)正月に尾州畠山稙長が本願寺支持を表明して配下を石山に送ります。更に二月には摂津国茨木に住する国人三宅氏が本願寺入信を宣言します。四月に入って下間頼玄が飛騨蓮照寺衆の石山入りを促す文書を発給し、その書にはすでに三河・尾張・美濃三国の番衆を動員している旨が記されておりました。この間木澤勢が石山膝下の街を攻撃しているので、防備を固める為と謳ってはいますが、再度幕府と戦う意向であることは明らかでした。
 この間、下間頼盛は寺内の殿原衆・与力衆を引き連れて法主証如を質にして城下の榎並に退去するというストライキ行動をとっております。本願寺中枢で意思統一が図れていないと言うことでもありますが、数日で終わり、頼盛への処罰がないことを見ると何らかの妥協が図られたと見るべきなのでしょう。

 それは細川六郎に不満を持つ勢力を結集して再度戦いを挑むという物でした。すでに畠山稙長・三宅氏の賛意は得られております。そして、三好一族の中にもその誘いに乗った人物がおりました。
 実従(証如の大叔父)の私心記によると名を三好伊賀と言います。五月二十九日に証如と下間頼盛が和議の破棄を宣言すると、三好伊賀は同族の久介とともに摂津国野田に本願寺防備陣を敷きます。そして下間頼盛とともに河内、摂津中嶋方面で三好政長や伊丹・池田氏ら細川六郎方と激戦を繰り広げました。
 実は、三好千熊丸は本願寺と幕府との和議の後に十三歳で元服をし、利長と名乗っております。(後に範長を経て長慶に改名。本稿では長慶で通します)。ただ、幼年の為三好伊賀守連盛という人物に後見をしてもらっていたようです。参考にした本によって「三好伊賀」の解釈は異なるのですが、本稿ではこの説をとります。そして三好久介ですが、一門衆に三好長将と言う人物がおり、彼の名乗りを久介と言いました。彼は長慶のはとこにあたり、長慶の死後に三好三人衆の一角を占める三好長逸の息子です。何ということもなく、要請に従って和議を整えたものの、自らの怨讐・一門衆の突き上げに揺らいだ挙げ句、本願寺に取り込まれてしまったわけです。

 三好政長もそんな宗家当主とはまともに争う気が起こるわけもなく、木澤長政に周旋を依頼した物と思われます。木澤がどのような交渉をしたのかは定かではありませんが、「三好伊賀」の反抗はあっさりと六郎方への降参と言う形で終了します。翌年、本願寺が正式に降伏しますが、本願寺継戦派は尚も中嶋城に籠もって反抗しますが、三好長慶はこれへの幕府方としての攻撃に加わっております。この戦いにおける三好千熊丸(長慶)に主体性はまるっきり見出せないのですが、ここから彼と彼の一門衆は着実に経験値を積み増してゆくことになります。

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2016年10月 9日 (日)

中漠:天文錯乱編⑮山科本願寺炎上

 茨木長隆は本願寺教団を動員することによって自らを引き立ててくれた三好元長を殺害したばかりか、茨木氏の主人である興福寺にまで刃を向けることになりました。この本願寺の暴走を止めるために茨木長隆がとった行動はさらに混迷をもたらすものでした。

 まず、茨木長隆は近江の六角定頼と和議を結ぶことにしました。六角定頼は細川高国派ではありましたが、高国は既に亡く、細川六郎は阿波衆と手切れをして足利義晴を奉じることとしていますので、対立する原因は取り除かれておりました。そして、もう一つの手は、本願寺教団の総本山である山科本願寺を洛中法華衆に討たせるというものです。洛中法華衆はこの時までに寛正の盟約に基づく諸寺同盟を結んでおりましたが、それを軍事力として使おうとするものです。この時の法華宗徒の束ねとして指名されたのは、柳本信堯・山村正次ら、旧柳本党でした。

 今谷明氏らの本を読むと三好氏と法華宗徒とは以前から深いつながりがあったと述べられているのですが、洛中法華宗徒は、その三好氏と深刻な政治闘争を行った柳本一党(特に甚次郎は三好元長に討ち取られています)の統率下に置かれておりました。少なくともこの時点の洛中法華宗徒は京を何度も襲った三好衆よりも、むしろその防衛戦で戦った柳本氏ら地元勢力の方を支持していたものと考えるべきでしょう。むしろ、洛中法華宗徒が三好氏と深く結びついたのは、この後に起こった天文法華の乱で堺の顕本寺が亡命法華宗徒の受け入れ先となり、その赦免に三好長慶が関与したためではないかと思っております。
 ともあれ、茨木長隆の戦術は、敵の敵は味方といった行き当たりばったりなものばかりではありましたが、何とか対本願寺戦線の構築に成功します。
 天文元年八月七日に柳本信堯・山村正次らは東山に出陣し、大谷廟を始めとする洛中洛外の本願寺教団寺院に対して討ち回りを始めます。そして、十二日には近江国大津で六角定頼軍と合流して蓮淳が住持を務める顕証寺を焼き払ってしまいました。蓮淳は堅田の本福寺に救援を求めましたが、本福寺の住持明宗はそれ以前に二度も蓮淳から破門を食らっており、教勢は削ぎ落とされて援軍どころか寺の維持すらままならない状態でした。蓮淳はこれを恨んで本福寺明宗に三度目の破門をいたしますが、これは後の話。顕証寺を焼き払われた蓮淳は山科本願寺の守りを固めるかと思いきや、北伊勢長嶋の願証寺に逃げ去ってしまいました。蓮淳は証如の補佐としてそれまでの本願寺の行動をコントロールしていたはずなのですが、それをすべて放擲したことによってすべてがノーコントロールの状態に陥ってしまいました。
 それでも、蓮芸の子、蓮誓のいる摂津国富田御坊(後の教行寺)から門徒衆が西岡まで進出しましたが、法華宗徒に撃退されております。かくて孤立無援に陥った山科本願寺は六角定頼軍と柳本信堯及び山村正次率いる法華宗徒軍との連合軍に攻めかかられてしまいます。一日の戦いの後、大伽藍は蹂躙され、烏有に帰してしまいました。
 証如は命からがら摂津国石山御坊に落ち延びますが、戦況は一進一退。門徒衆が摂津国衆を味方につけて山崎で合戦をし、柳本衆の残党を解体にまでもってゆきましたが、その年の暮れには摂津国富田御坊が法華宗徒の手に落ちました。これも摂津国衆の寝返りが原因となっております。摂津国衆の独立志向は高く、一方の勝ち過ぎを許さない体質のためと思われます。

  これに対抗するため、年の明けた1533年(天文二年)証如は石山御坊を新たな本願寺と定め、改めて檄を飛ばします。この時までに連枝の実円、加賀出征から急を聞いて帰還していた下間頼秀・頼盛兄弟、及びその父下間頼玄らがブレーンとして蓮淳の執務を代行します。劇に応じた摂河泉の門徒衆は堺に殺到し、細川六郎は一時的に淡路に追われることとなりました。

 この時、本願寺は味方を必要としておりました。そこで見出したのが細川高国の弟、晴国です。このあたり、反六郎であれば誰でもいいという感になっておりますが、彼を通じて波多野稙通、三宅国村、尾州畠山稙国らが味方につきます。細川晴国は六月に摂津守護代薬師寺国長を討ち取って見せました。それに反撃しようと京から摂津方面へ法華宗徒衆が出陣しますが、はかばかしい戦果は挙げられていません。

 細川政元の暗殺以来、高国は足利義尹(義稙)に、澄元は阿波細川家に担がれますが、それ以降細川六郎は当初こそ阿波細川家に保護されつつも、後にかつて細川高国が傀儡としていた足利義晴を奉じる茨木氏ら摂津国人衆、宗家に反逆する三好政長、北河内の木澤長政と南近江の六角定頼、そして京の法華宗徒らの緩やかな同盟に乗りかかります。今回の細川晴国も本願寺、丹波の波多野、摂津の三宅、紀州に勢力を持つ尾州畠山とすべてが小粒な支持層となり、事態を動かす中核となる存在はいませんでした。

 その茶番劇めくも笑えない混沌に一興を添えたのが、非業の最期を遂げた三好元長の遺児、千熊丸でした。

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2016年10月 1日 (土)

中漠:天文錯乱編⑭天下は一揆の世たるべし

  堺の街は環濠都市とよばれていて、街の周囲を堀で囲んだ防御陣を備えた城塞でもありました。しかし、門徒衆が堺の街を襲った時、堺の街は全くの無抵抗だったと言います。畠山・三好連合軍を一瞬で屠ったその暴威に抵抗の無駄を悟らされたということらしいです。三好元長は足利義維を船に乗せたものの、自身は顕本寺に残り一族郎党ごと自害して見せました。恐らくはそうしなければ、堺の街が滅ぼされていたことでしょう。堺の町衆達はある意味元長に命を救われたとも言えるわけで、そのことを堺衆は忘れずに後の三好と堺衆との関わりの礎となったのだと私は思います。

 本願寺の証如は茨木長隆の依頼を果たしましたが、この時本願寺は軍を催すことはできても、軍団を率いる能力はありませんでした。唯一の組織だった軍団はこの時下間頼秀、頼盛らとともに加賀に出払っておりました。茨木長隆の依頼は畠山・三好に攻められた木澤長政を救うための窮余の一策であって事前の計画があったわけではありませんでした。それに応じた証如もただ石山に赴いて摂津・河内の門徒衆に檄を飛ばしただけでありました。しかしながら、その威力は誰もが事前に想像していた以上の物でありました。
 現代の本願寺においても色々議論があるとのことですが、その内の一説にこの時代の本願寺教団の教義には法主に対する奉仕という行動そのものも、往生に資する修行に含まれるという考え方があったそうです。その考え方に沿うならば、証如の檄に応じて畠山・三好を打倒するために立ち上がることができた門徒衆は幸せであったと言えるかもしれません。しかし、情報の伝播には時間がかかります。証如の檄を聞いて蜂起したものの、既に畠山も三好も滅びていた時、その門徒衆は何を考えるでしょうか。「敵の味方も敵だから倒さねばならない」です。標的になったのは大和国の興福寺でした。
 興福寺は応仁の乱において畠山義就に味方して河内の軍勢を次々と京に送りました。明応になってそれに苛立った細川政元が赤澤宗益を派遣して制圧したものの、政元暗殺と宗益討ち死にで興福寺は命脈を保ちました。しかし、打ち続く乱世に国主としての興福寺の立場は相次ぐ戦乱の中、住持として寺を統括する大乗院・一条院門跡らとそれを取り巻く僧兵集団六方衆の権威は衰微し、実際に実働部隊を率いる筒井氏・十市氏らに移行しつつある最中でした。
 大和国一向宗蜂起の首謀者は、奈良の富人である橘屋主殿、蔵屋兵衛、雁金屋民部の三名と伝えられております。いずれも屋号を持つ氏を名乗っておりますので、彼らは商人でありましょう。六方衆の苛政を恨んでとのことですが、それは本願寺証如のあずかり知らぬことでもありました。証如及び蓮淳・実円を中心とする側近衆は本願寺法主の檄の威力をあまりにも過小評価していたと言えるでしょう。

 1532年(享禄五年)七月十七日、大和国南北郷衆一万五千、吉野衆五千の門徒が興福寺を囲み、大乗院を初めとする諸塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉を食い尽くし、春日山の鹿を殺し尽くしたと言います。誰の目から見ても暴挙であり暴走でした。この暴挙自体は興福寺国民、越智利基と宗徒筒井順興らの活躍でなんとか撃退しました。蓮淳はこれを止めようとしましたが、勢いづいた門徒の暴走は止まらず、八月二日には摂河泉の諸寺院に本願寺の暴走に気をつけろとの茨木長隆の書状がでてしまっています。本願寺の暴走は大和にとどまらず、摂河泉三国にまで広がってしまいお手上げ状態になっていることが判ります。この事態に一番衝撃を受けたのは細川六郎の筆頭右筆茨木長隆でした。

 現在の大阪府茨木市にあたる地域が茨木長隆が属する茨木氏の勢力圏でした。茨木市には春日丘高校という名前の高校があるのですが、そのあたり一帯は春日大社=興福寺の荘園であり、代々の茨木氏はその地の荘官として管理を任されていたようです。摂津国は時の細川家が守護をしていましたので、細川家の被官にもなっていたわけです。ところが、応仁の乱が勃発します。この時、細川家の当主の細川勝元は東軍の盟主でありましたが、所領である摂津国は長く西軍の大内政弘に占領されておりました。摂津国人である茨木氏は近隣の吹田氏らとともに、生き残るために大内氏に協力をしていたようです。ところが、応仁の乱の終結によって大内氏を含む西軍は所領に撤退するのですね。その折この占領地を預かっていた摂津国人達は細川政元に帰参しようとするのですが、東軍の幕僚として細川政元を支えていた家臣達がそれを許さず、武力報復を受けるに至ります。これを摂津国人一揆と言い、茨木氏・吹田氏など主だった摂津国人が討たれてしまいました。長隆はその滅ぼされた茨木氏の生き残りであり、その後になって三好元長に見出されて細川六郎の筆頭右筆として政治的采配を振るうことになっていたわけです。

 その書状の発布がさらに門徒衆を刺激したのか、八月四日になると今度は下間刑部太夫ら大和・摂津・河内の門徒衆が堺にいる細川六郎の館を目指して襲いかかります。これを救ったのが河内守護代木澤長政でした。彼は直近に門徒衆に命を救われていたのですが、やはりこの暴挙は見過ごせなかったようです。兵を率いて浅香道場を焼き、下間刑部太夫は敗死をしております。後背をつかれた門徒衆は敗走しますが、この事件を記した権中納言鷲尾隆康はこの事件はなんとかしのぐことができたが、諸国にはまだ門徒衆が充満していることを嘆息し、いずれ「天下は一揆の世たるべき」と記しました。

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