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2016年12月 3日 (土)

中漠:林下編Ⅱ③今川家の宗旨報告書Ⅵ(花倉殿②・泉奘)

 以下は「花蔵・華蔵」号が出てくる文書の一覧です。玄広恵探は今川氏親と今川家家臣福島正成の娘との間に生まれた氏親の三男で、数えで十歳になるかならないかの時点ですでに「花蔵」と呼ばれておりました。

 「花蔵返報」___大永_五年_九月_十_日_実隆公記(この年、恵探九歳)
 「花蔵之御曹司」______________今川氏親葬儀記(大永六年、氏親没)
 「花蔵殿」____天文_五年_五月_十_日_快元僧都記(この年、恵探二十歳)
 「花蔵ト同心シテ」 天文_五年_五月二十四日_高白斎記
 「花蔵生害」___天文_五年_六月_十四日_高白斎記
 「華蔵住持」___天正十五年十_月_____護国禅師雪斎遠諱香語写

 彼は護国禅師雪斎遠諱香語写にあるように、華蔵=遍照光寺の住持だったわけですが、十歳の童子に住持の職が務まるとも思えないので、まずは福島氏が補佐する形で葉梨城の城主となり、そこの領主の別名として「花蔵殿」と呼ばれていたのかもしれません。もちろん僧籍に入っていたことは否定しませんし、遍照光寺がその教育役を務めていたでしょうが、この時代僧籍にあって領主を務めることもよくありますので、花倉殿は僧侶と領主の両方の性格を持っていたと見るべきでしょう。

 この玄広恵探は齢二十才で戦乱に巻き込まれます。天文五年に長兄氏輝と次兄彦五郎が同日に亡くなるという事件が起きました。この彦五郎というのはこの事件に名前だけが出てくる人物で、実際に氏輝との関係は判りません。ただ、彦五郎という名前は今川家惣領継承者に付けられた名前であるので、氏輝が死ねばこの彦五郎が後継する立場だったろうと推測することができます。但し、上に例示した「今川氏親葬儀記」にはこの彦五郎に該当する人物は出ておりませんので、この人物の正体は謎という他ありません。(今のところ実は氏輝の末期に元服させられた幼長子という説明が一番納得感があります)

 いずれにせよ、今川氏輝には嫡男がいないことになっていましたので、後継候補は今川氏親の三男以下の男児に限られるわけですが、この時玄広恵探、象耳泉奘、栴岳承芳、氏豊の四名がいたと言われております。末子の今川氏豊は尾張国那古屋今川家に養子に行っておりましたので候補から外れます。象耳泉奘が初めて史料に名を残すのはこれより少し後のことになるので、この時点で彼がどこで何をしていたのかは不明ということになります。ただ、急死した氏輝の後継候補者として目されていなかったことは確かなようです。事実上玄広恵探と栴岳承芳の一騎打ちということになります。栴岳承芳は先代氏輝の同母弟であることを名分として今川義元を名乗り、花蔵殿=玄広恵探は年長であることを名分として今川良真を名乗ってそれぞれに立ち内戦となります。結果としては今川義元が勝利し今川良真は敗死します。これを称して花倉の乱と言います。

 花倉の乱の意義などについては、別途今川義元について述べることにいたします。花倉の乱の翌々年、今川義元に嫡男氏真が誕生します。さらにその翌年の1539年(天文八年)に象耳泉奘が遍照光寺で受戒したのです。この象耳泉奘はこの時二十二歳、俗人であろうと僧侶であろうと一人前と見なされる年齢です。受戒というのは仏門に入る儀式であり、既に僧籍にあったのなら二度受戒を行っていることになります。俗人であれば氏輝死亡時の混乱期にどのようにその混乱を避けたのかが不明ということになります。いずれにせよ、よく判らない人物です。

1539年(天文  八年)二月十 日 象耳泉奘、遍照光寺で受戒記事あり。 招提千載伝記
1566年(永禄  九年)六月十二日 花蔵之住持                 言継卿記
1571年(元亀  二年)九月 八日 花蔵之仁                   言継卿記

 今川義元にしてみれば、花蔵殿=玄広恵探・今川良真は討ったが、花蔵の名跡は慣例上絶やせないという判断があったものと思われます。象耳泉奘は年譜等によれば今川義元の一歳年長なのですが、一説に今川義元の子という説もあります。説明をつけるなら、今川了俊の弟の今川仲秋が了俊の養子となって陣代を務めたように、養子と解釈して見るのが妥当なような気がします。今川義元は1560年(永禄三年)に桶狭間合戦で敗死し、今川家が衰運の憂き目を見るようになると、武田信玄が1565年(永禄八年)今川家からの妻を持つ嫡男義信を廃嫡することにより、武田、今川、北条で結んでいた三国同盟が破棄されます。西の領土どころか駿府の行く末も危ぶまれる頃に象耳泉奘は京の泉涌寺の住持につきます。その後、武田信玄が駿河に乱入し戦国大名今川家が滅亡すると、遍照光寺の建物は焼かれ、寺領は武田家家臣に分配され廃寺の憂き目にあったのでした。象耳泉奘は遍照光寺の廃寺の前後に京と駿河を往還しましたが、結局泉涌寺に戻って律宗を修め、唐招提寺の住持に至ることになります。

 焼亡した遍照光寺は1571年(元亀二年)頃に華蔵山遍照寺として再興されます。再興したのは、藤枝にある曹洞宗心岳寺の蒲山孝順でした。彼の師匠筋をたどってゆくと、伊勢宗瑞の弟の賢仲繁哲に行き当たります。これは偶然によるものでありましょうが、今川家所縁の寺が旧臣伊勢氏所縁の寺の援助で再興されるというのは何やら因縁めいておりますね。

賢仲繁哲(林叟院、静居寺)――○――兆山岱朕(心岳寺)――○―○――蒲山孝順(心岳寺、遍照寺)

1481年(文明 十三年)表具師能全が戦火を避けて「駿州花蔵」に居住する。
1501年(文亀  元年)大河内貞綱、引馬で第一次挙兵
1506年(永正  三年)遍照光寺の今川頼忠、慶寿寺の寺領を安堵する。
1513年(永正 十 年)今川氏親、斯波義達を遠江で破る。
1517年(永正 十四年)今川氏親、遠江で斯波義達を破り、普済寺で出家させたうえで尾張に送り返す。
               この年、玄広恵探(今川良真)誕生。
1518年(永正 十五年)この年、象耳泉奘誕生。
1529年(永正 十六年)この年、今川義元誕生。
1522年(大永  二年)今川氏豊、誕生。
1525年(大永  五年)実隆公記に「花倉返報」の語句あり。
1536年(天文  五年)花倉の乱。玄広恵探、敗死。
1538年(天文  七年)今川氏真、生誕。
1539年(天文  八年)象耳泉奘、遍照光寺に入る。
1558年(永禄  元年)今川氏真、家督継承。
1560年(永禄  三年)桶狭間合戦、今川義元、討死。
1565年(永禄  八年)武田信玄、義信を廃嫡。甲駿同盟解消。
1566年(永禄  九年)象耳泉奘、泉涌寺六十九世住持となる。
1568年(永禄 十一年)武田信玄、駿府城奪取。
1571年(元亀  二年)この年、またはその翌年に蒲山孝順、遍照光寺を曹洞宗偏照寺として再興。
1574年(天正  二年)象耳泉奘、大和国に伝香寺(律宗)を開山する。
1579年(天正  七年)象耳泉奘、唐招提寺五十七世住持となる。

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