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2017年1月22日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑨武田家の宗旨報告書Ⅲ(武田晴信)

 前稿に記した通り転法輪三条公頼を中心とした姻族連合に、本願寺が加わります。転法輪三条公頼の三女が細川晴元の養女として法主証如の嫡男顕如と結婚するわけです。これは1544年(天文十三年)に発表されましたが、双方まだ若年のため、婚約という形とし、実際に輿入れするのは1557年(弘治三年)の事になります。細川高国の没落によって空いた大きな権力の空白を埋めるために、自前の勢力を持たない細川晴元が行なったのは婚姻政策であったと考えてよいでしょう。
 
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 河東の乱は北条氏綱によって今川領が一方的に占拠された状況が続いていました。北条氏綱は伊勢宗瑞の為に早雲寺という大徳寺系の寺院を菩提寺としておりました。そして、今川義元はそれまで曹洞宗で固めていた今川家を妙心寺系臨済宗に塗り替えてしまいます。言うなれば、河東一乱は大徳寺と妙心寺との争いという側面を持っているとも言えなくはありません。

 今川義元は先に触れた通り、兄今川氏輝を善得院改め臨済寺に葬り、大休宗休を開山とする妙心寺派の寺として二世住持に太原崇孚を据えました。そればかりではなく、臨済寺の寺域を広げてその中に今林寺、宝処寺、長保寺を建立してそこに今川範政、範忠、義忠ら歴代今川当主の菩提寺として彼らの霊を祀ったのです。今川義元はガチで家の宗旨を変えたわけですが、それは単に今川家一家にとどまりませんでした。宗旨革命は今川家の同盟者である武田家にも及ぶのです。
 
 前稿でもふれました1541年(天文十年)の武田信虎の追放ですが、信虎本人は重圧の大きい甲斐国主の座から解放され、自ら望んでセカンドライフに足を踏み入れたと私は見ております。残された甲斐には若き武田晴信が甲斐国主を継ぐわけですが、それとタイミングを同じくして飛騨国から甲斐へ渡り移った僧がおりました。臨済宗妙心寺派の僧、明叔慶浚と鳳栖玄梁です。彼らはここに来るまでに三木氏頼の外護を受け禅昌寺を経営しておりました。禅昌寺僧は三木氏頼の為に間者働きをするなどの活躍をしたとも言われております。三木氏頼本人も十人並みの戦国大名ではなく、内ヶ島氏とつるんで美濃へ侵攻したり、地元の貴族姉小路家を乗っ取って息子良頼を当主に付けたりと型破りなことをやっていた人物です。朝廷もこれには流石に鼻白みましたが、それを実力と政治力で押し切りました。
 甲斐にやってきたのはその政治力の一部を受け持ったグループであるわけです。
 明叔慶浚が入ったのは恵林寺でした。恵林寺は鎌倉時代に二階堂道蘊の勧請で夢窓疎石が開山し、後に絶海中津、龍湫周沢ら五山派の大物たちが歴代住持を務めた由緒ある名刹です。夢窓疎石も甲斐国出身であり、その意味で五山派が健在である限りは没落リスクの低い寺院ではないかと思われます。甲斐国や武田氏は応仁の乱には直接関係しているわけでもなく、応仁の乱が勃発する直前に当主の武田信昌は守護代として実権を握っていた跡部氏を粛清して勢力固めをしている時期ではありました。永正初年には武田信昌が恵林寺から十キロも離れていない山梨郡矢坪に曹洞宗の永昌院を開基し、死後は菩提寺として葬られましたのでそれまでには近辺の治安は確保されていたものと思われます。それが晴信の代になるまで荒れたまま放置されていたとすれば、近隣に外護するパトロンがいなくなったためとしか考えられません。以前の稿にて記載した通り、甲斐武田宗家に夢窓疎石の流れを汲む五山派との接点はありませんでしたので、恵林寺の価値を知り、これを自らの宗派の活動拠点にしようと考えたのは、妙心寺派臨済宗の明叔慶浚であったことでしょう。
 
 なぜわざわざ飛騨国にいた明叔慶浚が甲斐・駿河に乗り込んでいったのか。考察するに三つの国にある共通点があったためではないでしょうか?それは即ち金鉱があったことではないかと私は考えております。即ち、飛騨には帰雲山に、甲斐には黒川に駿河には安倍に金山が存在します。あくまで想像ですが、明応年間に東海地方を襲った大地震とそれに伴う大津波にあって尚、今川家が勢力を保持して三河まで侵攻が可能であったのは産出する金による財力の賜物であったのではなかったでしょうか。飛騨で明叔慶浚を外護していた三木直頼の支配領域に金山があったかどうか、確認は取れていませんが、この頃、金山のある帰雲山を領する内ヶ島氏や銅を産出する神岡鉱山を領する江馬氏と三木直頼は良好な関係を維持しておりました。黒川金山での金の採掘が本格化したのは武田晴信の代になってからのことです。甲斐国はもともと地味が悪い為に農業生産力の低い土地であり、金山開発による資金は信玄堤などの治水事業を起こし、さらには信濃進出の原動力にもなったことでしょう。
 
 実際の所、明叔慶浚が鉱山開発に何らかの貢献をした等の話は想像の域を出てはいないのですが、甲斐恵林寺に住して間もなく、駿河の臨済寺に移り、その臨済寺を太原崇孚に譲って後、恵林寺と臨済寺は妙心寺派臨済宗を宗旨とした武田晴信と今川義元をパトロンとした大寺院として再生してゆくわけです。武田・今川家の勢力拡大と妙心寺派との関連は今後より深く考えられてゆくべきなのではないかと思います。
 
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