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2017年1月15日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑧武田家の宗旨報告書Ⅱ(武田信虎)

 武田信虎が甲斐国主の座を追われた理由は私には判じかねます。武田信虎は有能な軍略家で不安定な甲斐国を実力で統一しました。その過程で色々恨みを買っていたと言うことはあったかとは思います。但し、武田信虎暴君説の論拠の多くは根拠のないものらしい。存外、信虎は権力にはあまり執着しないさばさばした人格であったのではないでしょうか?
 1541年(天文十年)、今川義元に嫁いだ娘に会うために駿河国に赴いた武田信虎は帰路の道を板垣信方・甘利虎泰ら武田家の重臣たちに塞がれて甲斐国に帰国できなくなりました。武田晴信を担いだクーデターということなのですが、信虎がこれに抵抗したという形跡が感じられないのですね。彼は二年ほど駿河に留まった後、上京して畿内漫遊の旅をしております。
 実は、このクーデター勃発の翌月に相模では北条氏綱が病死しております。恐らく彼が長くないという情報は甲斐国にも入っていたのではないでしょうか。武田信虎にとって北条氏綱はよい好敵手でした。関東の内乱に乗じて信虎は小弓公方や山内・扇谷上杉と同盟して北条家を攻めておりましたが、氏綱はその才幹でその悉くを退けております。信虎と同盟を結んだ今川家も北条氏綱に駿河国河東一帯を占領される始末です。ことほどかように北条氏綱は甲斐国主武田信虎にとって脅威ではありましたが、彼が病床に伏したことを聞き及んで一時代の終わりを悟ったのかもしれません。

 武田信虎は京の足利義晴の側近とも接触を図っております。1526年(大永六年)には諏訪家との抗争の最中に足利義晴から和睦の勧告と一緒に上洛の打診も受けておりました。北条氏綱が死ねば甲斐国は今川家との同盟もあるので息子晴信に任せても安泰であり、自らのセカンドライフの選択として以前足利義晴から勧められていた上洛を果たしたいと願ったのではないでしょうか? 但し、甲斐国の地政学的位置からして上洛軍を仕立てて京にたどり着くことは無謀です。それと似たことを先に北条早雲こと伊勢宗瑞と今川氏親が試してみましたが、三河で松平長親に止められて、尾張国に到達することもできませんでした。
 現実解として、赤澤宗益のように兵を率いずに単身で上洛するしかありませんでしたが、それをするには武田信虎の名前はビッグネームになりすぎておりました。何しろ混沌とした甲斐一国を統一したばかりではなく、武名を関東と信濃にまで轟かせていたのです、徒手での上洛は京での活動に支障をきたすでしょう。

 それに権謀術数渦巻く京の地に足を踏み入れるに当たり、どこに落とし穴が掘られているかもわかりません。京に活動の拠点を置くにせよ、その選択肢を間違えれば自分が築き上げてきた甲斐国にもその累が及ぶことになります。それも避けるとなれば、クーデターで国を追われた一介の素浪人という筋書きをつけておけば、先方も諦めてくれると判断されたのではないでしょうか。クーデター後から上洛までの間に信虎は出家し、無人斎道有と名乗っております。宗旨は息子と婿、武田晴信と今川義元が奉じた妙心寺派臨済宗ではなく、道元・峨山韶碩の法脈につながる雲軸派曹洞宗のもので、彼自身の菩提寺は大泉寺にあります。

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 上洛前の滞在先として今川家はふさわしいものでした。今川義元と太原崇孚は在京経験者でありましたし、彼の母親の寿桂尼も京の公家出身者でありました。彼らが駿府に移植した京文化は上洛しても田舎者と侮られない程度の基礎知識をつけるにはうってつけでありましたでしょう。1543年(天文十二年)に準備をしっかり整えて上洛を敢行しますが、京の状況は細川政元の時代と比べるべくもありませんでした。細川晴元は足利義晴を御しきることができず、自前の兵も持っておらず、遊佐や三好が木澤を討ち取るのも傍観するくらいに弱体で、微妙なバランスの中で政権維持をすることに汲々としている状況でした。なので、幕臣として奉公しても使い潰されてしまうというオチが最初から見えておりました。細川晴元は転法輪三条家を通じて息子と姻族関係を結んでおりましたが、あまりこれを助ける気にはなれなかったと思われます。この時の上洛はわずか二か月あまりで切り上げられました。
 ただし、この旅にはもう一つ目的があって、本願寺証如と面会しております。この翌年、証如の嫡男(後の顕如)が転法輪三条家出身の娘と婚約することになります。どうも息子の嫁の親族が嫁いだ先の顔を見たかったもようなのですね。
 実は武田信虎にはそういうせっかちな側面があり、細川晴元政権崩壊後に改めて上洛し、晴れて彼は足利義輝の奉公衆に収まるのですが、後に設けた自分の娘を京の公家菊亭晴季に嫁がせることになったのですが、この嫁入り前にこの舅殿が婿の家に押しかけるということをやらかします。この情景は京童によって以下のように落首で揶揄されました。

 むこいりをまだせぬ先の舅入りきくていよりはたけた入道

 こういう御茶目な人物ではありますが、追放されたからと言って武田家や今川家の監視下に隷従させられたというわけでもなく、自由な政治活動にいそしむことが出来ております。これはむしろ自らの能力を領国統治ではなく、息子や娘婿の走狗として活動することに生きがいを感じていたと思われます。実際その夢はかなり良い所まで実現するのですが、長生きをし過ぎた結果、娘婿と息子の夢が破れる様を見てしまうこととなります。

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