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2016年11月26日 (土)

中漠:林下編Ⅱ②今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①)

 今川家は吉良家の分家です。本家である吉良家は足利家興隆の勢いに乗り損ねましたが、今川家はこの波にうまく乗って遠江、駿河両国守護の座を獲得することができました。その理由として今川家が軍事に精通していたからということもあっでしょう。1338年(建武五年)に今川範国が遠江国と駿河国の守護の座につきます。今川家は元々遠江国引馬に領地を持っていたのですが、駿河国は南朝の勢力が強く、守護の座をもらったからといって、当該国に支配権をすぐに及ぼせるわけではありませんでした。よって引馬から東征を開始するわけです。今川範国の嫡男、範氏は1345年(貞和元年)、駿河国島田に拠点を設けてここに慶寿寺を建てます。ここは真言宗ということになっていますが、開山した朴交思惇(ぼくがいしじゅん)は円覚寺から招かれたということになっております。円覚寺は無学祖元が開いた鎌倉五山の第二位をなす堂々たる臨済宗寺院です。無学祖元は蘭渓道隆が敷いた純粋禅の系譜にいる人物ですので、真言僧が紛れ込んでいたというのも妙な感じがします。私は慶寿寺は建立当初は臨済宗寺院であったのではないかと考えております。足利幕府の開幕当初、足利直義は夢中問答集を出す等して興禅運動しておりました。今川範国は足利直義に仕えて鑁阿寺の置文や太平記を読ませてもらっておりましたので、その影響を受けやすい立場にいたといえるでしょう。その息子の今川範氏も直義の影響を受けて寺領に臨済宗寺院を建てたとすれば、それはそれで納得のゆく話です。

 1353年(文和二年)にその座を嫡男範氏に譲りました。今川範氏はその翌年葉梨(現静岡県藤枝市)に砦を作り、併せて遍照光寺という真言宗寺院も建立しました。後に玄広恵探(今川義元の異母兄)がここに入って花倉殿と呼ばれることになります。花倉殿の名は遍照光寺の山号が華蔵山であることにちなんでいます。ここの開山も朴艾思惇(ぼくだいしじゅん)というのですが、興味深いことにここでの肩書きは真言宗寺院の泉涌寺長老ということになっております。
 この間何があったかを考えてみます。島田と葉梨の位置関係を見るに、葉梨は島田の西南に位置します。今川家の元々の勢力は遠江国にあったわけですから、その視点で見ると西に押し戻されているように見えます。これを駿河南部の南朝勢力が強かったためと説明されているのですが、そんな勢力を残したまま東側の島田に拠点を置くのも不自然な話です。むしろ、駿河東部の敵勢力が強くなったため、一旦前線を葉梨まで下げたと考えた方がしっくりきます。

 慶寿寺建立と遍照光寺建立の間に何があったかといえば、それはもちろん観応の擾乱です。足利直義は尊氏と争って京を追われて鎌倉に入りました。その抗争のきっかけは臨済僧『妙吉』が高師直を讒謗したことにありました。『妙吉』は特定の実在僧に比定するのは難しいのですが、実質京都の五山僧の総意であったと考えて差し支えないと思われます。足利直義は臨済僧の支持を得ていたわけです。そして、1351年(観応二年)十二月に駿河東部の薩た峠で両軍が激突しました。この戦いでは足利尊氏が勝ち、直義は最終的に死ぬわけですが、その後も足利一門衆は分裂したまま関東は不安定な状況に置かれておりました。

 今川範氏としては、葉梨に寺を建立するにあたり、直義の影響下にあった臨済宗寺院を建てることは躊躇われたのではないでしょうか。その折にたまたま慶寿寺を建立した朴交思惇が泉涌寺に入って真言宗に転宗していました。今川家の元々の宗旨は真言宗であり、渡りに船だったのではないかと思います。以後、今川家は義元の代になるまで臨済宗には手を付けておりません。かくて、関東が再び平定され、島田へのルートが安定したので1365年(貞治四年)に亡くなった範氏の菩提は朴艾思惇によって真言宗に改められた慶寿寺で行われたと見ることができるかもしれません。

 ただ、真言宗の宗派は色々あって泉涌寺は真言宗と言っても四宗兼修の特に律宗の影響の大きい宗派でした。宗家の鑁阿寺等とは毛色が違ってはいるものの、清和源氏の信仰する真言宗アピールを行うためには、今川家の本家にあたる吉良家の真言宗寺院から勧請する事がベストだったと思います。ただ、遍照光寺建立の時点で吉良家は足利直義派であり、幕府に帰順した後も吉良家は分裂のごたごたでそれどころではなかったと思われます。遍照光寺の山号は華蔵山ですが、前稿で述べた仮説に基づき吉良家における「華蔵」が吉良本家の真言宗寺院を指すとすれば、それを使わせてもらえたのは早くとも東西吉良家の手打ちがなった後のことではなかったかと思います。泉涌寺としても同じ真言宗としても系統の異なる信仰を持ち込まれるのは遠慮してほしかったということもあった可能性があります。
 故に、今川家の「華蔵(けぞう)」は字面と読みを改めた「花倉(はなくら)」となり、今川家の非嫡子が花倉殿を名乗って四宗兼修で律宗の影響の強い遍照光寺に住するようになったのではないかと思料します。

 但し、遍照光寺の山号が最初から「華蔵山(けぞうざん)」であったかどうかの確認は取れていません。地名としての「花倉・花蔵」が最初に出てくるのは、1481年(文明十三年)鎌倉建長寺で表具師(襖や掛け軸を扱う職人)を営んでいた能全が戦火を避けて「駿州花蔵」に居住したと書かれた久能寺涅槃画幅文という史料からになります。久能寺が能全を呼んで自社の涅槃画を披露する為の準備をさせたそうです。その手伝いとして遍照光寺から十余名加わることになったという記述があるとのことです。
 永正年間には今川義忠の弟の頼忠が遍照光寺に住して今川範氏の菩提寺である慶寿寺に土地を安堵しております。この頼忠は明江珠顕と号して後に泉涌寺の住持になります。但し、系図纂要などの系図資料には義忠の弟として頼忠の名前はありません。また、この安堵状には頼忠や遍照光寺の文言はあるのですが、花倉は出てきません。
 この永正年間を前後して、遠江国引馬の代官、大河内貞綱は今川氏親が占領した遠江国を斯波義達に戻すため挙兵を数次にわたり行い、敗北しております。大河内氏は吉良家の家老であり、この期間は吉良氏は斯波氏方について今川氏親と戦っていたわけですね。

 1530年(享禄三年)に近隣にあった八幡社が遍照光寺南面の敷地に勧請されるのですが、そこが花倉八幡宮と呼ばれます。これは1547年(天文十六年)付池谷満重公事書出にある「七十五文 はなくらやふさめ」という記述で確認を取ることができます。「はなくらやふさめ」は花倉八幡宮で行われた流鏑馬の神事です。流鏑馬の興業や祭事は遍照光寺が行っていたそうです。

 この後、「花倉・花蔵」が特定の個人を指すようになります。それは遍照光寺に今川義元の異母兄の玄広恵探が住持となってからのことでした。

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●華蔵山遍照光寺関連年表
1338年(建武 五年) 今川範国、駿河国守護になる。
1345年(貞和 元年) 今川範氏、駿河国島田に慶寿寺を建立する。(開山円覚寺の朴交思惇)
1349年(貞和 五年) 高師直、クーデターを起こし、足利直義を失脚させる。
              観応の擾乱勃発。吉良氏直義方につく
1351年(観応 二年) 十二月に薩た峠の戦い。足利兄弟が合戦する。
1353年(文和 二年) 今川範氏、今川家家督を父範国より譲られる。
1354年(文和 三年) 今川範氏、駿河国葉梨に遍照光寺を建立する。(開山朴艾思惇)
1355年(延文 元年) この頃までに吉良満義、足利尊氏に帰順。
1356年(延文 二年) 吉良満義、没。後継に尊義(東条吉良家の祖)が立てられ、吉良家分裂。
1358年(延文 三年) 足利尊氏、没。
1360年(延文 五年) 吉良満貞、足利義詮に帰順。
1363年(貞治 四年) 今川範氏、没。慶寿寺に葬られる。
1384年(至徳 元年) 今川範国、没。定光寺に葬られる。
1481年(文明十三年) 表具師能全が戦火を避けて「駿州花蔵」に居住する。
1501年(文亀 元年) 大河内貞綱、引馬で第一次挙兵
1506年(永正 三年) 遍照光寺の今川頼忠、慶寿寺の寺領を安堵する。
1513年(永正十 年) 今川氏親、斯波義達を遠江で破る。
1517年(永正十四年) 今川氏親、遠江で斯波義達を破り、普済寺で出家させた上で尾張に送り返す。
              この年、玄広恵探誕生。

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