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2016年12月11日 (日)

中漠:林下編Ⅱ④今川家の宗旨報告書Ⅶ(太原崇孚・今川義元)

 以前の記事「飛騨国興亡」にて、三木直頼が禅昌寺を創建した折、都合よく一族の中から杲天宗恵という妙心寺で修行した僧が現れてここを任された話をいたしました。そしてその折十分な根拠も示さないまま、細川六郎(晴元)の意向である旨書かせていただきました。そのあたりがどんな事情だったか、今川氏のケースにおいて端的にでておりますので、事実関係を述べた後で考察してみたいと思います。

 今川氏親には六人の男児がおり、嫡男の氏輝と次男の彦五郎、それから末子で那古屋今川家に養子に行った氏豊以外は仏門に入っておりました。三男の玄広恵探と四男の象耳泉奘は真言律宗を修め、五男の方菊丸(栴岳承芳・義元)は禅宗でした。
 方菊丸には駿河国人である庵原氏出身の九英承菊が家庭教師としてついて、禅修行を行ったのですが、その行った先は駿河国善得寺です。1522年(大永二年)に二人は建仁寺に入り、1530年(享禄三年)に得度して承芳と名乗ります。この時十二歳です。その後三年間二人は上洛して建仁寺でしています。建仁寺の修行期間中に承芳は栴岳の号をもらって栴岳承芳となります。実はこの期間、京の街は戦乱に巻き込まれていたのですね。

 1530年(享禄三年)に京には将軍も管領もいませんでした。細川家が高国派と六郎(晴元)派に分裂して管領高国は京を追われて備前の浦上村宗のもとにおり、将軍の足利義晴は近江国朽木に逃れておりました。細川六郎(晴元)は阿波国で足利義澄の遺児義維を奉じて泉州堺に仮幕府を立てておりました。この時京を収めていた六郎(晴元)派の柳本賢治は播磨へ出陣して高国・浦上連合軍と対峙していましたが、暗殺されその軍団は撤退を余儀なくされました。その余勢をかって洛外に高国派の与党が砦を構え、洛中の六郎(晴元)派と戦闘に及んでおります。この直後に細川高国と浦上村宗は三好元長と戦って戦死することで洛中の脅威は一旦去るのですが、悪いことは重なります。その翌年に細川六郎(晴元)派として戦った本願寺門徒が暴走して堺仮幕府と抗争を始めます。堺幕府側は洛中法華宗徒に命じて洛中洛外の本願寺教団寺院の破却を命じて、京は阿鼻叫喚の巷に叩き落とされます。建仁寺は本願寺教団でも法華でもありませんが、普通に修行を続けられる環境ではなかったと思われます。

 1533年(天文二年)十二月までは栴岳承芳と九英承菊は駿河国にいたことは確認されています。そしてその後再び上洛して建仁寺に戻ったようです。洛中・洛外から本願寺教団寺院が一掃され、洛中の安寧が確保されたためでしょう。1533年(天文二年)に九英承菊と承芳は再上洛して建仁寺に入りますが、二年ほどして九英承菊は心変わりをして承芳とともに妙心寺の門を叩き、九英承菊は太原崇孚と名を改めたということになっています。太原崇孚は建仁寺での修行にあきたらないものを感じていたと言われてますが、実際彼が太原崇孚を名乗るのは1544年(天文十三年)になってからで、しかも一年余り後の1535年(天文四年)には駿河国に帰国していますので、妙心寺に入って応灯関流の厳しい修行をやりたかったから、という動機についてはやや首をかしげるところがあります。

 1535年(天文四年)に栴岳承芳らが帰国したのは、栴岳承芳が最初に入った駿府にある善得寺の師である琴溪承舜の七回忌に主席するためです。もともと高峰顕日の弟子の大勲天策が建てた天寧寺という寺号で関東管領上杉憲顕・能憲親子の帰依をうけていたのが、上杉禅秀の乱の結果、今川氏が管理する官寺になったものです。当然、この時点で同じ臨済宗とは言え妙心寺派とは関係のない寺でした。もし、九英承菊と栴岳承芳が妙心寺派に転宗したことを公にしていれば、七回忌の会合は出席しにくいものであったでしょう。琴溪承舜の七回忌を仕切ったのは建仁寺の常庵竜崇でした。彼は以前駿河滞在中に今川方菊丸に得度をした人物でもあります。

 この七回忌の後、栴岳承芳と九英承菊は京に戻らず駿河に在国し続けました。今川氏輝の命によって善得寺周辺の防備を命ぜられたようです。善得寺は城塞としての機能も持っていたらしく、今川の武将として栴岳承芳を起用しようとしたらしい。このあたりは庵原氏の勢力圏でもありました。今川氏輝は北条氏と同盟(と言うかもともと今川家と北条家は主従です)関係にあり、共同して甲斐国で勢力を伸ばしている守護の武田信虎と戦っておりました。武田氏との小競り合いはずっと続いており、必ずしも戦況ははかばかしくなかったようです。
 今川氏輝は栴岳承芳に東駿河の守りを任せて国政の充実をはかりますが、ここで今川家に一大事件が起こるのです。

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