« 中漠:天文錯乱編⑲錯乱は終わらない | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ②今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①) »

2016年11月19日 (土)

中漠:林下編Ⅱ①まえがき

 中世史漠談の基本コンセプトは宗教についての記述を厭わず記してゆく中世史というものです。みんなが大好きな戦国時代の晩期になって登場する千利休が大徳寺の僧になることで帝に拝謁する資格を得るとか、戦国武将が他を押しのけて実力で身分を勝ち得ていたり、公家も血統で格式を保っていたりします。それに対して、千利休は武功を立てているわけでも、堺の商人であるので生まれついての身分が高いわけではありません。寺社は明らかに異なるルールが適用されています。そのルールを寺社の成り立ちから追っていけたらいいな、具体的には政治の実権を握る権力者と寺社がどのような関係を結んでいったのか、それを考察してみたいと思って始めております。
 中世の宗教と現代の宗教では意味合いが異なっています。例えば寺社は公家や武士が自らの財産である領地を寄進することで建てられますが、それは現代人が現代の宗教に入信してお布施を納めることと意味合いは似て非なるもので、それは個人が持つ信仰とは別次元の常識や社会規範の一部として機能し存在していたのではないかと思っております。
 現代において契約を破れば民法や商法の規定で罰を受けますが、中世においては起請文を取り交わしました。起請文に記された約束事を破った場合には神仏の罰を受けるだろうなんてことが記されております。現代においては契約遵守を保証するものは国家権力そのものなのですが、中世においては神仏の存在でした。ただ、恐らくはそれだけではなかったはずです。神仏がいる寺社があった、それを支えるコミュニティが神罰・仏罰を代行していたのではないでしょうか。それが現代日本人の遵法意識を涵養してきたはずと考えております。当然のことながらこの仮説で中世史の記述を進めるとすれば、中世の終わり、つまり中世が終わることで社会における神仏の役割が変わっただろうし、どう変わっていったかも書く必要もあるのかなぁと思いつつも、そこまで追いつくかどうか、自身はありません。

 ブログ記事では、鎌倉仏教を中心とした宗教史と室町幕府成立以降の政治史を並行して進めておりました。実は以前にやった林下編で一休宗純の生涯を追った後にそのまま戦国時代における大徳寺と妙心寺の歴史を追いかけていくつもりだったのですが、応仁の乱の前後においては中央政府の在り方、地方権力の在り方がまるっきり違っております。
 例えば妙心寺派の悟渓宗頓が美濃に瑞龍寺を立てた一件だけでも斎藤妙椿との関わり合いを述べる必要があり、そのためには戦国時代への政治史的な進展状況に触れざるを得ませんでした。また、細川政元は自らの治世において延暦寺焼き討ちを行っており、それをやらざるを得ない政治状況をきちんと描写しておかないと、単純に宗教が政治に介入することを嫌ったからなどという安易な解釈に陥るかもしれません。
 ただ、それをやってゆくとどうしても仏教史側の記事が散漫なものにならざるをえません。その時代を描写するために政治史側で押さえてゆくべき事象があまりに多いので、大徳寺や妙心寺の動きを追いかける林下編としては、沢山の政治史記事の中に、いくつかの大徳寺・妙心寺の記事という感じになってしまうのですね。この時代、林下だけでなく、一向宗や法華衆の動向も外せないのでますます林下の記述は薄くなってしまいます。

 そこでとりあえず、本編では前々編の「明応軍乱編」と前編の「天文錯乱編」における大徳寺・妙心寺派の記事を抽出し、妙心寺派の躍進のきっかけとなった駿河国における今川義元の宗教改革に繋いで林下編Ⅱとしてまとめることにいたしました。グダグダの構成となって恐縮です。当初の構想では一休の生涯を終えた後に大徳寺・妙心寺の状況に軽く触れてそのまま今川義元まで繋ぎたかったのですが、応仁の乱の頃と今川義元が活躍した時代では社会状況がまるっきり違っていますし、今川家も京都の動静に連動して動いていることもありますので、そこも外せませんでした。前々編の「明応軍乱編」においては応仁の乱(細川政元暗殺)から永正の錯乱まで、前編の「天文錯乱編」においては、永正の錯乱の後から天文法華の乱まで一気に書き記してゆきました。その間の林下の状況を以下の記事に示しますので、これを通して読んでいただければ幸いです。

  再掲部分まとめ読み

   (再掲)応仁乱中の妙心寺の生存戦略
   (再掲)飛騨国興亡
   (再掲)後北条家の宗旨報告書Ⅰ(伊勢宗瑞)
   (再掲)後北条家の宗旨報告書Ⅱ(伊勢宗瑞)
   (再掲)後北条家の宗旨報告書Ⅲ(北条早雲~氏綱)
   (再掲)戦国コンサルティングファーム
   (再掲)今川家の宗旨報告書Ⅲ(今川了俊)
   (再掲)今川家の宗旨報告書Ⅳ(今川了俊②)
   (再掲)楞厳寺寺伝の謎

 林下編本編

  今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①)
  今川家の宗旨報告書Ⅵ(花倉殿②・泉奘)
  今川家の宗旨報告書Ⅶ(太原崇孚・今川義元)
  今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)
  武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)
  甲駿同盟
  武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)
  武田家の宗旨報告書Ⅲ(武田晴信)
  武田家の宗旨報告書Ⅳ(穴山流武田氏)
  武田家の宗旨報告書Ⅴ(武田晴信・大井流武田氏)
  黄金回廊
  戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略

 林下編Ⅱでは今川氏輝の死から花倉の乱を通して今川義元の家督奪取そして、武田晴信の甲斐掌握までを取り扱います。太原崇孚は妙心寺の住持を務めた高僧といわれますが、実際に妙心寺派僧として妙心寺で修業をした期間は極めて短く、妙心寺出世に至る過程は極めて政治的な動きに基づくものです。花倉の乱を前後して妙心寺派がいかにして駿河・甲斐に入っていったか、そのあたりを描写してゆこうと思います。

|

« 中漠:天文錯乱編⑲錯乱は終わらない | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ②今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/64485917

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編Ⅱ①まえがき:

« 中漠:天文錯乱編⑲錯乱は終わらない | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ②今川家の宗旨報告書Ⅴ(花倉殿①) »