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2017年1月29日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑩武田家の宗旨報告書Ⅳ(穴山流武田氏)

  穴山家は甲斐武田家の一門衆で、足利尊氏に従って軍功をあげた武田信武の子から始まるとされる一流です。尊氏に認められてそれまで甲斐守護だった石和流武田家から甲斐守護の座を取り戻し、甲斐に入府して以後は甲斐守護家を信武流で占めることになります。穴山家祖は信武の子であり嫡男信成の弟である義武からということになっていますが、このころは穴山氏を名乗ることもなく、義武は子をなしておらず、次代の満春も一家を立てたわけではありません。満春は宗家の信満が上杉禅秀の乱に関わって罰せられた折には、穴山満春(還俗して武田信元)が代理で守護を任じられたこともあったりしますので、宗家当主の弟として、当主に万一があった場合の代役としての位置づけでありました。
 家名の穴山がある甲斐国の河内地方は南北朝時代までは南朝方の南部氏が治めておりました。南部氏といえば、日蓮のために身延山久遠寺をあてがった南部実長が属した一族であり、河内地方は日蓮の宗廟の所在地でもありました。満春の後に当主の弟のポジションについたのが、信介で彼が河内地方の旧南部領をあてがわれ、穴山を根拠地としたのが穴山氏としての実質的なスタートでした。
 河内地方は北に武田宗家、南に今川家に挟まれた位置にあり、内訌を続ける宗家と力を蓄えてゆく今川家に挟まれていたために、弱体化する武田宗家の一門衆として独立性を獲得するに至ります。そればかりか宗家の内訌にも積極的に加担しております。例えば、武田信重は穴山家の一族衆に暗殺されており、穴山信懸は武田信縄と油川信恵の抗争において、信縄方につくとともに伊勢宗瑞とも繋がっておりました。それが息子の清五郎に暗殺され穴山家も混乱するわけですが、同じく信懸の子、信綱は清五郎を討って今川方につきました。それを信虎に攻められて以後、宗家に従属するわけですが、清五郎は信懸の子と伝えられているにもかかわらず、穴山の系図から除かれることになっております。宗家の武田信虎は穴山家を取り込むために嫡男信友に信虎の娘南松院をあてがいました。晴信の姉に当たります。
 今川氏輝の頃は北条家と組んで武田家と対立している状況でありましたが、これが花蔵の乱によって今川義元が今川家家督を継ぐと、武田家に接近します。穴山家は甲駿同盟に積極的な支持をしておりました。

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 以上の流れを鑑みた上で、穴山氏歴代の菩提寺を調べてみました。但し、信介以前は調べがついておりません。信懸は甲斐国河内地方の独立勢力として宗家の武田信虎に対抗しておりましたが、息子とされる清五郎に暗殺されております。その菩提寺が建忠寺といいます。後に信虎の娘(晴信の姉)の菩提寺の末寺として臨済宗妙心寺派になりますが、元々の宗旨は把握できていません。信虎が曹洞宗に帰依しておりましたので、その信虎と共同歩調をとった穴山信綱の菩提寺も曹洞宗となります。とはいえ、この頃の信懸も信綱も今川家と武田家との間で表裏比興をやっていたわけで、結果として信綱の菩提寺が信虎と同じ曹洞宗になっているものの、彼自身が帰依していたかどうかの確証はありません。今川義元と武田信虎が同盟を結んだ時の穴山氏の当主が信友で、彼も今川義元、武田晴信に倣って妙心寺派臨済宗に帰依し、生前である天文年間に自らの菩提寺とする円蔵院を建立しました。穴山信君は今川義元の死後に今川領駿河江尻を領し、晩年に江尻に霊泉寺を建立し、梅雪斎と号しました。開山は速伝宗販です。

信懸  1513年(永正十 年) 建忠寺 ?⇒臨済宗妙心寺派南松院末
信綱  1531年(享禄 四年) 竜雲寺 曹洞宗
信友  1560年(永禄 三年) 円蔵院 臨済宗妙心寺派
信君  1582年(天正十 年) 霊泉寺 臨済宗妙心寺派
                   満福寺 曹洞宗

南松院 1566年(永禄 九年?) 南松院 臨済宗妙心寺派

 明叔慶浚が恵林寺を再興というか、妙心寺派の拠点として以来、妙心寺派それも悟渓宗頓を祖とする東海派の僧侶たちがこぞって武田家に入って寺社を整備してゆきました。武田晴信が付き合った妙心寺派の高僧は明叔慶浚、希菴玄密、鳳栖玄梁、岐秀元伯、快川紹喜、天桂玄長と有名どころをいれただけでざっと六名になります。そしてともに妙心寺派のネットワークに属する今川義元と武田晴信がそれぞれ三河・尾張と信濃の征服に動き出すわけでした。

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2017年1月22日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑨武田家の宗旨報告書Ⅲ(武田晴信)

 前稿に記した通り転法輪三条公頼を中心とした姻族連合に、本願寺が加わります。転法輪三条公頼の三女が細川晴元の養女として法主証如の嫡男顕如と結婚するわけです。これは1544年(天文十三年)に発表されましたが、双方まだ若年のため、婚約という形とし、実際に輿入れするのは1557年(弘治三年)の事になります。細川高国の没落によって空いた大きな権力の空白を埋めるために、自前の勢力を持たない細川晴元が行なったのは婚姻政策であったと考えてよいでしょう。
 
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 河東の乱は北条氏綱によって今川領が一方的に占拠された状況が続いていました。北条氏綱は伊勢宗瑞の為に早雲寺という大徳寺系の寺院を菩提寺としておりました。そして、今川義元はそれまで曹洞宗で固めていた今川家を妙心寺系臨済宗に塗り替えてしまいます。言うなれば、河東一乱は大徳寺と妙心寺との争いという側面を持っているとも言えなくはありません。

 今川義元は先に触れた通り、兄今川氏輝を善得院改め臨済寺に葬り、大休宗休を開山とする妙心寺派の寺として二世住持に太原崇孚を据えました。そればかりではなく、臨済寺の寺域を広げてその中に今林寺、宝処寺、長保寺を建立してそこに今川範政、範忠、義忠ら歴代今川当主の菩提寺として彼らの霊を祀ったのです。今川義元はガチで家の宗旨を変えたわけですが、それは単に今川家一家にとどまりませんでした。宗旨革命は今川家の同盟者である武田家にも及ぶのです。
 
 前稿でもふれました1541年(天文十年)の武田信虎の追放ですが、信虎本人は重圧の大きい甲斐国主の座から解放され、自ら望んでセカンドライフに足を踏み入れたと私は見ております。残された甲斐には若き武田晴信が甲斐国主を継ぐわけですが、それとタイミングを同じくして飛騨国から甲斐へ渡り移った僧がおりました。臨済宗妙心寺派の僧、明叔慶浚と鳳栖玄梁です。彼らはここに来るまでに三木氏頼の外護を受け禅昌寺を経営しておりました。禅昌寺僧は三木氏頼の為に間者働きをするなどの活躍をしたとも言われております。三木氏頼本人も十人並みの戦国大名ではなく、内ヶ島氏とつるんで美濃へ侵攻したり、地元の貴族姉小路家を乗っ取って息子良頼を当主に付けたりと型破りなことをやっていた人物です。朝廷もこれには流石に鼻白みましたが、それを実力と政治力で押し切りました。
 甲斐にやってきたのはその政治力の一部を受け持ったグループであるわけです。
 明叔慶浚が入ったのは恵林寺でした。恵林寺は鎌倉時代に二階堂道蘊の勧請で夢窓疎石が開山し、後に絶海中津、龍湫周沢ら五山派の大物たちが歴代住持を務めた由緒ある名刹です。夢窓疎石も甲斐国出身であり、その意味で五山派が健在である限りは没落リスクの低い寺院ではないかと思われます。甲斐国や武田氏は応仁の乱には直接関係しているわけでもなく、応仁の乱が勃発する直前に当主の武田信昌は守護代として実権を握っていた跡部氏を粛清して勢力固めをしている時期ではありました。永正初年には武田信昌が恵林寺から十キロも離れていない山梨郡矢坪に曹洞宗の永昌院を開基し、死後は菩提寺として葬られましたのでそれまでには近辺の治安は確保されていたものと思われます。それが晴信の代になるまで荒れたまま放置されていたとすれば、近隣に外護するパトロンがいなくなったためとしか考えられません。以前の稿にて記載した通り、甲斐武田宗家に夢窓疎石の流れを汲む五山派との接点はありませんでしたので、恵林寺の価値を知り、これを自らの宗派の活動拠点にしようと考えたのは、妙心寺派臨済宗の明叔慶浚であったことでしょう。
 
 なぜわざわざ飛騨国にいた明叔慶浚が甲斐・駿河に乗り込んでいったのか。考察するに三つの国にある共通点があったためではないでしょうか?それは即ち金鉱があったことではないかと私は考えております。即ち、飛騨には帰雲山に、甲斐には黒川に駿河には安倍に金山が存在します。あくまで想像ですが、明応年間に東海地方を襲った大地震とそれに伴う大津波にあって尚、今川家が勢力を保持して三河まで侵攻が可能であったのは産出する金による財力の賜物であったのではなかったでしょうか。飛騨で明叔慶浚を外護していた三木直頼の支配領域に金山があったかどうか、確認は取れていませんが、この頃、金山のある帰雲山を領する内ヶ島氏や銅を産出する神岡鉱山を領する江馬氏と三木直頼は良好な関係を維持しておりました。黒川金山での金の採掘が本格化したのは武田晴信の代になってからのことです。甲斐国はもともと地味が悪い為に農業生産力の低い土地であり、金山開発による資金は信玄堤などの治水事業を起こし、さらには信濃進出の原動力にもなったことでしょう。
 
 実際の所、明叔慶浚が鉱山開発に何らかの貢献をした等の話は想像の域を出てはいないのですが、甲斐恵林寺に住して間もなく、駿河の臨済寺に移り、その臨済寺を太原崇孚に譲って後、恵林寺と臨済寺は妙心寺派臨済宗を宗旨とした武田晴信と今川義元をパトロンとした大寺院として再生してゆくわけです。武田・今川家の勢力拡大と妙心寺派との関連は今後より深く考えられてゆくべきなのではないかと思います。
 
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2017年1月15日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑧武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)

 武田信虎が甲斐国主の座を追われた理由は私には判じかねます。武田信虎は有能な軍略家で不安定な甲斐国を実力で統一しました。その過程で色々恨みを買っていたと言うことはあったかとは思います。但し、武田信虎暴君説の論拠の多くは根拠のないものらしい。存外、信虎は権力にはあまり執着しないさばさばした人格であったのではないでしょうか?
 1541年(天文十年)、今川義元に嫁いだ娘に会うために駿河国に赴いた武田信虎は帰路の道を板垣信方・甘利虎泰ら武田家の重臣たちに塞がれて甲斐国に帰国できなくなりました。武田晴信を担いだクーデターということなのですが、信虎がこれに抵抗したという形跡が感じられないのですね。彼は二年ほど駿河に留まった後、上京して畿内漫遊の旅をしております。
 実は、このクーデター勃発の翌月に相模では北条氏綱が病死しております。恐らく彼が長くないという情報は甲斐国にも入っていたのではないでしょうか。武田信虎にとって北条氏綱はよい好敵手でした。関東の内乱に乗じて信虎は小弓公方や山内・扇谷上杉と同盟して北条家を攻めておりましたが、氏綱はその才幹でその悉くを退けております。信虎と同盟を結んだ今川家も北条氏綱に駿河国河東一帯を占領される始末です。ことほどかように北条氏綱は甲斐国主武田信虎にとって脅威ではありましたが、彼が病床に伏したことを聞き及んで一時代の終わりを悟ったのかもしれません。

 武田信虎は京の足利義晴の側近とも接触を図っております。1526年(大永六年)には諏訪家との抗争の最中に足利義晴から和睦の勧告と一緒に上洛の打診も受けておりました。北条氏綱が死ねば甲斐国は今川家との同盟もあるので息子晴信に任せても安泰であり、自らのセカンドライフの選択として以前足利義晴から勧められていた上洛を果たしたいと願ったのではないでしょうか? 但し、甲斐国の地政学的位置からして上洛軍を仕立てて京にたどり着くことは無謀です。それと似たことを先に北条早雲こと伊勢宗瑞と今川氏親が試してみましたが、三河で松平長親に止められて、尾張国に到達することもできませんでした。
 現実解として、赤澤宗益のように兵を率いずに単身で上洛するしかありませんでしたが、それをするには武田信虎の名前はビッグネームになりすぎておりました。何しろ混沌とした甲斐一国を統一したばかりではなく、武名を関東と信濃にまで轟かせていたのです、徒手での上洛は京での活動に支障をきたすでしょう。

 それに権謀術数渦巻く京の地に足を踏み入れるに当たり、どこに落とし穴が掘られているかもわかりません。京に活動の拠点を置くにせよ、その選択肢を間違えれば自分が築き上げてきた甲斐国にもその累が及ぶことになります。それも避けるとなれば、クーデターで国を追われた一介の素浪人という筋書きをつけておけば、先方も諦めてくれると判断されたのではないでしょうか。クーデター後から上洛までの間に信虎は出家し、無人斎道有と名乗っております。宗旨は息子と婿、武田晴信と今川義元が奉じた妙心寺派臨済宗ではなく、道元・峨山韶碩の法脈につながる雲軸派曹洞宗のもので、彼自身の菩提寺は大泉寺にあります。

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 上洛前の滞在先として今川家はふさわしいものでした。今川義元と太原崇孚は在京経験者でありましたし、彼の母親の寿桂尼も京の公家出身者でありました。彼らが駿府に移植した京文化は上洛しても田舎者と侮られない程度の基礎知識をつけるにはうってつけでありましたでしょう。1543年(天文十二年)に準備をしっかり整えて上洛を敢行しますが、京の状況は細川政元の時代と比べるべくもありませんでした。細川晴元は足利義晴を御しきることができず、自前の兵も持っておらず、遊佐や三好が木澤を討ち取るのも傍観するくらいに弱体で、微妙なバランスの中で政権維持をすることに汲々としている状況でした。なので、幕臣として奉公しても使い潰されてしまうというオチが最初から見えておりました。細川晴元は転法輪三条家を通じて息子と姻族関係を結んでおりましたが、あまりこれを助ける気にはなれなかったと思われます。この時の上洛はわずか二か月あまりで切り上げられました。
 ただし、この旅にはもう一つ目的があって、本願寺証如と面会しております。この翌年、証如の嫡男(後の顕如)が転法輪三条家出身の娘と婚約することになります。どうも息子の嫁の親族が嫁いだ先の顔を見たかったもようなのですね。
 実は武田信虎にはそういうせっかちな側面があり、細川晴元政権崩壊後に改めて上洛し、晴れて彼は足利義輝の奉公衆に収まるのですが、後に設けた自分の娘を京の公家菊亭晴季に嫁がせることになったのですが、この嫁入り前にこの舅殿が婿の家に押しかけるということをやらかします。この情景は京童によって以下のように落首で揶揄されました。

 むこいりをまだせぬ先の舅入りきくていよりはたけた入道

 こういう御茶目な人物ではありますが、追放されたからと言って武田家や今川家の監視下に隷従させられたというわけでもなく、自由な政治活動にいそしむことが出来ております。これはむしろ自らの能力を領国統治ではなく、息子や娘婿の走狗として活動することに生きがいを感じていたと思われます。実際その夢はかなり良い所まで実現するのですが、長生きをし過ぎた結果、娘婿と息子の夢が破れる様を見てしまうこととなります。

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2017年1月 7日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑦甲駿同盟

 花倉の乱における栴岳承芳派の動きは極めてスピーディで、氏輝の死から二ヶ月も過ぎないうちに室町殿から偏諱を拝領しています。しかも許可を得た時点では玄広恵探という対抗馬が武装蜂起している状況でした。玄広恵探がその間に栴岳承芳を攻め殺していた可能性もあったのですから、幕府にとってもギャンブルであったに違いありません。というか、足利義晴には回答を引き延ばして勝者が決まるまで待つという選択肢もあったはずです。

 この時期、畿内においては、本願寺を実質的に率いる蓮淳が青蓮院門跡を仲介に細川晴元に降伏、ちなみに足利義晴は細川六郎に偏諱を与えて晴元と名乗らせています。将軍義晴、管領細川晴元体制が着々とできつつあったのですが、その最後の仕上げとして、洛中に自治組織を形成していた洛中法華衆を延暦寺と六角定頼に排除させているところでした。洛中は戦火に包まれて応仁の乱以上の被害を出したといいます。

 その同じ月に武田信虎の嫡男勝千代が元服して足利義晴から偏諱を賜り晴信と名乗ります。それと同時に転法院三条公頼の娘と結婚するのです。そして、この翌年同じく転法院三条公頼の娘が細川晴元に嫁ぎます。この娘は武田へ輿入れした三条の方の姉にあたり、結婚する直前に六角定頼の猶子となっていました。つまり、転法輪三条家が中心となって細川右京兆家、六角家、今川家、武田家が血縁に基づく同盟関係を構築したということです。
 これは驚異的なスピードで進められたことで、細川晴元が帰洛するにあたり、新体制のグランドデザインを考えた上でのことなのでしょう。転法院三条家と妙心寺を通じて今川、武田両家は幕府・朝廷と密接な関係を持つに至ったわけです。

 この動きを小田原の北条氏綱の目から見れば、クーデターのように見えたことでしょう。後北条氏は今川家の部将として伊豆・相模から南関東に進出しようとしていましたが、それを妨害していたのが甲斐の武田信虎です。ついこの間今川氏輝と武田対策の為の直接会談を行ったところが、氏輝が急死してその後継の義元が武田信虎と同盟を結び、その背後には細川晴元までがいるということになります。後北条家の南関東における勢力の急伸は古河公方を始めとする関東諸勢力の警戒の的になっておりました。それを支えていたのが主筋である今川家であったのですが、それがあろうことか敵対する武田家と同盟を結んでしまったことで今川家と後北条家との関係は破たんするに至ります。

 1537年(天文六年)二月下旬、今川氏綱は軍を率いて駿河国河東地域に進出、富士川以東を占拠します。河東地域には太原崇孚の本貫地である庵原郡も含まれていますので、報復といってよいでしょう。周囲を敵に囲まれているとはいえ、後北条家の結束は強く、軍事力も旺盛であったわけです。さらに、娘婿である遠江の堀越貞基とその子氏延を味方に引き入れ、今川家を逆包囲する格好になってしまいます。堀越氏は今川了俊直系の子孫で、遠江国が斯波家に守護を任されていた時代も有力な親今川家の在地勢力であり続けました。それが氏親の代で遠江国は今川家に奪還されて、今川領の西の最前線に立っていたわけです。花倉の乱においては花倉殿派に属していたようですが、後北条氏の後押しで今川家と対立するに至りました。この間、今川義元は西三河の領国を追放された(もしくは亡命した)松平仙千代(広忠)を保護し、岡崎城主復帰の為の援助をしていますが、その手段が今川軍の派遣といった軍事的手段ではなかったことはこの情勢を見れば推測できるかと思います。

 そもそも、甲駿同盟は畿内の細川晴元が体制を固める為に転法輪三条家と妙心寺を使って今川家と武田家を巻き込んで強行されたもので、色々な無理がありました。その同盟を機能させる為にテコ入れが行われることになります。

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