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2016年12月29日 (木)

中漠:林下編Ⅱ⑥武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)

 武田氏は平安時代に活躍した新羅三郎義光の流れをくむ清和源氏で、本貫地は常陸国那賀郡武田郷です。この地を源義光の三男義清が受け継いで武田冠者と呼ばれるのですが、近隣の有力者大掾氏(桓武平氏)と争った結果、勅勘を蒙り甲斐国市河荘に配流となり、ここから甲斐武田氏が始まります。甲斐武田氏は信義の代において以仁王の令旨を賜り、反平家陣営として挙兵、独立勢力として富士川合戦に参戦、源頼朝軍と連携して平家陣営と対座し、これを崩壊させるに至ります。
 その後、武田一族は源頼朝により各個に切り崩しを受け、鎌倉殿の御家人になります。武田信義の長男一条忠頼と次男板垣兼信はそれぞれ誅殺、流罪の憂き目にあい、武田氏家督を継いだのは三男信光でした。彼は治承・寿永の乱(平家滅亡)に貢献した結果、甲斐国と安芸国の守護に任じられます。厳島神社のある安芸国は平家の牙城でしたので、鎌倉幕府としてはここを抑える必要があり、信政以降の武田宗家は安芸守護を担当することになります。甲斐の方は信政の弟の政綱に任され、彼の系統は石和武田氏として勢力を維持しますが、後になって政綱の曾孫の政義が甲斐守護に任じられます。政義は楠木正成の赤坂籠城戦に幕府方として参戦しますが、後醍醐天皇の隠岐脱出を見て船上山に馳せ参じ、甲斐守護をゲットしたばかりか一時は安芸守護家を抑えて武田宗家扱いされたりもします。しかし南北朝の動乱の中で去就を誤り足利幕府樹立後に後醍醐方についたために甲斐守護代に討たれて石和流武田家は没落します。幕府はこれに代わって安芸守護の信武に甲斐国守護を任じます。そして長男の信成に甲斐守護を次男の氏信には安芸守護を任せます。この後の中国地方は、足利直冬や山名時氏が猛威をふるって佐東郡の分国守護に落とされますが、安芸武田氏は存続します。
 嫡流信成系の甲斐守護家も順風満帆とはいかず、孫の信満は上杉禅秀の乱に加担した咎で幕府に討たれています。それ以後甲斐武田氏は混迷期に入るわけですが、守護代跡部氏が勢力を伸長させてゆきます。これを何とか抑えたのが信満の曾孫の信昌でした。しかし、彼も後継を巡る家督争いを起こしてしまって混迷は続き、最終的に信虎が甲斐国を掌握してようやく甲斐守護武田氏が機能し始めるわけです。

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 以下、そんな武田氏の宗旨のあらましを述べてゆきたいと思います。
 源義光は元服の儀式を近江国園城寺新羅善神堂で行ったことから新羅三郎と呼ばれています。彼の墓所はこの園城寺の近くと鎌倉にあります。鎌倉に墓所があるのは義光流の嫡流佐竹氏の館が鎌倉にあったためで、この墓所は後に法華宗六条門流の大宝寺になっています。義光の子孫の清光、信義の菩提寺が創建当時は天台宗で後に曹洞宗に改められているので、園城寺系天台宗と考えて差し支えないと思います。但し、信光の菩提寺(これも後に曹洞宗に改められていますが)の信光寺は真言宗でした。これは信光の代に河内源氏を清和源氏嫡流と認めて源頼朝の御家人となったために宗旨も変えさせられたのかもしれません。武田宗家の安芸守護時代は追いかけきれていないのですが、甲斐守護復帰をした信武の菩提寺は法泉寺といい、夢窓派臨済宗でした。寺伝においては1330年(元徳二年)に「甲斐国主」武田信武が夢窓疎石の弟子の月舟周勲を呼んで法泉寺を建立し、信武は月舟周勲の開山を望みましたが月舟周勲はこれを辞退し師の夢窓疎石を開山として自らは二世住持として住したそうです。但し、この話は多少脚色が入っています。まず、1330年時点で甲斐国と武田信武の関係は薄いのです。というのは、法泉寺建立と同じ年に甲斐守護の二階堂道蘊が夢窓疎石本人を開山に同じ甲斐国に恵林寺を建てさせております。甲斐国には石和流武田氏はいましたがまだ国主を張れるほどの権威を持っていなかったのですね。夢窓疎石が法泉寺建立時点で甲斐国に逗留していたのであれば、弟子の月舟周勲が実際に寺をつくったとしても夢窓疎石が甲斐に在国していたなら名前だけ譲る必要もありません。
 よって法泉寺は信武が甲斐守護に任じられた後に建てられたものであると推測します。その時点で夢窓疎石は南禅寺や天龍寺にいて甲斐国の寺院建立に直接コミットすることはできません。また、ずっと後に恵林寺が武田晴信によって妙心寺派寺院として復興され明叔慶浚・鳳栖玄梁・快川紹喜らの僧侶が派遣されるようになります。法泉寺も甲府五山に選ばれるのですが、代々の武田氏の庇護を受けてきた立場から、法泉寺の創建年次を恵林寺のそれと合わせたのでしょう。
 信武の子の信成は臨済宗の抜隊得勝の向嶽寺に寄進していますが、菩提寺のありかは確定できませんでした。院号が継統院なので、それが菩提寺の名であると思われます。信成の子、信春の院号が慈徳院であり、ここが向嶽寺派臨済宗の寺なので同様な形ではないかと思います。
 武田信満は上杉禅秀の乱に巻き込まれて死にましたから菩提寺を考える余裕はありませんでした。反逆者として討ち取られた信満の菩提を弔ったのが業海本浄が開いた棲雲寺でした。業海本浄(?-1352年)は中峰明本(幻住派祖)の弟子で夢窓疎石と同時代人なのですが、武田信満の孫の信守がこの業海本浄を開山に武田信守が開基になって能成寺を創建したなる記述もあるのですが、これは時代があいません。信満の子で、信守の父である信重は甲斐国の内紛に巻き込まれて亡くなっています。信満・信重二代は不慮の死を得ているので、この二代の宗旨は信守の意向で幻住派臨済宗になったものと考えてよいと思います。


●墓所から見る武田氏歴代の宗旨

義光 園城寺
     多福寺→大宝寺 ?→法華宗
清光 清光寺 天台宗→曹洞宗
信義 願成寺 天台宗→臨済宗→曹洞宗
信光 信光寺 真言宗→曹洞宗
信政 - 信時 - 時綱 - 信宗 安芸守護の時代
信武 法泉寺 臨済宗 夢窓疎石(月舟周勲) 1330年(元徳二年)
信成 継統院?
信春 慈徳院 臨済宗 
信満 棲雲寺 臨済宗 業海本浄(中峰明本(幻住派祖)の弟子)
信重 成就院 臨済宗→浄土宗 円光寺に寺基を移す。
信守 能成寺 臨済宗 業海本浄
信昌 永昌院 曹洞宗 一華文英 1504年(永正元年)
信縄 恵雲院 曹洞宗
     聖徳寺 曹洞宗
信虎 大泉寺 曹洞宗 天桂禅長 1521年(大永元年)
晴信 大泉寺 曹洞宗
     恵林寺 臨済宗(妙心寺派)

 守護代跡部氏を駆逐して甲斐国に一応の体制を敷いた武田信昌が奉じたのは曹洞宗でした。能登国総持寺の峨山韶碩の流れを引く一華文英を招いて永昌寺を建立します。甲斐国にはすでに雲岫宗竜が広厳院を開創しており信昌はそこに寄進を施しておりました。その流れで永昌寺は信昌の菩提寺となります。信昌が引き起こした後継者争いは武田信虎が勝ちます。その過程で曹洞宗雲岫宗竜の門派は味方につけており、武田信虎は雲岫宗竜派の天桂禅長を開山に大泉寺を建立しました。臨済宗は応仁の乱で幕府奇行が崩壊した折に機能不全を起こしていた為、地方に強い曹洞宗が勢力を伸ばしたものと思われます。武田信虎は過去にさかのぼって武田氏の宗旨を曹洞宗に変えようとしますが、それを阻止するきっかけが南の駿河国で起こりました。
 花倉の乱です。

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2016年12月17日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑤今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)

 天文五年三月十七日の今川氏輝・彦五郎の死から花倉の乱が起こります。氏輝・彦五郎の死の原因については皆が謎としていますが、容疑者として最初に浮かんでくるのは最大の受益者である今川義元、太原崇孚、武田信虎であることは間違いがないでしょう。私は不勉強なのでこれを説として唱えた記事や論文を読んだことはありませんが、この時代を研究した人であれば、誰でも一度は考えることであろうかと思います。

 ことの経緯を時系列で述べれば1536年(天文五年)二月五日、今川氏輝は相模国小田原を訪問しました。歌会に参加という名目ですが、この月の二十六日に京において後奈良天皇が即位の礼を執り行っております。この時に儀式のスポンサーとなったのが今川氏輝と北条氏綱の両名でした。後奈良天皇については、践祚の翌年、桂川原合戦が起こって、敗北した管領細川高国と足利義晴が京を脱出、以後戦乱に次ぐ戦乱で本来スポンサーとなるべき将軍や管領が京にいないという異常事態がずっと続いていたわけでした。この前年、摂津の石山本願寺が室町幕府に降伏することによって長い騒乱に一応のピリオドが打たれ将軍・管領の帰還にもめどが立ち、苦しい台所事情ではあったものの待ちきれなくなった後奈良天皇が強行したのです。(但しこの直後に天文の法華の乱が起こって京の街は烏有に帰してしまうことになります)
 もちろんこの訪問には両者の同盟関係を強化し、対武田の作戦を練る意味もあったと思われます。武田信虎は息子晴信の嫁に上杉朝興の娘をもらっていて、扇谷上杉氏と連合を組んでおりました。扇谷上杉氏と対立していたのが北条家と言う関係です。もっとも、晴信の嫁は結婚の翌年、出産の折に亡くなっております。

 そして三月十七日、今川氏輝と彦五郎が死にます。前月には歌会訪問で隣国に出かけていたのですから、病気だったとも考えづらく、しかも彦五郎と同時の死です。この彦五郎という人物は実は正体が定かではありません。その存在がほぼこの事件にのみ、氏輝とペアでしか出てこない人物で、通説では今川氏輝の弟ということになっています。それは、甲斐国常在寺僧侶の手になる「妙法寺記」という記録に「駿河ノ屋形兄弟死去メサレ候」とあるからなのですね。ただ、今川家にとって彦五郎と言う名乗りは嫡男、すなわち後継者候補と同義であるにもかかわらず、ほとんど史料に出てこないのです。氏輝と彦五郎の父親である氏親が死んだ時の記録に「今川氏親公葬記」と言う記録が出てくるのですが、ここには氏輝と花蔵之御曹司としての玄広恵探と善得寺御曹司としての方菊丸(義元)しか出てこないのですね。寿桂尼が彼の死後に定源寺殿への寄進を行っていて、定源寺殿が彦五郎の諡号に比定できるので存在はしているようなのですが、謎の人物です。
 前稿にも書きましたが、今川家における彦五郎の名前の重さを考えるなら、氏親の次男というよりも、氏輝の長男と考えた方がよいというものがありました。大変説得力がある考え方だと思います。
 
 今川氏輝の死因ですが、浅羽系図という文書に「為氏輝入水、今川怨霊也」という記述があって溺死説とか、それに派生して入水自殺説やさらに氏輝が精神を病んでいた説なども出ているのですが、具体性に欠ける記述に基づく憶測の域を出ないと思います。そもそもの文書は「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」であり、普通に読んだら入水したのは氏輝ではなく、惣持院という人物であるようです。少なくとも彦五郎は氏輝の代理が出来ると判断される程度には壮健なのですから、これらの説は彦五郎が同じ日に死んだ理由と一緒に提示しないとだめなのではないでしょうか?

 だとすると、氏輝は急病死か暗殺、彦五郎は後継と目されていた為暗殺あたりが妥当でありましょう。氏輝と彦五郎が同時に死んだことにより後継者候補が二人名乗り出ます。玄広恵探と栴岳承芳です。玄広恵探は年長ではありましたが、生母は福島氏で正妻ではありませんでした。栴岳承芳は氏親の正妻寿桂尼を生母としていますが、彼が打ち出した政策はそれまでの今川家の外交を根本から変えるものでした。すなわち、北条ではなく、武田と結ぶ政策です。そもそも、栴岳承芳の父氏親は親族の小鹿範満によって乗っ取られかけていたものを細川勝元の後押しで派遣されてきた伊勢宗瑞(北条早雲)のおかげで相続できたのであり、以後も混迷を深める関東公方家・管領家の騒乱を一手に引き受けて今川家の安寧に貢献してきた一族です。それを考えるなら武田との提携などはあり得ないことでした。実母である寿桂尼にしても氏親・氏輝の代理として執政に参与していた立場上賛同しづらいものであったものと思われます。

 玄広恵探が蜂起、寿桂尼が戸惑う中、栴岳承芳は京に還御したばかりの将軍義晴に工作して還俗時の名乗りに将軍の名の一字拝領の内定をもらってしまいます。この場合、普通は「晴」の嫡流の通字ではないものをもらうのですが、将軍家の通字である「義」を拝領して義元と名乗ることになったのですね。しかもこれは三条西実隆を動かして実現したものでした。三条西実隆は寿桂尼の出身である中御門家(名家)よりも家格が高く(大臣家)、しかも細川高国とのつながりが深い人物です。この時点で細川高国は亡くなっていますが、高国が担いでいた足利義晴とのコネクションを活かしたものでしょう。
 寿桂尼はこれにはキレたようで、注書(重書)と呼ばれる重要文書をもって玄広恵探陣営に同心します。この行為については栴岳承派の寿桂尼が内戦にならずに済むように妥協案を持って行った所を玄広恵探に拉致監禁されたという解釈もありますが、多少強引な感じがします。結局、両軍が激突して勝ったのは栴岳承芳派でした。玄広恵探は今川館を攻略できず、本拠地の花倉城を岡部親綱が攻め落として決着となりました。寿桂尼が持ち出した注書は岡部親綱が奪還に成功しています。

 晴れて勝利した栴岳承芳は今川義元を名乗ります。その彼が最初にやったことは、兄であり先代今川家当主である氏輝の葬儀でした。それまでの今川家歴代は真言宗か曹洞宗で葬儀が行われてきたのですが、新当主である今川義元はそれを改めて、臨済宗で葬送することに決めます。彼が氏輝の為の菩提寺として選んだのは本拠地である駿府に所在する善得院でした。ここは彼が最初に修行を始めた善得寺の駿府出張所のような末寺ではありましたが、ここの寺号を丁寧にも「臨済」寺と改めてそこに亡兄を祀ったのでした。しかも、臨済寺の宗旨は建仁寺系ではなく、妙心寺の大休宗休を開山として迎え入れたのです。実質的には九英承菊(太原崇孚)が住持をつとめます。臨済寺は今川館のすぐ近くにあり、軍師としていつでも当主を補佐できるような体制となったわけです。彼らはつい直前には建仁寺の高僧を呼んで法要をやっていたわけで、花倉の乱以前にはあり得なかった大転換でした。

 氏輝入水説に出てきた浅羽本今川系図ですが、「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」は読み下すと、惣持院は、氏輝の為に入水す。今川の怨霊也。となります。惣持院とは駿河浅間神社寺域内にある真言宗寺院だったのですが、明治期の廃仏毀釈で取り壊されております。惣持院は浅間神社別当の役職であり、氏輝の時代における惣持院は今川義元の叔父、今川心範のことを指すそうです。彼が氏輝の為に入水したとすれば、こうした強硬な改宗行動への抗議の自殺だったのかもしれません。そして彼が抱いた恨みは今川家の怨霊のように見えたのかもしれませんね。

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2016年12月11日 (日)

中漠:林下編Ⅱ④今川家の宗旨報告書Ⅶ(太原崇孚・今川義元)

 以前の記事「飛騨国興亡」にて、三木直頼が禅昌寺を創建した折、都合よく一族の中から杲天宗恵という妙心寺で修行した僧が現れてここを任された話をいたしました。そしてその折十分な根拠も示さないまま、細川六郎(晴元)の意向である旨書かせていただきました。そのあたりがどんな事情だったか、今川氏のケースにおいて端的にでておりますので、事実関係を述べた後で考察してみたいと思います。

 今川氏親には六人の男児がおり、嫡男の氏輝と次男の彦五郎、それから末子で那古屋今川家に養子に行った氏豊以外は仏門に入っておりました。三男の玄広恵探と四男の象耳泉奘は真言律宗を修め、五男の方菊丸(栴岳承芳・義元)は禅宗でした。
 方菊丸には駿河国人である庵原氏出身の九英承菊が家庭教師としてついて、禅修行を行ったのですが、その行った先は駿河国善得寺です。1522年(大永二年)に二人は建仁寺に入り、1530年(享禄三年)に得度して承芳と名乗ります。この時十二歳です。その後三年間二人は上洛して建仁寺でしています。建仁寺の修行期間中に承芳は栴岳の号をもらって栴岳承芳となります。実はこの期間、京の街は戦乱に巻き込まれていたのですね。

 1530年(享禄三年)に京には将軍も管領もいませんでした。細川家が高国派と六郎(晴元)派に分裂して管領高国は京を追われて備前の浦上村宗のもとにおり、将軍の足利義晴は近江国朽木に逃れておりました。細川六郎(晴元)は阿波国で足利義澄の遺児義維を奉じて泉州堺に仮幕府を立てておりました。この時京を収めていた六郎(晴元)派の柳本賢治は播磨へ出陣して高国・浦上連合軍と対峙していましたが、暗殺されその軍団は撤退を余儀なくされました。その余勢をかって洛外に高国派の与党が砦を構え、洛中の六郎(晴元)派と戦闘に及んでおります。この直後に細川高国と浦上村宗は三好元長と戦って戦死することで洛中の脅威は一旦去るのですが、悪いことは重なります。その翌年に細川六郎(晴元)派として戦った本願寺門徒が暴走して堺仮幕府と抗争を始めます。堺幕府側は洛中法華宗徒に命じて洛中洛外の本願寺教団寺院の破却を命じて、京は阿鼻叫喚の巷に叩き落とされます。建仁寺は本願寺教団でも法華でもありませんが、普通に修行を続けられる環境ではなかったと思われます。

 1533年(天文二年)十二月までは栴岳承芳と九英承菊は駿河国にいたことは確認されています。そしてその後再び上洛して建仁寺に戻ったようです。洛中・洛外から本願寺教団寺院が一掃され、洛中の安寧が確保されたためでしょう。1533年(天文二年)に九英承菊と承芳は再上洛して建仁寺に入りますが、二年ほどして九英承菊は心変わりをして承芳とともに妙心寺の門を叩き、九英承菊は太原崇孚と名を改めたということになっています。太原崇孚は建仁寺での修行にあきたらないものを感じていたと言われてますが、実際彼が太原崇孚を名乗るのは1544年(天文十三年)になってからで、しかも一年余り後の1535年(天文四年)には駿河国に帰国していますので、妙心寺に入って応灯関流の厳しい修行をやりたかったから、という動機についてはやや首をかしげるところがあります。

 1535年(天文四年)に栴岳承芳らが帰国したのは、栴岳承芳が最初に入った駿府にある善得寺の師である琴溪承舜の七回忌に主席するためです。もともと高峰顕日の弟子の大勲天策が建てた天寧寺という寺号で関東管領上杉憲顕・能憲親子の帰依をうけていたのが、上杉禅秀の乱の結果、今川氏が管理する官寺になったものです。当然、この時点で同じ臨済宗とは言え妙心寺派とは関係のない寺でした。もし、九英承菊と栴岳承芳が妙心寺派に転宗したことを公にしていれば、七回忌の会合は出席しにくいものであったでしょう。琴溪承舜の七回忌を仕切ったのは建仁寺の常庵竜崇でした。彼は以前駿河滞在中に今川方菊丸に得度をした人物でもあります。

 この七回忌の後、栴岳承芳と九英承菊は京に戻らず駿河に在国し続けました。今川氏輝の命によって善得寺周辺の防備を命ぜられたようです。善得寺は城塞としての機能も持っていたらしく、今川の武将として栴岳承芳を起用しようとしたらしい。このあたりは庵原氏の勢力圏でもありました。今川氏輝は北条氏と同盟(と言うかもともと今川家と北条家は主従です)関係にあり、共同して甲斐国で勢力を伸ばしている守護の武田信虎と戦っておりました。武田氏との小競り合いはずっと続いており、必ずしも戦況ははかばかしくなかったようです。
 今川氏輝は栴岳承芳に東駿河の守りを任せて国政の充実をはかりますが、ここで今川家に一大事件が起こるのです。

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2016年12月 3日 (土)

中漠:林下編Ⅱ③今川家の宗旨報告書Ⅵ(花倉殿②・泉奘)

 以下は「花蔵・華蔵」号が出てくる文書の一覧です。玄広恵探は今川氏親と今川家家臣福島正成の娘との間に生まれた氏親の三男で、数えで十歳になるかならないかの時点ですでに「花蔵」と呼ばれておりました。

 「花蔵返報」___大永_五年_九月_十_日_実隆公記(この年、恵探九歳)
 「花蔵之御曹司」______________今川氏親葬儀記(大永六年、氏親没)
 「花蔵殿」____天文_五年_五月_十_日_快元僧都記(この年、恵探二十歳)
 「花蔵ト同心シテ」 天文_五年_五月二十四日_高白斎記
 「花蔵生害」___天文_五年_六月_十四日_高白斎記
 「華蔵住持」___天正十五年十_月_____護国禅師雪斎遠諱香語写

 彼は護国禅師雪斎遠諱香語写にあるように、華蔵=遍照光寺の住持だったわけですが、十歳の童子に住持の職が務まるとも思えないので、まずは福島氏が補佐する形で葉梨城の城主となり、そこの領主の別名として「花蔵殿」と呼ばれていたのかもしれません。もちろん僧籍に入っていたことは否定しませんし、遍照光寺がその教育役を務めていたでしょうが、この時代僧籍にあって領主を務めることもよくありますので、花倉殿は僧侶と領主の両方の性格を持っていたと見るべきでしょう。

 この玄広恵探は齢二十才で戦乱に巻き込まれます。天文五年に長兄氏輝と次兄彦五郎が同日に亡くなるという事件が起きました。この彦五郎というのはこの事件に名前だけが出てくる人物で、実際に氏輝との関係は判りません。ただ、彦五郎という名前は今川家惣領継承者に付けられた名前であるので、氏輝が死ねばこの彦五郎が後継する立場だったろうと推測することができます。但し、上に例示した「今川氏親葬儀記」にはこの彦五郎に該当する人物は出ておりませんので、この人物の正体は謎という他ありません。(今のところ実は氏輝の末期に元服させられた幼長子という説明が一番納得感があります)

 いずれにせよ、今川氏輝には嫡男がいないことになっていましたので、後継候補は今川氏親の三男以下の男児に限られるわけですが、この時玄広恵探、象耳泉奘、栴岳承芳、氏豊の四名がいたと言われております。末子の今川氏豊は尾張国那古屋今川家に養子に行っておりましたので候補から外れます。象耳泉奘が初めて史料に名を残すのはこれより少し後のことになるので、この時点で彼がどこで何をしていたのかは不明ということになります。ただ、急死した氏輝の後継候補者として目されていなかったことは確かなようです。事実上玄広恵探と栴岳承芳の一騎打ちということになります。栴岳承芳は先代氏輝の同母弟であることを名分として今川義元を名乗り、花蔵殿=玄広恵探は年長であることを名分として今川良真を名乗ってそれぞれに立ち内戦となります。結果としては今川義元が勝利し今川良真は敗死します。これを称して花倉の乱と言います。

 花倉の乱の意義などについては、別途今川義元について述べることにいたします。花倉の乱の翌々年、今川義元に嫡男氏真が誕生します。さらにその翌年の1539年(天文八年)に象耳泉奘が遍照光寺で受戒したのです。この象耳泉奘はこの時二十二歳、俗人であろうと僧侶であろうと一人前と見なされる年齢です。受戒というのは仏門に入る儀式であり、既に僧籍にあったのなら二度受戒を行っていることになります。俗人であれば氏輝死亡時の混乱期にどのようにその混乱を避けたのかが不明ということになります。いずれにせよ、よく判らない人物です。

1539年(天文  八年)二月十 日 象耳泉奘、遍照光寺で受戒記事あり。 招提千載伝記
1566年(永禄  九年)六月十二日 花蔵之住持                 言継卿記
1571年(元亀  二年)九月 八日 花蔵之仁                   言継卿記

 今川義元にしてみれば、花蔵殿=玄広恵探・今川良真は討ったが、花蔵の名跡は慣例上絶やせないという判断があったものと思われます。象耳泉奘は年譜等によれば今川義元の一歳年長なのですが、一説に今川義元の子という説もあります。説明をつけるなら、今川了俊の弟の今川仲秋が了俊の養子となって陣代を務めたように、養子と解釈して見るのが妥当なような気がします。今川義元は1560年(永禄三年)に桶狭間合戦で敗死し、今川家が衰運の憂き目を見るようになると、武田信玄が1565年(永禄八年)今川家からの妻を持つ嫡男義信を廃嫡することにより、武田、今川、北条で結んでいた三国同盟が破棄されます。西の領土どころか駿府の行く末も危ぶまれる頃に象耳泉奘は京の泉涌寺の住持につきます。その後、武田信玄が駿河に乱入し戦国大名今川家が滅亡すると、遍照光寺の建物は焼かれ、寺領は武田家家臣に分配され廃寺の憂き目にあったのでした。象耳泉奘は遍照光寺の廃寺の前後に京と駿河を往還しましたが、結局泉涌寺に戻って律宗を修め、唐招提寺の住持に至ることになります。

 焼亡した遍照光寺は1571年(元亀二年)頃に華蔵山遍照寺として再興されます。再興したのは、藤枝にある曹洞宗心岳寺の蒲山孝順でした。彼の師匠筋をたどってゆくと、伊勢宗瑞の弟の賢仲繁哲に行き当たります。これは偶然によるものでありましょうが、今川家所縁の寺が旧臣伊勢氏所縁の寺の援助で再興されるというのは何やら因縁めいておりますね。

賢仲繁哲(林叟院、静居寺)――○――兆山岱朕(心岳寺)――○―○――蒲山孝順(心岳寺、遍照寺)

1481年(文明 十三年)表具師能全が戦火を避けて「駿州花蔵」に居住する。
1501年(文亀  元年)大河内貞綱、引馬で第一次挙兵
1506年(永正  三年)遍照光寺の今川頼忠、慶寿寺の寺領を安堵する。
1513年(永正 十 年)今川氏親、斯波義達を遠江で破る。
1517年(永正 十四年)今川氏親、遠江で斯波義達を破り、普済寺で出家させたうえで尾張に送り返す。
               この年、玄広恵探(今川良真)誕生。
1518年(永正 十五年)この年、象耳泉奘誕生。
1529年(永正 十六年)この年、今川義元誕生。
1522年(大永  二年)今川氏豊、誕生。
1525年(大永  五年)実隆公記に「花倉返報」の語句あり。
1536年(天文  五年)花倉の乱。玄広恵探、敗死。
1538年(天文  七年)今川氏真、生誕。
1539年(天文  八年)象耳泉奘、遍照光寺に入る。
1558年(永禄  元年)今川氏真、家督継承。
1560年(永禄  三年)桶狭間合戦、今川義元、討死。
1565年(永禄  八年)武田信玄、義信を廃嫡。甲駿同盟解消。
1566年(永禄  九年)象耳泉奘、泉涌寺六十九世住持となる。
1568年(永禄 十一年)武田信玄、駿府城奪取。
1571年(元亀  二年)この年、またはその翌年に蒲山孝順、遍照光寺を曹洞宗偏照寺として再興。
1574年(天正  二年)象耳泉奘、大和国に伝香寺(律宗)を開山する。
1579年(天正  七年)象耳泉奘、唐招提寺五十七世住持となる。

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