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2017年2月26日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略

 今まで述べてきたとおり、妙心寺は独立後に着々と戦国大名をパトロンにつけて地盤を固め、ついには今川・武田二大勢力の政治顧問を自派から輩出するようになります。その様なことをせざるを得ないのも、ひとえに両細川の乱によってかつて妙心寺の後ろ盾になっていてくれた細川家が疲弊して、天下に号令する力を失ってしまったからでした。

 もう一方の林下の巨頭、大徳寺派臨済宗の活動方針は概ね妙心寺に似た感じでした。戦国大名に取り入って地元に寺院を建てたり、本寺の敷地に塔頭を作ったりして、ゆくゆくは政治顧問的な役割を担おうか、と言った感じです。妙心寺のやり方と比較すると、比較的負担をかけないやり方でした。
 大徳寺がアプローチをかけたのは、伊勢亀山国人領主の関氏、豊後の大友氏、能登畠山氏そして三好氏です。軽く触れておきますと、関盛衡には大徳寺内に塔頭正受院、豊後の大友義鎮には同じく塔頭瑞峯院を建立しております。ただし、大友氏に関しては若干考察を加えなければならないことがありまして、瑞峯院の創建は1535年(天文四年)だったりします。この時、開基であるはずの大友義鎮は六歳児でしかありません。元服すらもしておらず塩法師丸と呼ばれていた頃でした。大友義鎮が宗麟という大徳寺派風の法号を名乗るのは、これよりずっと下って1563年(永禄六年)、三十七歳になってからです。よって、これは寺伝によくある何らかの意図をもった改変でありましょう。
 
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 そのあたりの事情を考察するために、この頃の大徳寺の状況を素描しますと、大徳寺の歴代住持たちによる本寺内に塔頭寺院建立は、法流の派閥化にもなっているのですね。陽峯宗韶の龍泉庵に始まって、東溪宗牧の龍源院、古嶽宗亘の大仙院などが作られたのですが、そこに自らの直弟子たちを住まわせてそこから大徳寺住持候補を出すようになったわけです。すなわち、臨済宗大徳寺派の中に派中派を作ったようなもので、それぞれ塔頭寺院の名をとって龍泉派、龍源派(南派)、大仙派(北派)とよばれました。これに一休宗純の弟子たちの拠点となっていた非主流の塔頭寺院真珠庵の系統(真珠派)を加えて大徳寺四派とも総称されております。ではなぜ派中派などを作るようにしたのかと言えば、おそらくは二度と関山派等、彼らにとっての外部勢力に住持職をとらせないようにするためであろうと思います。
 細川政元が斃れ、両細川の乱に突入することで幕府管領の力は衰え、それと機を一にして妙心寺は大徳寺とは別の寺院として独立し、当面の危機は脱したものの、幕府が秩序を回復すればいつまた妙心寺が大徳寺住持の座を狙ってくるかもしれません。その際に寺域内に塔頭を立てておき、歴代住持をそこの出身者に限る慣例を作っておけば、その予防となると考えられたのではないでしょうか。それぞれの塔頭に有力大名の外護があれば、その影響力を行使することもできます。そもそも、妙心寺自身が地方にウイングを広げて影響力の確保を模索している状況でしたので、それに対して四の五の言っている状況ではなかったわけです。別の時代に類例を探すなら江戸期紀州家出身の八代将軍徳川吉宗が、自らの子息に御三卿を名乗らせて江戸城中に住まわせたことが似てるかもしれません。それ以前は徳川宗家の血が絶えた場合は尾張・紀州・水戸の御三家より後継を出す慣例あったのですが、その決まりによって将軍家を継いだ吉宗がその慣例を無効化するために編み出した戦術でした。それ以後、幕末の家茂まで御三家出身将軍の出現は阻止しおおせたのでした。

 大徳寺寺域内に塔頭興臨院を建立したのは、能登国守護の畠山義総でした。この頃の能登は正面の越中国で本願寺派と分国守護の長尾為景が抗争を繰り広げており、その対立に対して第三者的立場をキープできたので比較的安定しておりました。宗家の総州家と尾州家は没落しつつある中、なんとか勢力維持しつづけております。
 大徳寺が非業の最期を遂げた三好元長のために堺に南宗寺を建立したのは、北条氏綱が今川義元との抗争した後、彼の孫の三好長慶が細川晴元を打倒して畿内の実権を握った後のことです。天文初年の時点では北条氏綱を除いて大徳寺はさしたる勢力をもったパトロンを有しているわけではありませんでしたが、大徳寺に武野紹鴎という茶人が参禅するにあたって、クリーンヒットを放つ糸口をつかみますが、それはまた次稿にて紹介したいと思います。


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2017年2月18日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑬妙心寺のいざない

  妙心寺派臨済宗の進出はこれに留まらず、遠江・三河という今川義元が再進出した領域にも広がってゆきます。その一つが遠江国引佐の龍泰寺(龍潭寺)です。ここは奈良時代に行基が建てた古刹だったのですが、のちに井伊家が菩提寺にしていました。
 1507年(永正四年)に当時自浄院と呼ばれていた龍潭寺に悟渓宗頓の妙心寺東海派の流れをくむ文叔瑞郁が逗留します。この翌年に死ぬ当主直氏のためということもあるかもしれませんが、京で管領細川政元がこの年に暗殺された影響で妙心寺が新たな外護先を求めたのかもしれません。但し、文叔瑞郁は自浄院に腰を据えて入ったわけではなく、それから兄松岡貞正のいる信州下伊那郡市田に松源寺を建立してそこの住持におさまります。1513年(永正十年)のことです。その二年後に文叔瑞郁は上洛して妙心寺の住持を務めることになります。その間、自浄院(龍潭寺)に妙心寺派の住持が入った話はありませんので、この時点で妙心寺派臨済宗への改宗を伴ったものではなかったものと思われます。その間に井伊直氏の後を継いだ井伊直平・直宗親子は遠江守護斯波義達の求めに応じて曳馬城の大河内貞綱とともに反今川の戦いを起こし、敗れてしまいます。
 自浄院が龍泰寺(のち龍潭寺)と寺号を改め、妙心寺派臨済宗に宗旨が改まったのは。天文年間になって文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞渕がここに入ってからのことと言われております。今年の大河ドラマの主人公である井伊直虎を含む井伊家歴代の墓があります。ただ、この寺を建てて後、井伊家には内紛や戦争で次々と一門衆が亡くなる不幸が起こり、一時はほぼ滅亡状態になりますので、決して験の良いものではありませんでした。

 この辺りは小和田哲男氏の著書の受け売りになります。天文年間の井伊家の惣領は直平でしたが、事実上隠居していたようで、1542年(天文十一年)にその息子の直宗が今川義元とともに三河田原の合戦に従軍し、直宗はそこで討ち死にしたと寛政重修諸家譜に書かれておりますが、実際今川義元がその年に田原に進出したとする記録はないそうです。また、1539年(天文八年)に直宗の息子である直盛が文書発給をしております。一方の直宗の方は現存する文書は残っていません。一概には言えないのですが、この頃にはすでに家督が直盛に移っていたと考えて良いでしょう。いずれにせよ家督は直平の子や孫の代に移っていました。

 また、小和田氏は面白い考証をしていて、井伊家が今川氏に従属した時期を築山殿(徳川家康の正妻)を使って考察しています。築山殿は徳川家康よりも一、二歳年上であること。築山殿の母親は今川義元の妹ということになっていますが、実は井伊直平の娘が今川義元の側室として入り、それから間もなく関口親永に今川義元の妹として下賜されたということらしいです。
 徳川家康の生誕が1542年(天文十一年)十二月二十六日ですので、築山殿が家康より二歳年上だと仮定すると、彼女は1540年(天文九年)生まれになります。婚姻して子供を作るために必要な時間を概ね二年とすると、関口親永が井伊直平の娘を今川義元の妹として下げ渡されたのは、1538年(天文七年)。だとすれば、今川義元が井伊直平の娘を側室としたのは概ね1536年(天文五年)くらいになるかもしれない。ちなみにこれ以前は今川義元は栴岳承芳として僧籍に入っていますので、嫁をとることはできません。なので、今川義元は権力を奪取してからかなり早い段階で井伊家を傘下に取り込んだのであろう、というのが小和田氏の推測です。

 この頃の今川義元は政権掌握と同時に後北条氏を敵に回してしまって、西に目を向ける暇はほとんどなかったはずです。それが可能であったのはやはり信州市田の松源寺にいた文叔瑞郁と井伊直平のコネクションであり、文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞淵の説得を受けて井伊直平ら井伊一統が今川義元に従うことにしたのでしょう。

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 もう一つが三河国大津(現在の豊橋市老津町。吉田と田原の中間あたり)にある太平寺です。ここは元々南浦紹明の弟子(宗峰妙超の兄弟弟子にあたります)峰翁祖一が開いた寺で、後渥美半島に進出した田原戸田氏の帰依を受けていたのですが、1547年(天文十六年)に田原戸田康光が松平竹千代拉致事件の咎で今川家の太原崇孚に滅ぼされた翌年、今川義元の命で駿府の臨済寺末寺として編入されております。
 
 明らかに今川義元が今川家の家督を継いで以来妙心寺派はその威光でウィングを西に伸ばしておりました。その延長上にあるのが尾張国です。ここは元々日峰宗舜が犬山に瑞泉寺を建てていましたが、さらに支配層への食い込みをはかっていたのです。そのターゲットとなったのが平手政秀でした。彼は織田信秀の片腕として、信長の守り役として、ときに織田宗家をはじめとした家中やときに上洛して朝廷に信秀の名前で献金するなどの辣腕のネゴシエーターでした。妙心寺派は沢彦宗恩を平手政秀に接触させて織田信秀の嫡男信長の教育係にしました。信秀の死後、平手政秀は信長と対立して自刃するに至ります。諌死とも言われています。信長は平手の菩提を弔わせるために沢彦宗恩に命じて菩提寺を立てさせました。これが政秀寺です。

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 小瀬甫庵の信長記は言います。「爰に今川義元は天下へ切て上り、国家の邪路を正さんとて数万騎を率し駿河国を打ち立てて遠江、三河をも程なく切り従え、恣に猛威を振るいしかば(後略)」と。桶狭間合戦が上洛のための戦いであるか、単なる局地戦に後詰めとして出兵したものか、諸説が戦わされていますが、甫庵信長記は天下(京)に上るための出兵と書いているのですね。今川義元の尾張出兵の目的自体がそのまま上洛するためであったかどうかは定かではありません。しかし、少なくとも妙心寺派はそのための道を作っていたようにもみえます。そして、小瀬甫庵の墓所が加賀国金沢の普明院というところにあるのですが、ここもまた妙心寺派臨済宗の寺でした。

 妙心寺が今川義元を京に導こうとしていた、少なくともそのための協力を惜しまなかった。そのことは研究に値するテーマなのではないか、と私は思います。

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2017年2月11日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊

 以前、1495年(明応四年)と1498年(明応七年)に起こった明応大震災についての話をし、今川氏親は周辺諸侯の救済の為に西進したのではないかという仮説を立てました。しかし、よく考えると今川氏親が治める駿河国における地震と津波の被害もまた甚大です。いわば条件は尾張の斯波家を含む他の東海道の領主達と一緒なのです。その中で、今川家がいち早く外征の準備を整えられたのはなぜかを考えるに、今川氏親が治める駿河国にのみ存在する金鉱のせいだったのではないかと思いつくに至りました。

 地震が起こった後の復興レースの中、先立つものがなければ再建もままなりませんし、津波を被った農地は当面使い物にならなくなっていた筈です。社会インフラも破壊されていたことでしょう。駿河国にはこの大災害という脅威を、機会に変え得る内部資源を有しておりました。安倍(梅ヶ島)と富士にある金山です。この危急にあって金を以て財を贖い、復興投資をすることで近隣諸勢力の糾合をはかる挙にでたのではないかと思っております。

 今川家が拠点としている駿河国駿府には安倍川が流れているのですが、この川の源流あたりに梅ヶ島があります。この当時、金山と言っても、金を含む地層から採掘するのではなく、川底をさらってふるいにかけて砂金を選別する方法で金が採られていました。そして、この地震からおよそ二十年後、1519年(永正十六年)の今川氏親は三條西実隆を初めとする朝廷や幕府に金配りを始めています。この頃の金採掘には坑道掘りが採用されて採掘量を大幅に増やしております。そのことが判るのは、1516年(永正十三年)に大河内貞綱が斯波義達の支援を受けて遠江国引馬城を占拠したのですが、これの制圧の為に今川氏親は金山衆を動員して城外から穴を掘らせて水源を断ち、落城させたのでした。三條西実隆が幕府への金配りを日記に記すのはこの三年後。氏親は遠江国での斯波義達との抗争に勝利し、幕府にも遠江領有の正当性を認めさせる為の贈与であったと考えられます。

 これの最初のきっかけを想像するに、明応大地震で安倍川源流地域の地層が崩れて鉱床が露出したのかも知れません。おそらくは地震後、わずかに安倍川での砂金採取量があがり、調べてみると梅ヶ島あたりの地層に金の鉱床が露呈していたのが発見され、これを掘り返すことが始まったのではないでしょうか。その為の組織が金山衆でありましょう。鉱山開発は当時としては大規模な設備投資と土木技術が必要で、採算に見合う技術蓄積を二十年かけて行ってきたものと思われます。外れれば全ての投資が無駄になるリスキーな事業でしたが、こと安倍(梅ヶ島)金山に関しては成功例として記録されることになりました。
 砂金は安倍川以外にも富士川源流の一つ、早川上流域にも産出しておりました。そこの領主が穴山氏です。安倍(梅ヶ島)金山の繁盛を横目に見つつ、領地に金鉱脈の存在を知りつつも、今川家と同様な開発する為の技術を持てずに手をこまねいていたものと思われます。その当時の穴山氏の領主は穴山信友で、武田信虎に臣従していました。武田家と今川家は対立していたので、今川家から技術導入など考えられなかったわけですね。
 それが花倉の乱が起こって勝利者今川義元が武田信虎と組むことになります。武田宗家も黒川山に金鉱を持っておりました。今川家、穴山家、武田宗家の三者はともに妙心寺派臨済宗に帰依しており、その関係もあって技術移転は円滑に進んだと見ることも可能かと思います。

 そして、この時代において日本の鉱業は一大ブレークスルーを迎えます。1533年(天文二年)、博多商人神屋寿禎が朝鮮国出身の宗丹・慶寿の協力のもと鉱物精錬法である灰吹き法を確立したのです。この手法が使われる以前は掘り出した鉱物の不純物を取り除く方法は事実上存在せず、掘り出された鉱石は鉱石のまま輸出されたり、そのままでも精錬の不要な砂金の状態で流通されていたりしていたわけです。
 灰吹き法を簡単に説明すると、るつぼに灰を敷き詰め、その上に金・銀等の鉱石を置いて熱すると鉱石は解けるのですが、不純物は灰に交じって分離し、最終的に金や銀のインゴッドが出来上がるという手法です。この技術は戦国期に各国の鉱山に急速に普及し、金山の採算性も向上し、産量も大幅に増えました。穴山信友は湯之奥金山、武田晴信は黒川金山の開発を進めます。

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 その資金を持って武田宗家は信玄堤を整備し、信濃侵攻を進め、今川家は三河から尾張攻めを敢行しました。武田信玄は北条家が占領していた駿河国深沢城を今川氏親の顰に倣って黒川金山衆を動員してこれに攻撃させております。

 しかし、もう一方の今川義元は武運拙く討ち死にし、松平元康改め徳川家康に背かれて遠江を失って存亡の危機に立ちます。ここで冷徹に武田信玄は駿河今川領を吸収します。今川義元と言う優れたリーダーを失って、駿河国が過去の駿河国ではなくなったことと、潜在敵国である徳川家や北条家に海へのルートを扼されたり、安倍金山を持たれることを嫌ったりしたことも理由になるのではないでしょうか。

 駿河方面を得たのは穴山信君でした。しかし、その後武田家そのものも存亡の危機に立ち、その時穴山信君は武田勝頼を見限って織田に降伏します。そこで富士川から海への回廊部分と甲斐河内地方は安堵されました。穴山信君にとってはここを確保できていればいつでも武田家は復興できるものと考えていたのでしょう。諏訪家の当主が武田家を名乗れるのであれば、より血の近い穴山家が武田宗家を名乗っても何の不都合もないのですから。とはいえ、その穴山信君は本能寺の変に巻き込まれて、神君伊賀越えの途上に脱落して落命します。

 穴山家の遺領は徳川家康が家臣ごと丸抱えし、その勢いで甲斐信濃の旧武田家版図をあっという間にのみこみます。その徳川家康も豊臣秀吉に領地を取り上げられて関東に移封させられます。豊臣秀吉は甲州・駿州をまるまる自分の子飼いの部将達に与え、自らは黄金をあしらった装飾を好み、天正大判・小判を鋳造して黄金関白と称されるようになりました。こういう大胆な用兵や散財が可能になったのも、黒川、湯之奥、安倍(梅ヶ島)に代表される甲駿の「黄金回廊」の財力の賜物でもあったでしょう。

 関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍が西軍に勝利した後、駿河には自らが入り、甲斐国には譜代家臣に支配させております。この一事をもっても、甲駿の黄金回廊の重要性は認識できるかと思います。

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2017年2月 5日 (日)

中漠:林下編Ⅱ⑪武田家の宗旨報告書Ⅴ(武田晴信・大井流武田氏)

  今までの書きぶりで甲斐国に妙心寺派臨済宗が入り込んだのは、今川義元の影響のように書いてきましたが、実はもう一つルートがあります。それが今回お話しする大井流武田家です。大井家は以下の系図にあるように穴山家同様、武田一門衆を形成する一族で、巨摩郡大井近辺を領する国衆でした。戦国期の武田家内訌においては、穴山家とともに、今川氏親と結んで武田信虎と対抗しましたが、結局今川家は撤退し、和睦を結ばざるを得なくなりました。その条件として大井家が武田宗家に差し出したのが、大井の方です。

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 大井家対武田宗家の合戦の舞台となったのが大井信達の居城、上野城(別説に富田城)でした。和睦後に武田信虎は大井信達をはじめとする国衆に館の甲府集住を命じます。これに反発したのが大井信達でしたが、この時の反乱はあえなく鎮圧され、出家隠遁をせざる得なくなる羽目に陥ります。この時に号した名前が、大井入道宗芸というものでした。彼の死後戒名は本習院殿熊学宗芸庵主です。「宗」のついた法号は今まで見てきた通り、大徳寺・妙心寺系のものであり、彼もまた妙心寺との関わりがあるように見える人物でした。隠遁後の大井宗芸は和歌に親しむ悠々自適の生活をおくったとのことです。しかし、彼の居城跡は房号に似た本重寺という富士門流法華宗寺院になっており、彼の墓もそこにあります。
 大井一族はもう一つ菩提寺をもっていました。武田氏の支流ですので、もともとの宗旨は天台宗なのですが、大井氏進出以前、巨摩郡大井郷鮎沢に建っていたその寺は真言宗寺院として建立されており西光寺と号しておりました。行基が開基したそうですが、鎌倉時代末期の1316年(正和五年)、甲斐出身の名僧夢窓疎石がここを臨済宗寺院長禅寺と改めます。夢窓疎石の手になるものですから、大徳寺・妙心寺系の臨済宗ではなく、五山秩序の中に入った寺院ということになります。その後大井一族がそこを菩提寺にしたらしいです。

 戦国時代に入って、五山の秩序は崩壊します。そのすきをついて、長禅寺に入った一人の僧がおりました。その名も岐秀元伯と言います。彼は妙心寺の悟渓宗頓(東海派の祖)の流れを汲む僧であり、信虎と結婚する前の大井信達の娘、のちの大井の方の絶大なる信頼を得ていたと言います。
 大井の方は信虎と結婚し、嫡男晴信を設けると、この息子の教育係に岐秀元伯をつけたらしい。鮎沢の長禅寺には勝千代(晴信の幼名)が子供のころに遊んだ木馬が残されているとのことです。また、古狸がこの木馬に化けて勝千代を化かそうとしたところ、聡明な勝千代はこれを喝破して見事に撃退したなどという話も残されているらしい。
 もっとも、勝千代が住んでいた躑躅ヶ崎館と鮎沢の長禅寺は子供の足で通うには遠すぎる場所にあり、話の信ぴょう性は薄いとも言います。いずれにせよ、この話は今川義元が妙心寺派に転向する以前の話ということになります。

 1536年(天文五年)に花倉の乱がおこって玄広恵探が栴岳承芳(今川義元)に討たれたのと同じ年に、勝千代は元服して晴信と名乗ります。齢十六でした。それ以後も武田晴信は岐秀元伯を私的な家庭教師として彼から学問を学びました。
 甲斐国の妙心寺派にとって中心寺院はあくまでも恵林寺であり、そこは明叔慶浚、希菴玄密、鳳栖玄梁、天桂玄長、快川紹喜と妙心寺派(主として東海派)の僧ががっちりローテーションを組んで保ち続けておりました。

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 1552年(天文二十一年)武田晴信は三十一歳で出家して信玄と名乗るまでに岐秀元伯から碧巌録という臨済宗の公案集全七巻中五巻までをマスターしていたと甲陽軍鑑は言います。そして、法号の信玄の「玄」の字は臨済義玄と関山慧玄の玄であるとも言っているのですね。そして同じ年に大井の方は亡くなります。彼女は夫信虎が駿河に「追放」されても甲斐に残りました。戦国の妻として、宗家のもとで実家を守る責任が優先されたということでしょう。信玄はそんな大井の方の為に、躑躅ヶ崎館の一角に寺院を建立し、そこを長禅寺と名付け、岐秀元伯を開山に、大井の方を開基ということにしました。鮎沢にあった長禅寺はそのまま大井家の菩提寺として機能して区別の為に古長禅寺と呼びならわされます。

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