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2016年10月29日 (土)

中漠:天文錯乱編⑱松本問答

 1527年(大永七年)に桂川合戦に敗れた細川高国が足利義晴とともに京を離れて以来、1536年(天文五年)に足利幕府が正式に京に復帰するまでの九年間。途中一時帰京などもあったものの、事実上京には将軍も管領もいない状況でした。その間京を支配していたのは、柳本賢治―三好元長―柳本賢治―木澤長政―柳本甚次郎―三好元長と丹波・阿波・河内から派遣される代理人が目まぐるしく交替しています。それも、本願寺が蜂起して幕府と抗争を始めてからは、洛中法華衆は柳本信堯や柳本家家臣山村正次の手によって軍団化されます。
 ただ、柳本の軍勢については、1532年(天文元年)九月の山崎での合戦で敗退したことにより、軍組織としては機能しなくなります。柳本氏は元々は大和国楊本庄の荘官が大和国国人同士の潰し合いで大和国を飛びだした勢力であり、それを細川高国が拾って丹波の波多野稙通の弟に名跡を継がせた勢力でした。柳本氏の京支配の正当性を保証していたのは堺の次期京兆家候補と賢治の実家である丹波波多野家でした。ところが、山崎の合戦の翌年、細川高国の弟である晴国が蜂起すると波多野稙通は八郎方についてしまいました。山城を支配する柳本氏は生粋の地元勢力ではなく、戦闘に敗れてしまえば再起が難しいといった状況だったようです。
 但し、柳本氏が組織化した法華軍団は山崎の合戦後も健在であり、その翌年、すなわち天文二年には石山本願寺の拠点に向けて軍事行動を取っております。

 その兵力については、1532年(天文元年)八月十七日の東山合戦で「京勢一万人ばかり(二水記)」、二十三日の山科本願寺襲撃には「京勢三、四万人…武士の衆小勢(同)」であり、「上下京衆日蓮門徒はその寺々に所属(経厚法印日記)」と描写され、各寺単位に部隊化された堂々たるものでした。山科言継の日記には「一万ばかりこれあり、馬上四百騎と云々。ことごとく地下人なり。兵具以下目を驚かすものなり(天文二年三月七日条)」と山科言継が三条京極で出くわした打ち廻りの様子を、一万人の軍勢中、騎馬四百で武士は一人もいないのだが金のかかった装備をしていると描写されております。

 ただ、洛中法華衆の実働部隊としての働きは、同年に三好千熊丸が和睦の労を執った頃に終息しております。西院まで進出した細川晴国を撃退した後の戦いは京の治安にとって益するものは何もなく、洛中法華軍として加勢する必要性を感じなかったわけでしょう。但し、細川六郎を助けて軍役についたということは、洛中法華が自らの手によって京を治める正当性を得たことを意味していました。千熊丸の和議に基づいて一時的に上洛した細川六郎が感じた違和感はまさしくそれだったわけです。1533年(天文二年)一月に妙顕寺を放火した容疑をもって洛中法華衆が捕まえた犯人を殺害しました。京の法華衆は基本的に酒屋や土蔵を営む商人でしたが、中には武士階級を捨てて粽屋を営んだ渡辺進のような人物もおりましたので、専業武士団程ではないものの自治の礎となる武力は確保していたわけです。但し、その検断は京の打ち廻りを行った町衆の部隊の判断ではなく、集会を開き、町衆の総意をもって処罰を科すという手続きが取られております。
 その事件も特に問題になるわけでもなく、三好千熊丸仲介の和議のもと、足利義晴と細川六郎が上洛いたします。京の町衆はその支配に服しましたが、細川六郎にとっては自らがコントロールできない町衆の総意でいつでも動員されてしまう一万~四万の軍勢が存在すること自体、極めて居心地の悪いことでした。当面の敵が同じく細川六郎のコントロールから外れた石山本願寺であることを考えれば尚更です。なので、細川六郎は早々に摂津芥川に戻ったりしております。

 1535年(天文四年)十一月に本願寺が降伏した後、細川六郎は改めて法華対策に取り組むようになります。尚、この頃までに細川六郎は右京兆家家督を足利義晴に認められたようです。すなわち、六郎ではなく、右京大夫殿と呼ばれるようになったわけです。時期ははっきりしないのですが、偏諱をもらって晴元と呼ばれるようになったのもこの頃でありましょう。なので以降は細川六郎のことを晴元と呼称します。但し、近年の研究によると細川晴元は高国以前の京兆家家督と異なり、管領を名乗ることはなかったらしい。

 そして晴元が法華対策を実行する機会が訪れました。洛中で法華宗徒が山門僧侶に宗論を吹っ掛けた上で法衣を剥いだという事件が起きたのです。その法華宗徒は下総国藻原妙光寺の信徒、松本新左衛門久吉と言います。それにちなんでこの一件を松本問答と称します。妙光寺は身延山久遠寺を本山とする日向門流の寺院であり、京には同門の妙伝寺と言う寺があります。よくも悪くも非京都人であり、空気を読まず、誰彼構わず折伏したのではないかとも考えられるのですが、明応年間には妙蓮寺と妙覚寺が宗論を巡ってそれぞれを支持する町衆達が合戦をしたりもしているので、お行儀が悪いのは余所者だけとは限りません。よって松本久吉はスケーブゴートにされた可能性も頭に入れておいてもよいかもしれません。一方の山門僧侶とは比叡山延暦寺西塔北尾華王房と伝えられております。現代に伝わっている松本問答の内容だと、彼は延暦寺学僧の中でも浄土宗容認派であったようで、他力本願と阿弥陀仏を擁護したところを松本久吉が過去に延暦寺が法然を弾圧した事例をひいて矛盾を指摘して論破したという流れになっています。但し、この伝自体の信憑性は留保しておいた方がよいかもしれません。法華宗徒相手に山門僧が浄土擁護をするのはやはり考えにくいし、論争の流れがテンプレート通りなのですから。

 但し、宗論自体があったことは確かでした。延暦寺はこの挙に激高し、西塔、東塔、横川の大衆からなる三塔集会で糾弾及び法華宗の末寺化要求を決議し、朝廷、幕府、天台宗末寺や他宗諸寺院に向けて与同を呼びかけました。

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