« 中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊 | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略 »

2017年2月18日 (土)

中漠:林下編Ⅱ⑬妙心寺のいざない

  妙心寺派臨済宗の進出はこれに留まらず、遠江・三河という今川義元が再進出した領域にも広がってゆきます。その一つが遠江国引佐の龍泰寺(龍潭寺)です。ここは奈良時代に行基が建てた古刹だったのですが、のちに井伊家が菩提寺にしていました。
 1507年(永正四年)に当時自浄院と呼ばれていた龍潭寺に悟渓宗頓の妙心寺東海派の流れをくむ文叔瑞郁が逗留します。この翌年に死ぬ当主直氏のためということもあるかもしれませんが、京で管領細川政元がこの年に暗殺された影響で妙心寺が新たな外護先を求めたのかもしれません。但し、文叔瑞郁は自浄院に腰を据えて入ったわけではなく、それから兄松岡貞正のいる信州下伊那郡市田に松源寺を建立してそこの住持におさまります。1513年(永正十年)のことです。その二年後に文叔瑞郁は上洛して妙心寺の住持を務めることになります。その間、自浄院(龍潭寺)に妙心寺派の住持が入った話はありませんので、この時点で妙心寺派臨済宗への改宗を伴ったものではなかったものと思われます。その間に井伊直氏の後を継いだ井伊直平・直宗親子は遠江守護斯波義達の求めに応じて曳馬城の大河内貞綱とともに反今川の戦いを起こし、敗れてしまいます。
 自浄院が龍泰寺(のち龍潭寺)と寺号を改め、妙心寺派臨済宗に宗旨が改まったのは。天文年間になって文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞渕がここに入ってからのことと言われております。今年の大河ドラマの主人公である井伊直虎を含む井伊家歴代の墓があります。ただ、この寺を建てて後、井伊家には内紛や戦争で次々と一門衆が亡くなる不幸が起こり、一時はほぼ滅亡状態になりますので、決して験の良いものではありませんでした。

 この辺りは小和田哲男氏の著書の受け売りになります。天文年間の井伊家の惣領は直平でしたが、事実上隠居していたようで、1542年(天文十一年)にその息子の直宗が今川義元とともに三河田原の合戦に従軍し、直宗はそこで討ち死にしたと寛政重修諸家譜に書かれておりますが、実際今川義元がその年に田原に進出したとする記録はないそうです。また、1539年(天文八年)に直宗の息子である直盛が文書発給をしております。一方の直宗の方は現存する文書は残っていません。一概には言えないのですが、この頃にはすでに家督が直盛に移っていたと考えて良いでしょう。いずれにせよ家督は直平の子や孫の代に移っていました。

 また、小和田氏は面白い考証をしていて、井伊家が今川氏に従属した時期を築山殿(徳川家康の正妻)を使って考察しています。築山殿は徳川家康よりも一、二歳年上であること。築山殿の母親は今川義元の妹ということになっていますが、実は井伊直平の娘が今川義元の側室として入り、それから間もなく関口親永に今川義元の妹として下賜されたということらしいです。
 徳川家康の生誕が1542年(天文十一年)十二月二十六日ですので、築山殿が家康より二歳年上だと仮定すると、彼女は1540年(天文九年)生まれになります。婚姻して子供を作るために必要な時間を概ね二年とすると、関口親永が井伊直平の娘を今川義元の妹として下げ渡されたのは、1538年(天文七年)。だとすれば、今川義元が井伊直平の娘を側室としたのは概ね1536年(天文五年)くらいになるかもしれない。ちなみにこれ以前は今川義元は栴岳承芳として僧籍に入っていますので、嫁をとることはできません。なので、今川義元は権力を奪取してからかなり早い段階で井伊家を傘下に取り込んだのであろう、というのが小和田氏の推測です。

 この頃の今川義元は政権掌握と同時に後北条氏を敵に回してしまって、西に目を向ける暇はほとんどなかったはずです。それが可能であったのはやはり信州市田の松源寺にいた文叔瑞郁と井伊直平のコネクションであり、文叔瑞郁の弟子である黙宗瑞淵の説得を受けて井伊直平ら井伊一統が今川義元に従うことにしたのでしょう。

Photo

 もう一つが三河国大津(現在の豊橋市老津町。吉田と田原の中間あたり)にある太平寺です。ここは元々南浦紹明の弟子(宗峰妙超の兄弟弟子にあたります)峰翁祖一が開いた寺で、後渥美半島に進出した田原戸田氏の帰依を受けていたのですが、1547年(天文十六年)に田原戸田康光が松平竹千代拉致事件の咎で今川家の太原崇孚に滅ぼされた翌年、今川義元の命で駿府の臨済寺末寺として編入されております。
 
 明らかに今川義元が今川家の家督を継いで以来妙心寺派はその威光でウィングを西に伸ばしておりました。その延長上にあるのが尾張国です。ここは元々日峰宗舜が犬山に瑞泉寺を建てていましたが、さらに支配層への食い込みをはかっていたのです。そのターゲットとなったのが平手政秀でした。彼は織田信秀の片腕として、信長の守り役として、ときに織田宗家をはじめとした家中やときに上洛して朝廷に信秀の名前で献金するなどの辣腕のネゴシエーターでした。妙心寺派は沢彦宗恩を平手政秀に接触させて織田信秀の嫡男信長の教育係にしました。信秀の死後、平手政秀は信長と対立して自刃するに至ります。諌死とも言われています。信長は平手の菩提を弔わせるために沢彦宗恩に命じて菩提寺を立てさせました。これが政秀寺です。

Photo_2


 小瀬甫庵の信長記は言います。「爰に今川義元は天下へ切て上り、国家の邪路を正さんとて数万騎を率し駿河国を打ち立てて遠江、三河をも程なく切り従え、恣に猛威を振るいしかば(後略)」と。桶狭間合戦が上洛のための戦いであるか、単なる局地戦に後詰めとして出兵したものか、諸説が戦わされていますが、甫庵信長記は天下(京)に上るための出兵と書いているのですね。今川義元の尾張出兵の目的自体がそのまま上洛するためであったかどうかは定かではありません。しかし、少なくとも妙心寺派はそのための道を作っていたようにもみえます。そして、小瀬甫庵の墓所が加賀国金沢の普明院というところにあるのですが、ここもまた妙心寺派臨済宗の寺でした。

 妙心寺が今川義元を京に導こうとしていた、少なくともそのための協力を惜しまなかった。そのことは研究に値するテーマなのではないか、と私は思います。

Photo_3

|

« 中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊 | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/64908270

この記事へのトラックバック一覧です: 中漠:林下編Ⅱ⑬妙心寺のいざない:

« 中漠:林下編Ⅱ⑫黄金回廊 | トップページ | 中漠:林下編Ⅱ⑭戦国時代中盤の大徳寺の生存戦略 »