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2016年10月 1日 (土)

中漠:天文錯乱編⑭天下は一揆の世たるべし

  堺の街は環濠都市とよばれていて、街の周囲を堀で囲んだ防御陣を備えた城塞でもありました。しかし、門徒衆が堺の街を襲った時、堺の街は全くの無抵抗だったと言います。畠山・三好連合軍を一瞬で屠ったその暴威に抵抗の無駄を悟らされたということらしいです。三好元長は足利義維を船に乗せたものの、自身は顕本寺に残り一族郎党ごと自害して見せました。恐らくはそうしなければ、堺の街が滅ぼされていたことでしょう。堺の町衆達はある意味元長に命を救われたとも言えるわけで、そのことを堺衆は忘れずに後の三好と堺衆との関わりの礎となったのだと私は思います。

 本願寺の証如は茨木長隆の依頼を果たしましたが、この時本願寺は軍を催すことはできても、軍団を率いる能力はありませんでした。唯一の組織だった軍団はこの時下間頼秀、頼盛らとともに加賀に出払っておりました。茨木長隆の依頼は畠山・三好に攻められた木澤長政を救うための窮余の一策であって事前の計画があったわけではありませんでした。それに応じた証如もただ石山に赴いて摂津・河内の門徒衆に檄を飛ばしただけでありました。しかしながら、その威力は誰もが事前に想像していた以上の物でありました。
 現代の本願寺においても色々議論があるとのことですが、その内の一説にこの時代の本願寺教団の教義には法主に対する奉仕という行動そのものも、往生に資する修行に含まれるという考え方があったそうです。その考え方に沿うならば、証如の檄に応じて畠山・三好を打倒するために立ち上がることができた門徒衆は幸せであったと言えるかもしれません。しかし、情報の伝播には時間がかかります。証如の檄を聞いて蜂起したものの、既に畠山も三好も滅びていた時、その門徒衆は何を考えるでしょうか。「敵の味方も敵だから倒さねばならない」です。標的になったのは大和国の興福寺でした。
 興福寺は応仁の乱において畠山義就に味方して河内の軍勢を次々と京に送りました。明応になってそれに苛立った細川政元が赤澤宗益を派遣して制圧したものの、政元暗殺と宗益討ち死にで興福寺は命脈を保ちました。しかし、打ち続く乱世に国主としての興福寺の立場は相次ぐ戦乱の中、住持として寺を統括する大乗院・一条院門跡らとそれを取り巻く僧兵集団六方衆の権威は衰微し、実際に実働部隊を率いる筒井氏・十市氏らに移行しつつある最中でした。
 大和国一向宗蜂起の首謀者は、奈良の富人である橘屋主殿、蔵屋兵衛、雁金屋民部の三名と伝えられております。いずれも屋号を持つ氏を名乗っておりますので、彼らは商人でありましょう。六方衆の苛政を恨んでとのことですが、それは本願寺証如のあずかり知らぬことでもありました。証如及び蓮淳・実円を中心とする側近衆は本願寺法主の檄の威力をあまりにも過小評価していたと言えるでしょう。

 1532年(享禄五年)七月十七日、大和国南北郷衆一万五千、吉野衆五千の門徒が興福寺を囲み、大乗院を初めとする諸塔頭を焼き払い、猿沢池の鯉を食い尽くし、春日山の鹿を殺し尽くしたと言います。誰の目から見ても暴挙であり暴走でした。この暴挙自体は興福寺国民、越智利基と宗徒筒井順興らの活躍でなんとか撃退しました。蓮淳はこれを止めようとしましたが、勢いづいた門徒の暴走は止まらず、八月二日には摂河泉の諸寺院に本願寺の暴走に気をつけろとの茨木長隆の書状がでてしまっています。本願寺の暴走は大和にとどまらず、摂河泉三国にまで広がってしまいお手上げ状態になっていることが判ります。この事態に一番衝撃を受けたのは細川六郎の筆頭右筆茨木長隆でした。

 現在の大阪府茨木市にあたる地域が茨木長隆が属する茨木氏の勢力圏でした。茨木市には春日丘高校という名前の高校があるのですが、そのあたり一帯は春日大社=興福寺の荘園であり、代々の茨木氏はその地の荘官として管理を任されていたようです。摂津国は時の細川家が守護をしていましたので、細川家の被官にもなっていたわけです。ところが、応仁の乱が勃発します。この時、細川家の当主の細川勝元は東軍の盟主でありましたが、所領である摂津国は長く西軍の大内政弘に占領されておりました。摂津国人である茨木氏は近隣の吹田氏らとともに、生き残るために大内氏に協力をしていたようです。ところが、応仁の乱の終結によって大内氏を含む西軍は所領に撤退するのですね。その折この占領地を預かっていた摂津国人達は細川政元に帰参しようとするのですが、東軍の幕僚として細川政元を支えていた家臣達がそれを許さず、武力報復を受けるに至ります。これを摂津国人一揆と言い、茨木氏・吹田氏など主だった摂津国人が討たれてしまいました。長隆はその滅ぼされた茨木氏の生き残りであり、その後になって三好元長に見出されて細川六郎の筆頭右筆として政治的采配を振るうことになっていたわけです。

 その書状の発布がさらに門徒衆を刺激したのか、八月四日になると今度は下間刑部太夫ら大和・摂津・河内の門徒衆が堺にいる細川六郎の館を目指して襲いかかります。これを救ったのが河内守護代木澤長政でした。彼は直近に門徒衆に命を救われていたのですが、やはりこの暴挙は見過ごせなかったようです。兵を率いて浅香道場を焼き、下間刑部太夫は敗死をしております。後背をつかれた門徒衆は敗走しますが、この事件を記した権中納言鷲尾隆康はこの事件はなんとかしのぐことができたが、諸国にはまだ門徒衆が充満していることを嘆息し、いずれ「天下は一揆の世たるべき」と記しました。

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