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2017年5月21日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?

〇論文より引用
一、三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、
(中略)
天文十六年当時「弾正忠」を証して今川軍勢を破り三河を支配しうる人物は、織田信長の父、織田信秀のほかありえない。

 論文においては何の考察もなく、弾正忠が管領する国をあたりまえであるかのように三河国としていますが、ここには検討の余地が残されていると思います。確かに織田信秀は弾正忠を名乗っており、駿河衆を敗軍に追い込んだ結果三河を掌中に入れてしまったようにも読めます。しかし、史実においてはこの書状が書かれた時点で太原崇孚率いる今川軍は三河国において健在であり、九月五日には田原を攻めた配下の諸将に太原崇孚・今川義元の手によって軍忠状が出されております。その北方にある医王山には七月に今川方の砦が築かれ西から攻め下る織田勢に対してにらみを利かせております。この書状の後段で日覚は檀越の鵜殿氏が織田軍に攻め滅ぼされないかを心配しておりますが、この書状の中では駿河・尾張の間で外交工作を行っていて、まだ攻め込まれているわけではありません。
 管領という言葉は室町幕府の役職のほかに支配するという意味があり、ここではその意味に使われているようですが、この時点で三河国全体を掌握しているわけではなく、言い切ってしまうのはやや強引であると思います。

 故に別解として、この「一国」は織田信秀の故国である尾張国を指す可能性もあると私は考えています。書状中の駿河・駿の文字は太原崇孚ら今川勢を指しているのですが、今川家は範国から義元に至るまでずっと駿河の太守であり続けました。「駿河」の本来のカウンターパートは「尾張」であり、守護の斯波義統です。しかし、斯波家は今川家に永正年間に大敗北を喫し、天文十六年時点で家勢は大いに衰えておりました。この時の織田信秀の立場は尾張守護斯波義統に仕える尾張下四郡守護代織田大和守達勝の門下に三人いる奉行衆の一人に過ぎません。「駿河」という言葉に対置するには、「弾正忠」の身分は役者不足もいいところなのですが、実際には信長公記に書かれているように尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねられるほどの実力を有する器用の仁でした。よって、本来駿河衆に対置させるべきは尾張衆であるべきなのですが、尾張国を事実上「管領」する程の実力を保有し、「威勢前代未聞」であるが故に、弾正忠は駿河衆と固有名詞で対置できる存在になっている旨が、書状に記されているという解釈も成り立つでしょう。

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「尾」と「弾正忠」が使い分けられていると考えるなら、以下の部分の解釈も変わってきます。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、其謂ハ駿と間を見あはせ候て、
種々上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、

 この部分を論文においては、以下のように訳されております。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
(かの楞厳坊が申し来るところでは、鵜殿氏にとってめぐりあわせはよろしくないという。それというのも、
鵜殿はかねて織田今川の力関係を見計らって、両者との外交で上手に立ち回っておいでであったが、
このたび思いのほか今川軍敗戦という事態になってしまい、織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでも
ないと(「一段ノ曲なく」)お思いとの事だ。

 鵜殿氏が外交を行っていたのは「尾」、つまり守護斯波義統周辺でそちらに対しては、「種々上手」ができていました。三河国人鵜殿氏にとって与し易い相手だったはずの「尾」を、いつの間にか「弾正忠」信秀が管領し、駿河衆を「敗軍」に追い込んだために、鵜殿氏の外交相手が信秀になってしまったという解釈もまた考慮に入れるべきではないかと考えます。

 後世の我々から織田信秀を見るなら、彼は天下人織田信長の父親であり、織田信長が天下統一の手始めとして尾張国を掌握するための基礎を用意した人物です。しかし、同時代人の日覚にとってはどうでしょう。日覚は尾張国守山に出生したと論文にありますが、その当時の織田弾正忠家は尾張西部の勝幡と津島湊の差配を任された程度の領地規模で、その当時は織田信定(月巌)あたりのことだったでしょう。それ以前には弾正忠家は津島まで到達しておりません。織田信定が津田湊を手に入れたのは永正十三年頃です。大永七年に三河松平氏の松平信定が織田信定の娘(信秀の姉妹)を娶って守山に館を建てて、日覚の故地と織田信秀との縁はできましたが、その当時信秀はまだ家督を継いでおりません。

 織田信秀が家督を継いだのは天文初年前後あたりと承知しております。津島は木曾三川の河口にあり、対岸には伊勢国桑名という栄えた港町があったのですが、津島から桑名へ向かうには途中長嶋や荷之上など本願寺教団が拠点を置いた輪中をかすめながら舟を向かわせなければなりませんでした。その本願寺教団は天文初年ごろに畿内で幕府と戦争を起こしております。織田信秀としては津島・桑名ルートとは別のルートを開拓する必要が出てきて、今川氏豊のいる那古野城を占領し、熱田湊を傘下に加えました。那古野城は吉法師(信長)に与えて、自らは那古野と熱田の中間地点にある古渡に城を築いて拠点とします。そして守山には織田信広(信長の庶兄)を置きます。この頃守山には松平清康が軍を率いて進駐していたものの、間もなく自壊します。信秀は兵を三河まで送りますが、この時の出兵は守護や守護代の命令で松平清康死後の松平家の後始末をしたものと思われます。津島と熱田の両湊を押さえることにより織田弾正忠家の家勢は大いに上がり、伊勢外宮の建て替えや禁裏御所修繕に独自で献金を行って、ついには(頼み勢ではあるものの)美濃・三河に外征を行えるほどの威勢を示します。

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 日覚から見れば、ついこの間まで湊の管理人だった信秀がいつの間にか、駿河太守の今川家と対等に尾張の兵力を思いのままに動かしているように見えるほどになった訳ですね。その威勢を日覚が「(尾張)一国管領」「前代未聞」と表現したとしても、それは理解しうるのではないでしょうか。

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