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2017年1月 7日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑦甲駿同盟

 花倉の乱における栴岳承芳派の動きは極めてスピーディで、氏輝の死から二ヶ月も過ぎないうちに室町殿から偏諱を拝領しています。しかも許可を得た時点では玄広恵探という対抗馬が武装蜂起している状況でした。玄広恵探がその間に栴岳承芳を攻め殺していた可能性もあったのですから、幕府にとってもギャンブルであったに違いありません。というか、足利義晴には回答を引き延ばして勝者が決まるまで待つという選択肢もあったはずです。

 この時期、畿内においては、本願寺を実質的に率いる蓮淳が青蓮院門跡を仲介に細川晴元に降伏、ちなみに足利義晴は細川六郎に偏諱を与えて晴元と名乗らせています。将軍義晴、管領細川晴元体制が着々とできつつあったのですが、その最後の仕上げとして、洛中に自治組織を形成していた洛中法華衆を延暦寺と六角定頼に排除させているところでした。洛中は戦火に包まれて応仁の乱以上の被害を出したといいます。

 その同じ月に武田信虎の嫡男勝千代が元服して足利義晴から偏諱を賜り晴信と名乗ります。それと同時に転法院三条公頼の娘と結婚するのです。そして、この翌年同じく転法院三条公頼の娘が細川晴元に嫁ぎます。この娘は武田へ輿入れした三条の方の姉にあたり、結婚する直前に六角定頼の猶子となっていました。つまり、転法輪三条家が中心となって細川右京兆家、六角家、今川家、武田家が血縁に基づく同盟関係を構築したということです。
 これは驚異的なスピードで進められたことで、細川晴元が帰洛するにあたり、新体制のグランドデザインを考えた上でのことなのでしょう。転法院三条家と妙心寺を通じて今川、武田両家は幕府・朝廷と密接な関係を持つに至ったわけです。

 この動きを小田原の北条氏綱の目から見れば、クーデターのように見えたことでしょう。後北条氏は今川家の部将として伊豆・相模から南関東に進出しようとしていましたが、それを妨害していたのが甲斐の武田信虎です。ついこの間今川氏輝と武田対策の為の直接会談を行ったところが、氏輝が急死してその後継の義元が武田信虎と同盟を結び、その背後には細川晴元までがいるということになります。後北条家の南関東における勢力の急伸は古河公方を始めとする関東諸勢力の警戒の的になっておりました。それを支えていたのが主筋である今川家であったのですが、それがあろうことか敵対する武田家と同盟を結んでしまったことで今川家と後北条家との関係は破たんするに至ります。

 1537年(天文六年)二月下旬、今川氏綱は軍を率いて駿河国河東地域に進出、富士川以東を占拠します。河東地域には太原崇孚の本貫地である庵原郡も含まれていますので、報復といってよいでしょう。周囲を敵に囲まれているとはいえ、後北条家の結束は強く、軍事力も旺盛であったわけです。さらに、娘婿である遠江の堀越貞基とその子氏延を味方に引き入れ、今川家を逆包囲する格好になってしまいます。堀越氏は今川了俊直系の子孫で、遠江国が斯波家に守護を任されていた時代も有力な親今川家の在地勢力であり続けました。それが氏親の代で遠江国は今川家に奪還されて、今川領の西の最前線に立っていたわけです。花倉の乱においては花倉殿派に属していたようですが、後北条氏の後押しで今川家と対立するに至りました。この間、今川義元は西三河の領国を追放された(もしくは亡命した)松平仙千代(広忠)を保護し、岡崎城主復帰の為の援助をしていますが、その手段が今川軍の派遣といった軍事的手段ではなかったことはこの情勢を見れば推測できるかと思います。

 そもそも、甲駿同盟は畿内の細川晴元が体制を固める為に転法輪三条家と妙心寺を使って今川家と武田家を巻き込んで強行されたもので、色々な無理がありました。その同盟を機能させる為にテコ入れが行われることになります。

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