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2017年2月11日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊

 以前、1495年(明応四年)と1498年(明応七年)に起こった明応大震災についての話をし、今川氏親は周辺諸侯の救済の為に西進したのではないかという仮説を立てました。しかし、よく考えると今川氏親が治める駿河国における地震と津波の被害もまた甚大です。いわば条件は尾張の斯波家を含む他の東海道の領主達と一緒なのです。その中で、今川家がいち早く外征の準備を整えられたのはなぜかを考えるに、今川氏親が治める駿河国にのみ存在する金鉱のせいだったのではないかと思いつくに至りました。

 地震が起こった後の復興レースの中、先立つものがなければ再建もままなりませんし、津波を被った農地は当面使い物にならなくなっていた筈です。社会インフラも破壊されていたことでしょう。駿河国にはこの大災害という脅威を、機会に変え得る内部資源を有しておりました。安倍(梅ヶ島)と富士にある金山です。この危急にあって金を以て財を贖い、復興投資をすることで近隣諸勢力の糾合をはかる挙にでたのではないかと思っております。

 今川家が拠点としている駿河国駿府には安倍川が流れているのですが、この川の源流あたりに梅ヶ島があります。この当時、金山と言っても、金を含む地層から採掘するのではなく、川底をさらってふるいにかけて砂金を選別する方法で金が採られていました。そして、この地震からおよそ二十年後、1519年(永正十六年)の今川氏親は三條西実隆を初めとする朝廷や幕府に金配りを始めています。この頃の金採掘には坑道掘りが採用されて採掘量を大幅に増やしております。そのことが判るのは、1516年(永正十三年)に大河内貞綱が斯波義達の支援を受けて遠江国引馬城を占拠したのですが、これの制圧の為に今川氏親は金山衆を動員して城外から穴を掘らせて水源を断ち、落城させたのでした。三條西実隆が幕府への金配りを日記に記すのはこの三年後。氏親は遠江国での斯波義達との抗争に勝利し、幕府にも遠江領有の正当性を認めさせる為の贈与であったと考えられます。

 これの最初のきっかけを想像するに、明応大地震で安倍川源流地域の地層が崩れて鉱床が露出したのかも知れません。おそらくは地震後、わずかに安倍川での砂金採取量があがり、調べてみると梅ヶ島あたりの地層に金の鉱床が露呈していたのが発見され、これを掘り返すことが始まったのではないでしょうか。その為の組織が金山衆でありましょう。鉱山開発は当時としては大規模な設備投資と土木技術が必要で、採算に見合う技術蓄積を二十年かけて行ってきたものと思われます。外れれば全ての投資が無駄になるリスキーな事業でしたが、こと安倍(梅ヶ島)金山に関しては成功例として記録されることになりました。
 砂金は安倍川以外にも富士川源流の一つ、早川上流域にも産出しておりました。そこの領主が穴山氏です。安倍(梅ヶ島)金山の繁盛を横目に見つつ、領地に金鉱脈の存在を知りつつも、今川家と同様な開発する為の技術を持てずに手をこまねいていたものと思われます。その当時の穴山氏の領主は穴山信友で、武田信虎に臣従していました。武田家と今川家は対立していたので、今川家から技術導入など考えられなかったわけですね。
 それが花倉の乱が起こって勝利者今川義元が武田信虎と組むことになります。武田宗家も黒川山に金鉱を持っておりました。今川家、穴山家、武田宗家の三者はともに妙心寺派臨済宗に帰依しており、その関係もあって技術移転は円滑に進んだと見ることも可能かと思います。

 そして、この時代において日本の鉱業は一大ブレークスルーを迎えます。1533年(天文二年)、博多商人神屋寿禎が朝鮮国出身の宗丹・慶寿の協力のもと鉱物精錬法である灰吹き法を確立したのです。この手法が使われる以前は掘り出した鉱物の不純物を取り除く方法は事実上存在せず、掘り出された鉱石は鉱石のまま輸出されたり、そのままでも精錬の不要な砂金の状態で流通されていたりしていたわけです。
 灰吹き法を簡単に説明すると、るつぼに灰を敷き詰め、その上に金・銀等の鉱石を置いて熱すると鉱石は解けるのですが、不純物は灰に交じって分離し、最終的に金や銀のインゴッドが出来上がるという手法です。この技術は戦国期に各国の鉱山に急速に普及し、金山の採算性も向上し、産量も大幅に増えました。穴山信友は湯之奥金山、武田晴信は黒川金山の開発を進めます。

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 その資金を持って武田宗家は信玄堤を整備し、信濃侵攻を進め、今川家は三河から尾張攻めを敢行しました。武田信玄は北条家が占領していた駿河国深沢城を今川氏親の顰に倣って黒川金山衆を動員してこれに攻撃させております。

 しかし、もう一方の今川義元は武運拙く討ち死にし、松平元康改め徳川家康に背かれて遠江を失って存亡の危機に立ちます。ここで冷徹に武田信玄は駿河今川領を吸収します。今川義元と言う優れたリーダーを失って、駿河国が過去の駿河国ではなくなったことと、潜在敵国である徳川家や北条家に海へのルートを扼されたり、安倍金山を持たれることを嫌ったりしたことも理由になるのではないでしょうか。

 駿河方面を得たのは穴山信君でした。しかし、その後武田家そのものも存亡の危機に立ち、その時穴山信君は武田勝頼を見限って織田に降伏します。そこで富士川から海への回廊部分と甲斐河内地方は安堵されました。穴山信君にとってはここを確保できていればいつでも武田家は復興できるものと考えていたのでしょう。諏訪家の当主が武田家を名乗れるのであれば、より血の近い穴山家が武田宗家を名乗っても何の不都合もないのですから。とはいえ、その穴山信君は本能寺の変に巻き込まれて、神君伊賀越えの途上に脱落して落命します。

 穴山家の遺領は徳川家康が家臣ごと丸抱えし、その勢いで甲斐信濃の旧武田家版図をあっという間にのみこみます。その徳川家康も豊臣秀吉に領地を取り上げられて関東に移封させられます。豊臣秀吉は甲州・駿州をまるまる自分の子飼いの部将達に与え、自らは黄金をあしらった装飾を好み、天正大判・小判を鋳造して黄金関白と称されるようになりました。こういう大胆な用兵や散財が可能になったのも、黒川、湯之奥、安倍(梅ヶ島)に代表される甲駿の「黄金回廊」の財力の賜物でもあったでしょう。

 関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍が西軍に勝利した後、駿河には自らが入り、甲斐国には譜代家臣に支配させております。この一事をもっても、甲駿の黄金回廊の重要性は認識できるかと思います。

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