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2016年10月22日 (土)

中漠:天文錯乱編⑰一向衆滅亡

 今回は、本願寺が幕府にこっぴどく敗北する話です。タイトルはこれを時の帝である後奈良天皇が「一向衆滅亡」と表現したことにちなんだものです。

 この時点では河内の畠山家は尾州家(政長系)、総州家(義就系)のいずれの当主も実権を失っておりました。実権を握っていたのはそれぞれ尾州家側が遊佐長教、総州家側が木澤長政でした。木澤長政は主君畠山義堯に攻め滅ぼされかけた所を細川六郎(実質筆頭右筆茨木長隆)の命令で動員された本願寺門徒の手で救われ、義堯は門徒衆に殺されております。尾州家側の遊佐長教の主君を畠山稙長と言いましたが、これが遊佐の反対を押し切って門徒側についてしまいました。それにはさすがについてゆけなくなった遊佐長教は木澤長政と結託、1534年(天文三年)八月に主君稙長を紀州に追放。その弟長経を立てて河内国は事実上木澤と遊佐の分け取りと言う形になりました。本願寺への反撃体制が整った河内衆は本願寺への再戦を挑みます。

 畠山と三好の脱落によって、本願寺の再戦構想における勝ち目は無くなってしまっておりました。遊佐・木澤は勝ちにかかって高屋衆に石山本願寺攻めを命じます。それでも下間頼盛は門徒衆・与同勢力を結集して防御の為に出陣します。そんな折に帰ってきたのが蓮淳でした。彼はその怜悧な頭脳に一つの決意を秘めて帰ってきておりました。それは本願寺の存続に他ならず、そのためにはいかなる犠牲を払うことは厭わないということでした。
 彼が本願寺に復帰して間もなく、祐心という老尼僧が本願寺を訪れます。彼女は蓮如の娘であるとともに、実如・蓮淳の同母妹であり、なおかつ証如の大叔母・外祖母でもありました。さらには彼女は権中納言中山宣親に嫁ぎ、息子も羽林家格の庭田家の養子に入って権中納言になっております。元々親鸞の家系である大谷家の血統は日野一族の保護を得ておりましたが、蓮如の代になって殿上にがっちり食い込むようになっておりました。彼女が来訪した目的は「お仲なお」り、即ち和議の締結にありました。三好千熊丸の仲裁により当事者同士で和解をしても彼ら自身にそれを守る力がないのであれば、より上位の立場に仲介を求める必要がありました。すなわち、朝廷を動かすことです。

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 河内高屋衆は河内八箇所(現在の大阪市鶴見区、門真市、大東市あたり)に侵入します。そこは本願寺のテリトリーでした。そして1535年(天文四年)六月十一日までには杜河内、長田、稲田、天王寺、高津、渡辺、津村ら各郷が次々に落とされました。下間頼盛は残存兵力をかき集めて決戦を挑みますが、翌日大敗北を喫しました。五百の戦死者を出して後奈良天皇の日記に「一向衆滅亡歟」などと書かれています。蓮淳はこの敗北を受けて雑賀衆を初めとする紀州国人衆を本願寺に入れて防備を固めますが、この敗北の影響は大きく、一時は一向衆側に寝返っていた摂津国衆の茨木氏が再び六郎側につきます。本願寺は孤立し、追い詰められてしまいました。
 但し、この事態は蓮淳の駆け引きではないかと私には思われます。三好千熊丸の仲介の時には、細川晴国が一揆方に味方し、六郎方の摂津国人薬師寺国忠を討ち取った直後でした。反撃して勝ちに乗った時点での交渉においては末端がより多くの利益を要求して結果、和平は破れました。本願寺が敗北し、誰でもわかる形で降参する態で終戦させたなら、継戦の意欲は小さくならざるを得ません。それでも本願寺と証如は守らなければならない総大将なので、紀州からの援軍で防備を固めたと言うことではないでしょうか。下間頼盛にとっては貧乏くじを引かされたことには違いありません。そうした間隙をついて和平交渉は取りまとめられます。それを有効にするためには本願寺に反撃は許されませんでした。それを担保するために、蓮淳は手段を選びません。

 天文四年(1535年)十一月にようやく、本願寺と幕府との間に二度目の和議が成立しました。しかし、最前線の摂津中嶋においては、下間頼盛と細川晴国が尚、幕府軍と戦っております。少なくともこの時点において、紀州門徒の他に、三河、美濃、尾張そして伊勢の門徒達が本山防衛軍として駆り出されておりました。
 当ブログ内の「川の戦国史」の中だけで立てている仮説ですが、この二度目の和睦の翌月に三河の覇者こと松平清康が尾張国守山にて家臣阿部弥七郎に斬り殺されております。彼が何の目的で尾張まで出張ったのかは謎であり、三河物語は誤解から生じた不幸な事故として取り扱っております。松平清康は三河国の実力者であると同時に、根拠地の西三河は本願寺門徒が数多くいる土地で、彼の家臣の中にも有力な門徒衆がおりました。この時本願寺を助けて幕府軍と戦うために動員された門徒兵の動きを知らなかったとは思えないわけで、私は彼は出征した三河門徒兵の後詰めとして守山まで出かけたのではないか、その行動が蓮淳の方針に反するために起こったのが守山崩れではないかと考えております。
 中嶋での抗戦は翌年まで続き、三好長慶(千熊丸)の軍が投入されて七月には開城されます。細川晴国は天王寺に落ちますが、そこでともに本願寺方として戦った摂津国人三宅国村の裏切りによって殺害されました。最後まで戦った下間頼盛とその兄頼秀はその三年後に蓮淳の送った刺客の刃にかかって亡くなったと言います。下間兄弟の死の翌年に山科陥落の責任をなすりつけられて三度目の破門をくらった堅田本福寺の明宗が寂しました。彼の場合は蓮淳の恨みを買った部分が大きいのですが、彼は反蓮淳分子として彼が死ぬまで許されず、彼を頼った門徒衆の中からは餓死者がでるほどの惨状であったそうです。松平清康の件はあくまで仮説でありますが、敗北の受け入れと言う方針を破った物に対しては、死を与えることも厭わないという態度を貫徹することによって、ようやく本願寺は内部を統制することが出来たということが出来るのかも知れません。

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