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2016年10月15日 (土)

中漠:天文錯乱編⑯トラブルシューターw

 三好千熊丸が本願寺教団と細川六郎(晴元)との間を仲裁したのは、細川晴国勢が薬師寺国忠を討ち取った翌々日でした。三好千熊丸にとってこの両者は間違いなく親の仇でした。なので両者が殺し合いをするのであれば、両者の決着がつくまで阿波に引きこもって力を蓄え、決着がついた頃合いを見て勝った方を討ち取って親の恨みをはらせばよいだけのはずでした。それができないのなら六郎の心変わりを見て潔く身を引いた阿波細川持隆の守護者としての人生を全うしさえすればよかったはずです。そのいずれも選ばなかったという点で、三好千熊丸は戦国時代を通しても稀有なほどの御人好しであったと言えるでしょう。

 この和議のあり得なさをどのように書き連ねても現実に和議は行われているので、少ない情報の中から何故この和解が行われたのかを推し測るしかないのですが、千熊丸少年の正義感と三好政長の懇願くらいしか思いつきません。政長の懇願を示す根拠を持っているわけではありませんし、政長は宗家の元長を陥れる片棒を担いだ一人です。しかし、彼が宗家を裏切ったのは新たな体制に自らが参加する為であって、それが本願寺の暴走で元も子もなくなるのであれば、その裏切りは何の意味を持たなくなります。元より六郎の政権は今、存続の為に打てる手立ては見境なくとられています。幸い三好元長は排除済みで遺児の千熊丸は若年です。彼に細川六郎政権への参政の道を拓いてやることで政長自身が宗家をコントロールすることも可能と踏んだのかもしれません。それにしたって虫のよすぎる考えなので流石にどうかとも思うのですが、細川六郎側で三好千熊丸を動かせるパイプを持ちえた人間は彼くらいしかいないので当座そのように考えざるを得ないという所です。

 ただ問題は本願寺の内部統制にありました。この時、証如少年を支えていたのは顧名の五子の一人実円と、下間頼玄及びその子頼秀・頼盛兄弟でした。それまで教団の方針を定めていた蓮淳は伊勢長嶋願証寺に引きこもり中です。そもそも証如の統制が教団の末端まで行き届いていたなら蓮淳は伊勢落ちする必要もなく、本願寺は今も山科に健在なはずでした。末端で門徒衆を束ねて武力行使する現場指揮者と本寺の中枢にいる指導層とは致命的な認識ギャップがあり、それはいまだに埋まっていませんでした。現場はあくまで現場の利害で動き、証如の檄はそれにお墨付きを与えたに過ぎないか、都合よく解釈を変えられてしまっていたわけです。

 よって三好千熊丸が細川六郎と本願寺証如との間を取り持ったとしてもそれが長く継続しないことは必然でした。本願寺も山科を放棄し、石山御坊を新たな本願寺と定めます。交渉の持って行き方によっては山科本願寺を再建してそちらに復帰することも不可能ではなかったかと思うのですが、法華宗が猖獗を極める京が脇にあり防御に難のある山科よりも、後の織田信長すら攻めあぐむような淀川に浮かぶ水上要塞にいた方が都合がよかった、敢えてそちらの方を選んだと言うことでありましょう。それこそがこの和議の危うさを象徴しておりました。

 九月になって、本願寺教団の継戦派が摂津国御園・西宮方面で蠢動している所を千熊丸は兵を出してこれを取り押さえます。しかし、戦いの機運は一向に鎮まらず、十月には細川六郎方の丹波国人赤澤景盛が細川晴国方に討たれ、また、木澤・大和衆が摂津国御厨に押し出したりしています。十一月末には石山本願寺としての初めての報恩講(宗祖親鸞の祥月命日)が営まれますが、ここにかつてない程の大群衆が集まり、気勢をあげておりました。そんな中、本願寺中枢にいて門徒衆の指揮をとっていた下間頼秀が失脚し、本願寺から退去します。路線対立があってのことと言います。
 下間頼秀の役目は弟の頼盛、父の頼玄が引き継いでいますが、下間頼盛は山科陥落以後、翌年(1533年(天文二年))七月に密かに石山本願寺に帰還するまでは伊勢に潜伏していたと言います。伊勢国長嶋願証寺には蓮淳が避難しておりましたので、頼盛は蓮淳の本願寺復帰を説得していたのかもしれません。あるいは蓮淳の何らかの指示を受けていたのかもしれません。
 いずれにせよ、その後に起こったことがその後の本願寺の方針を示していると言えるでしょう。明けて1534年(天文三年)正月に尾州畠山稙長が本願寺支持を表明して配下を石山に送ります。更に二月には摂津国茨木に住する国人三宅氏が本願寺入信を宣言します。四月に入って下間頼玄が飛騨蓮照寺衆の石山入りを促す文書を発給し、その書にはすでに三河・尾張・美濃三国の番衆を動員している旨が記されておりました。この間木澤勢が石山膝下の街を攻撃しているので、防備を固める為と謳ってはいますが、再度幕府と戦う意向であることは明らかでした。
 この間、下間頼盛は寺内の殿原衆・与力衆を引き連れて法主証如を質にして城下の榎並に退去するというストライキ行動をとっております。本願寺中枢で意思統一が図れていないと言うことでもありますが、数日で終わり、頼盛への処罰がないことを見ると何らかの妥協が図られたと見るべきなのでしょう。

 それは細川六郎に不満を持つ勢力を結集して再度戦いを挑むという物でした。すでに畠山稙長・三宅氏の賛意は得られております。そして、三好一族の中にもその誘いに乗った人物がおりました。
 実従(証如の大叔父)の私心記によると名を三好伊賀と言います。五月二十九日に証如と下間頼盛が和議の破棄を宣言すると、三好伊賀は同族の久介とともに摂津国野田に本願寺防備陣を敷きます。そして下間頼盛とともに河内、摂津中嶋方面で三好政長や伊丹・池田氏ら細川六郎方と激戦を繰り広げました。
 実は、三好千熊丸は本願寺と幕府との和議の後に十三歳で元服をし、利長と名乗っております。(後に範長を経て長慶に改名。本稿では長慶で通します)。ただ、幼年の為三好伊賀守連盛という人物に後見をしてもらっていたようです。参考にした本によって「三好伊賀」の解釈は異なるのですが、本稿ではこの説をとります。そして三好久介ですが、一門衆に三好長将と言う人物がおり、彼の名乗りを久介と言いました。彼は長慶のはとこにあたり、長慶の死後に三好三人衆の一角を占める三好長逸の息子です。何ということもなく、要請に従って和議を整えたものの、自らの怨讐・一門衆の突き上げに揺らいだ挙げ句、本願寺に取り込まれてしまったわけです。

 三好政長もそんな宗家当主とはまともに争う気が起こるわけもなく、木澤長政に周旋を依頼した物と思われます。木澤がどのような交渉をしたのかは定かではありませんが、「三好伊賀」の反抗はあっさりと六郎方への降参と言う形で終了します。翌年、本願寺が正式に降伏しますが、本願寺継戦派は尚も中嶋城に籠もって反抗しますが、三好長慶はこれへの幕府方としての攻撃に加わっております。この戦いにおける三好千熊丸(長慶)に主体性はまるっきり見出せないのですが、ここから彼と彼の一門衆は着実に経験値を積み増してゆくことになります。

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