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2016年12月17日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑤今川家の宗旨報告書Ⅷ(今川氏輝・今川心範)

 天文五年三月十七日の今川氏輝・彦五郎の死から花倉の乱が起こります。氏輝・彦五郎の死の原因については皆が謎としていますが、容疑者として最初に浮かんでくるのは最大の受益者である今川義元、太原崇孚、武田信虎であることは間違いがないでしょう。私は不勉強なのでこれを説として唱えた記事や論文を読んだことはありませんが、この時代を研究した人であれば、誰でも一度は考えることであろうかと思います。

 ことの経緯を時系列で述べれば1536年(天文五年)二月五日、今川氏輝は相模国小田原を訪問しました。歌会に参加という名目ですが、この月の二十六日に京において後奈良天皇が即位の礼を執り行っております。この時に儀式のスポンサーとなったのが今川氏輝と北条氏綱の両名でした。後奈良天皇については、践祚の翌年、桂川原合戦が起こって、敗北した管領細川高国と足利義晴が京を脱出、以後戦乱に次ぐ戦乱で本来スポンサーとなるべき将軍や管領が京にいないという異常事態がずっと続いていたわけでした。この前年、摂津の石山本願寺が室町幕府に降伏することによって長い騒乱に一応のピリオドが打たれ将軍・管領の帰還にもめどが立ち、苦しい台所事情ではあったものの待ちきれなくなった後奈良天皇が強行したのです。(但しこの直後に天文の法華の乱が起こって京の街は烏有に帰してしまうことになります)
 もちろんこの訪問には両者の同盟関係を強化し、対武田の作戦を練る意味もあったと思われます。武田信虎は息子晴信の嫁に上杉朝興の娘をもらっていて、扇谷上杉氏と連合を組んでおりました。扇谷上杉氏と対立していたのが北条家と言う関係です。もっとも、晴信の嫁は結婚の翌年、出産の折に亡くなっております。

 そして三月十七日、今川氏輝と彦五郎が死にます。前月には歌会訪問で隣国に出かけていたのですから、病気だったとも考えづらく、しかも彦五郎と同時の死です。この彦五郎という人物は実は正体が定かではありません。その存在がほぼこの事件にのみ、氏輝とペアでしか出てこない人物で、通説では今川氏輝の弟ということになっています。それは、甲斐国常在寺僧侶の手になる「妙法寺記」という記録に「駿河ノ屋形兄弟死去メサレ候」とあるからなのですね。ただ、今川家にとって彦五郎と言う名乗りは嫡男、すなわち後継者候補と同義であるにもかかわらず、ほとんど史料に出てこないのです。氏輝と彦五郎の父親である氏親が死んだ時の記録に「今川氏親公葬記」と言う記録が出てくるのですが、ここには氏輝と花蔵之御曹司としての玄広恵探と善得寺御曹司としての方菊丸(義元)しか出てこないのですね。寿桂尼が彼の死後に定源寺殿への寄進を行っていて、定源寺殿が彦五郎の諡号に比定できるので存在はしているようなのですが、謎の人物です。
 前稿にも書きましたが、今川家における彦五郎の名前の重さを考えるなら、氏親の次男というよりも、氏輝の長男と考えた方がよいというものがありました。大変説得力がある考え方だと思います。
 
 今川氏輝の死因ですが、浅羽系図という文書に「為氏輝入水、今川怨霊也」という記述があって溺死説とか、それに派生して入水自殺説やさらに氏輝が精神を病んでいた説なども出ているのですが、具体性に欠ける記述に基づく憶測の域を出ないと思います。そもそもの文書は「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」であり、普通に読んだら入水したのは氏輝ではなく、惣持院という人物であるようです。少なくとも彦五郎は氏輝の代理が出来ると判断される程度には壮健なのですから、これらの説は彦五郎が同じ日に死んだ理由と一緒に提示しないとだめなのではないでしょうか?

 だとすると、氏輝は急病死か暗殺、彦五郎は後継と目されていた為暗殺あたりが妥当でありましょう。氏輝と彦五郎が同時に死んだことにより後継者候補が二人名乗り出ます。玄広恵探と栴岳承芳です。玄広恵探は年長ではありましたが、生母は福島氏で正妻ではありませんでした。栴岳承芳は氏親の正妻寿桂尼を生母としていますが、彼が打ち出した政策はそれまでの今川家の外交を根本から変えるものでした。すなわち、北条ではなく、武田と結ぶ政策です。そもそも、栴岳承芳の父氏親は親族の小鹿範満によって乗っ取られかけていたものを細川勝元の後押しで派遣されてきた伊勢宗瑞(北条早雲)のおかげで相続できたのであり、以後も混迷を深める関東公方家・管領家の騒乱を一手に引き受けて今川家の安寧に貢献してきた一族です。それを考えるなら武田との提携などはあり得ないことでした。実母である寿桂尼にしても氏親・氏輝の代理として執政に参与していた立場上賛同しづらいものであったものと思われます。

 玄広恵探が蜂起、寿桂尼が戸惑う中、栴岳承芳は京に還御したばかりの将軍義晴に工作して還俗時の名乗りに将軍の名の一字拝領の内定をもらってしまいます。この場合、普通は「晴」の嫡流の通字ではないものをもらうのですが、将軍家の通字である「義」を拝領して義元と名乗ることになったのですね。しかもこれは三条西実隆を動かして実現したものでした。三条西実隆は寿桂尼の出身である中御門家(名家)よりも家格が高く(大臣家)、しかも細川高国とのつながりが深い人物です。この時点で細川高国は亡くなっていますが、高国が担いでいた足利義晴とのコネクションを活かしたものでしょう。
 寿桂尼はこれにはキレたようで、注書(重書)と呼ばれる重要文書をもって玄広恵探陣営に同心します。この行為については栴岳承派の寿桂尼が内戦にならずに済むように妥協案を持って行った所を玄広恵探に拉致監禁されたという解釈もありますが、多少強引な感じがします。結局、両軍が激突して勝ったのは栴岳承芳派でした。玄広恵探は今川館を攻略できず、本拠地の花倉城を岡部親綱が攻め落として決着となりました。寿桂尼が持ち出した注書は岡部親綱が奪還に成功しています。

 晴れて勝利した栴岳承芳は今川義元を名乗ります。その彼が最初にやったことは、兄であり先代今川家当主である氏輝の葬儀でした。それまでの今川家歴代は真言宗か曹洞宗で葬儀が行われてきたのですが、新当主である今川義元はそれを改めて、臨済宗で葬送することに決めます。彼が氏輝の為の菩提寺として選んだのは本拠地である駿府に所在する善得院でした。ここは彼が最初に修行を始めた善得寺の駿府出張所のような末寺ではありましたが、ここの寺号を丁寧にも「臨済」寺と改めてそこに亡兄を祀ったのでした。しかも、臨済寺の宗旨は建仁寺系ではなく、妙心寺の大休宗休を開山として迎え入れたのです。実質的には九英承菊(太原崇孚)が住持をつとめます。臨済寺は今川館のすぐ近くにあり、軍師としていつでも当主を補佐できるような体制となったわけです。彼らはつい直前には建仁寺の高僧を呼んで法要をやっていたわけで、花倉の乱以前にはあり得なかった大転換でした。

 氏輝入水説に出てきた浅羽本今川系図ですが、「惣持院、為氏輝入水、今川怨霊也」は読み下すと、惣持院は、氏輝の為に入水す。今川の怨霊也。となります。惣持院とは駿河浅間神社寺域内にある真言宗寺院だったのですが、明治期の廃仏毀釈で取り壊されております。惣持院は浅間神社別当の役職であり、氏輝の時代における惣持院は今川義元の叔父、今川心範のことを指すそうです。彼が氏輝の為に入水したとすれば、こうした強硬な改宗行動への抗議の自殺だったのかもしれません。そして彼が抱いた恨みは今川家の怨霊のように見えたのかもしれませんね。

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