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2016年12月29日 (木)

中漠:林下編Ⅱ⑥武田家の宗旨報告書Ⅰ(源義光~武田信虎)

 武田氏は平安時代に活躍した新羅三郎義光の流れをくむ清和源氏で、本貫地は常陸国那賀郡武田郷です。この地を源義光の三男義清が受け継いで武田冠者と呼ばれるのですが、近隣の有力者大掾氏(桓武平氏)と争った結果、勅勘を蒙り甲斐国市河荘に配流となり、ここから甲斐武田氏が始まります。甲斐武田氏は信義の代において以仁王の令旨を賜り、反平家陣営として挙兵、独立勢力として富士川合戦に参戦、源頼朝軍と連携して平家陣営と対座し、これを崩壊させるに至ります。
 その後、武田一族は源頼朝により各個に切り崩しを受け、鎌倉殿の御家人になります。武田信義の長男一条忠頼と次男板垣兼信はそれぞれ誅殺、流罪の憂き目にあい、武田氏家督を継いだのは三男信光でした。彼は治承・寿永の乱(平家滅亡)に貢献した結果、甲斐国と安芸国の守護に任じられます。厳島神社のある安芸国は平家の牙城でしたので、鎌倉幕府としてはここを抑える必要があり、信政以降の武田宗家は安芸守護を担当することになります。甲斐の方は信政の弟の政綱に任され、彼の系統は石和武田氏として勢力を維持しますが、後になって政綱の曾孫の政義が甲斐守護に任じられます。政義は楠木正成の赤坂籠城戦に幕府方として参戦しますが、後醍醐天皇の隠岐脱出を見て船上山に馳せ参じ、甲斐守護をゲットしたばかりか一時は安芸守護家を抑えて武田宗家扱いされたりもします。しかし南北朝の動乱の中で去就を誤り足利幕府樹立後に後醍醐方についたために甲斐守護代に討たれて石和流武田家は没落します。幕府はこれに代わって安芸守護の信武に甲斐国守護を任じます。そして長男の信成に甲斐守護を次男の氏信には安芸守護を任せます。この後の中国地方は、足利直冬や山名時氏が猛威をふるって佐東郡の分国守護に落とされますが、安芸武田氏は存続します。
 嫡流信成系の甲斐守護家も順風満帆とはいかず、孫の信満は上杉禅秀の乱に加担した咎で幕府に討たれています。それ以後甲斐武田氏は混迷期に入るわけですが、守護代跡部氏が勢力を伸長させてゆきます。これを何とか抑えたのが信満の曾孫の信昌でした。しかし、彼も後継を巡る家督争いを起こしてしまって混迷は続き、最終的に信虎が甲斐国を掌握してようやく甲斐守護武田氏が機能し始めるわけです。

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 以下、そんな武田氏の宗旨のあらましを述べてゆきたいと思います。
 源義光は元服の儀式を近江国園城寺新羅善神堂で行ったことから新羅三郎と呼ばれています。彼の墓所はこの園城寺の近くと鎌倉にあります。鎌倉に墓所があるのは義光流の嫡流佐竹氏の館が鎌倉にあったためで、この墓所は後に法華宗六条門流の大宝寺になっています。義光の子孫の清光、信義の菩提寺が創建当時は天台宗で後に曹洞宗に改められているので、園城寺系天台宗と考えて差し支えないと思います。但し、信光の菩提寺(これも後に曹洞宗に改められていますが)の信光寺は真言宗でした。これは信光の代に河内源氏を清和源氏嫡流と認めて源頼朝の御家人となったために宗旨も変えさせられたのかもしれません。武田宗家の安芸守護時代は追いかけきれていないのですが、甲斐守護復帰をした信武の菩提寺は法泉寺といい、夢窓派臨済宗でした。寺伝においては1330年(元徳二年)に「甲斐国主」武田信武が夢窓疎石の弟子の月舟周勲を呼んで法泉寺を建立し、信武は月舟周勲の開山を望みましたが月舟周勲はこれを辞退し師の夢窓疎石を開山として自らは二世住持として住したそうです。但し、この話は多少脚色が入っています。まず、1330年時点で甲斐国と武田信武の関係は薄いのです。というのは、法泉寺建立と同じ年に甲斐守護の二階堂道蘊が夢窓疎石本人を開山に同じ甲斐国に恵林寺を建てさせております。甲斐国には石和流武田氏はいましたがまだ国主を張れるほどの権威を持っていなかったのですね。夢窓疎石が法泉寺建立時点で甲斐国に逗留していたのであれば、弟子の月舟周勲が実際に寺をつくったとしても夢窓疎石が甲斐に在国していたなら名前だけ譲る必要もありません。
 よって法泉寺は信武が甲斐守護に任じられた後に建てられたものであると推測します。その時点で夢窓疎石は南禅寺や天龍寺にいて甲斐国の寺院建立に直接コミットすることはできません。また、ずっと後に恵林寺が武田晴信によって妙心寺派寺院として復興され明叔慶浚・鳳栖玄梁・快川紹喜らの僧侶が派遣されるようになります。法泉寺も甲府五山に選ばれるのですが、代々の武田氏の庇護を受けてきた立場から、法泉寺の創建年次を恵林寺のそれと合わせたのでしょう。
 信武の子の信成は臨済宗の抜隊得勝の向嶽寺に寄進していますが、菩提寺のありかは確定できませんでした。院号が継統院なので、それが菩提寺の名であると思われます。信成の子、信春の院号が慈徳院であり、ここが向嶽寺派臨済宗の寺なので同様な形ではないかと思います。
 武田信満は上杉禅秀の乱に巻き込まれて死にましたから菩提寺を考える余裕はありませんでした。反逆者として討ち取られた信満の菩提を弔ったのが業海本浄が開いた棲雲寺でした。業海本浄(?-1352年)は中峰明本(幻住派祖)の弟子で夢窓疎石と同時代人なのですが、武田信満の孫の信守がこの業海本浄を開山に武田信守が開基になって能成寺を創建したなる記述もあるのですが、これは時代があいません。信満の子で、信守の父である信重は甲斐国の内紛に巻き込まれて亡くなっています。信満・信重二代は不慮の死を得ているので、この二代の宗旨は信守の意向で幻住派臨済宗になったものと考えてよいと思います。


●墓所から見る武田氏歴代の宗旨

義光 園城寺
     多福寺→大宝寺 ?→法華宗
清光 清光寺 天台宗→曹洞宗
信義 願成寺 天台宗→臨済宗→曹洞宗
信光 信光寺 真言宗→曹洞宗
信政 - 信時 - 時綱 - 信宗 安芸守護の時代
信武 法泉寺 臨済宗 夢窓疎石(月舟周勲) 1330年(元徳二年)
信成 継統院?
信春 慈徳院 臨済宗 
信満 棲雲寺 臨済宗 業海本浄(中峰明本(幻住派祖)の弟子)
信重 成就院 臨済宗→浄土宗 円光寺に寺基を移す。
信守 能成寺 臨済宗 業海本浄
信昌 永昌院 曹洞宗 一華文英 1504年(永正元年)
信縄 恵雲院 曹洞宗
     聖徳寺 曹洞宗
信虎 大泉寺 曹洞宗 天桂禅長 1521年(大永元年)
晴信 大泉寺 曹洞宗
     恵林寺 臨済宗(妙心寺派)

 守護代跡部氏を駆逐して甲斐国に一応の体制を敷いた武田信昌が奉じたのは曹洞宗でした。能登国総持寺の峨山韶碩の流れを引く一華文英を招いて永昌寺を建立します。甲斐国にはすでに雲岫宗竜が広厳院を開創しており信昌はそこに寄進を施しておりました。その流れで永昌寺は信昌の菩提寺となります。信昌が引き起こした後継者争いは武田信虎が勝ちます。その過程で曹洞宗雲岫宗竜の門派は味方につけており、武田信虎は雲岫宗竜派の天桂禅長を開山に大泉寺を建立しました。臨済宗は応仁の乱で幕府奇行が崩壊した折に機能不全を起こしていた為、地方に強い曹洞宗が勢力を伸ばしたものと思われます。武田信虎は過去にさかのぼって武田氏の宗旨を曹洞宗に変えようとしますが、それを阻止するきっかけが南の駿河国で起こりました。
 花倉の乱です。

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