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2016年11月 5日 (土)

中漠:天文錯乱編⑲錯乱は終わらない

 いつもの延暦寺であれば、自らが抱える犬神人や僧兵をかき集め、松本久吉の奉じる日向門流の京の拠点である妙伝寺を狙い撃ちにして蹂躙するところですが、この時の洛中法華は団結して組織化されており、実働一万の軍勢を動員できる力を持っておりました。その構成員の多くは富裕な商人階層です。

 実の所、延暦寺は1499年(明応八年)の細川政元による焼き討ちによって失われた山上施設の大半の復興もままならず、僧侶の大半は専ら山を下った琵琶湖湖畔の町、坂本に生活の基盤を置いておりました。後世の史家にこれを堕落と難じる人がいますが、宗教、特に延暦寺のような伝統ある大刹は維持に費用が掛かります。乱世になり物流が寸断され、朝廷や幕府の助勢も期待できない状態で、カツカツの財政状態であったと想像できます。松本久吉との論争に負けた華王房が、伝えられている問答の中では浄土信仰に寛容だったのも、資産を持つ町衆階層、それも法華宗とも対立している浄土宗徒を取り込んでゆきたいという思惑があったのかもしれません。

 1536年(天文五年)六月一日、延暦寺は洛中法華諸寺院に対し、に自宗末寺化を要求します。このいつもと違った要求は要するに今の延暦寺には金も人もないと言うことでした。金は商業活動で儲けた洛中法華衆が握っております。人も細川政元の焼き討ちによって寺院規模の縮小を余儀なくされています。なので、朝廷や幕府、法華宗を除く他宗派にも与同を呼びかけて洛中法華に対抗しようとします(ちなみにその中に本願寺も含まれております)。しかし、賛同する勢力はほとんど現れておりません。がんばればがんばるほど、金の欲しさが顔に出るという感じでしょうか。洛中法華衆は足下をみて延暦寺の末寺化要求を拒絶します。
 この紛争は六角定頼が仲裁することになりましたが、延暦寺は強気を崩しませんでした。後の展開から推測するに、おそらくは幕府の教唆があったのではないかと思います。

 両者の対立は険悪化し、ついに七月二十二日、洛中法華は延暦寺に備えて京の入り口に陣を構えるに至ります。妙顕寺衆が御霊口に、立本寺衆が「勢州外構」と呼ばれる場所(私は現時点で特定できておりません)に陣を構えます。これは異常事態と言っていいでしょう。なぜならば、この時点で京には天皇はもちろん、室町殿も、京兆細川晴元もいるのですから。京の自治組織が勝手に軍を動員して町の入り口に陣を設けるなど、幕府組織の否定に他なりません。しかし、細川晴元自身にこれを排除する実力はありませんでした。彼は元々阿波守護に担がれて堺まで来たところを、茨木長隆や木澤長政ら摂津・河内の国人衆に担がれ、最終的に足利義維を振り捨てて義晴についた権威の象徴でしかなく、彼自身に実働部隊はいませんでした。三好元長という実力を持った戦力はいるにはいたのですが、それを彼は本願寺に討たせております。摂津・河内の国人衆は彼の味方ですが、本願寺との戦争の後始末に追われている最中でした。法華衆にとっては延暦寺が攻めてきても洛内にいる幕府はほとんど役に立たない以上、座して死を待つのでなければ、自らの手で町を守る他はないという判断だったのでありましょう。

 しかし、それは細川晴元にとって法華衆に占有されている洛内の支配権を手中に収めるチャンスでもあったのです。七月二十五日、延暦寺兵と法華衆とが『東河原』という地で衝突します。京都と延暦寺の位置関係と地名から推察するに鴨川もしくは高野川の東岸あたり、八瀬から山を下りてくる延暦寺兵を下賀茂神社近辺で迎え撃った形になるかと思われます。山門側十六名、法華側四、五十名の戦死者が出る合戦になりましたが、法華衆は山門兵の洛中入りを阻止しております。この戦いをもって六角定頼を仲介に行われていた交渉は決裂します。そして、六角定頼は延暦寺側に味方するのでした。

 六角定頼は最初の衝突の翌々日には軍を率いて四条口を突破しました。いかに近江と京が指呼の間とはいえ、この速さは和議が破れてから軍を募って行われたものとは言えないでしょう。最初から介入する目的で軍が用意されていたことを示しています。法華衆も北山は防護しても南側からの侵入は予測していなかったし、町衆の動員兵では専業武士と戦にならないほどの実力差があったということでしょう。ただ問題はここからで、洛中に侵入した六角兵は洛中法華寺院を占拠すればよいところを悉く燃やしたばかりか、その火が下京から上京一帯を火の海にしてしまいました。洛中には金蔵が数多くあり、その所有者の多くが法華衆徒であったことから略奪は避けられないことでした。さらには、殺戮も老若男女に関わらず行われ、禁裏の庭には避難民が密集し、童子の圧死や、水が飲めなくて渇飢死した者が発生するような事件も起こっております。発生した死者総数ざっと三千。下京地区は全焼、上京地区は三分の一が焼き尽くされるという被害が出ました。その規模は応仁の乱の十一年をも上回ったと言います。後奈良天皇は狼藉停止を幕府に要請しました。

 生き残った法華宗徒は京を脱出することになります。その中の本能寺が避難先に選んだのが、泉州堺の顕本寺でした。ここは三好元長の終焉の地でもあります。その他妙顕寺を初めとする洛中法華の主要寺院が堺を避難所としていました。この間、細川晴元は京の町を離れておりましたが、洛中法華が京を退散したことを見届けてからおもむろに上洛し、洛中での法華衆の徘徊を禁じるとともに、法華寺院再興の禁止の触れをだしました。
洛中法華最大の受難の時代です。

 法華宗排除の上で上洛して完成させた細川晴元政権ですが、これは決して安定しませんでした。勃興する諸侯のバランスを取りつつ右往左往することになります。その詳細は別稿に譲りますが、この後も「なぜこのようなことが!」と嘆じるべき事件が頻発します。その意味で天文の錯乱は天文法華の乱をもって終わったとは決して言えないのでした。

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