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2017年5月28日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか?

 日覚の書状には通説に見られない出来事が出来したとの記述が論文にあります。それが書状作成時点(天文十六年九月)時点での岡崎こと松平広忠の降参と織田信秀の上洛です。

(a)松平広忠は降参したのか
 論文は日覚書状の以下の文言の存在をもって、松平広忠が織田信秀の攻撃を受け、降参した旨記しております。

〇論文より引用
岡崎ハ弾江かう参分にて、からゝゝの命にて候、
(中略)
岡崎城主松平広忠は織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。


この記述に関する考察はこの章においてはなされず、後段の論証に持ち越されているのですが、取りあえず後段の論証で取り上げられる北条氏康書状写で構築される仮説を除いては、天文十六年の時点で松平広忠が織田信秀に降参したとする史料はありません。

逆にこの書状が書かれた天文十六年九月二十二日の六日後、二十八日に織田方として安城城と矢作川の中間にある岡砦(山崎砦)から岡崎へ向かって攻めかかろうとしたところを松平広忠は矢作川を渡河して渡河原で合戦に及んだ旨が松平記と岡崎領主古記に記されております。この合戦、松平広忠は敗北し、五井松平外記忠次ら戦死者を出して岡崎へ逃げ帰りましたが、松平信孝は追撃せず、山崎砦に帰還しました。いわゆる渡河原の合戦です。
 この合戦については論文の後段で触れられており、ここでは予断を持たせないようあえて言及を控えているのでしょう。しかし、史料が記した日付が正しいとするなら、この合戦は日覚が書状をしたためた時点では認知できる筈がありません。

③弾正忠は上洛したのか?
 論文は日覚書状の以下の文言の存在をもって、織田信秀は上洛した旨記しております。

〇論文より引用
弾は三州平均、その翌日ニ京上候
(中略)
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、その翌日京に上った。

 とりあえず文言を拾う限りにおいて、訳文に間違いはないかと思います。「弾は三州平均、」「その翌日ニ京上候」という二つのセンテンスの主語がそれぞれ違っていて、後者は弾=織田信秀ではなく、楞厳坊ではないかとも考えてみたこともあるのですが、その場合「弾は三州平均候、」等、「候」の文言が入らないとどうにも座りが悪い感じがします。

 ただ、論文でも言及されている通り、「この年、信秀が京都にいたとは他の資料で確認できない」のです。織田信秀は尾張下四郡守護代の奉行衆の一人にも過ぎないにもかかわらず、伊勢外宮や禁裏に尾張守護や宗家当主を差し置いて自分の名前で献金を行なったりして外部との直接的なコネクションを持つ人物です。天文十二年には腹心の平手政秀を石山本願寺に派遣して法主の証如と酒盛りをさせるくらいには外交的なパイプも独自に持っております。しかし、信長公記がいうような「頼み衆」をしてかき集めた軍勢が勝利したとはいえ、その直後に戦場を離れて上洛するようなことが可能とも思いにくいのです。「駿河衆」を敗軍に追い込んだのは尾張衆ではなく、「弾正忠」であると日覚が書いているので、織田信秀がその時に戦場にいなかったとも考えにくい。頼み勢をしている以上、信秀と最前線の軍兵の多くは信秀と主従関係を持っているわけではないでしょう。そんな中で軍を維持するための恩賞を与えるスポンサーかつ司令官の信秀が戦場を離れることが可能とも思いにくいです。

 さらには、この時点での京都の情勢は複雑怪奇そのものでした。日覚が言及している洛中法華と延暦寺との和睦もその一部なのですが、和泉・河内で勃興した細川氏綱の勢力に将軍足利義晴・義藤(義輝)親子が靡き、細川晴元は京を脱出。その留守に足利義晴は近江の六角定頼を管領代に任じ、洛中法華衆らに命じて洛北勝軍山城を築城して自らそこに籠って反細川晴元を宣言しております。
 洛中法華衆と延暦寺との和睦はかつて洛中で大虐殺を行った六角定頼が大御所足利義晴(この時点で将軍職を息子の義藤(義輝)に譲っていました)の意を受けて行われたものでした。結局、この合意の後に六角定頼は細川晴元方に寝返り、京の支配権は細川晴元が取り戻しました。同時に三好長慶を使って細川氏綱を担いでいた遊佐長教を叩き、足利義晴は抵抗のすべを失って帰京した頃、がこの書状が書かれた時期でした。しかも、この後三好長慶が細川氏綱方につくという大逆転が起こって細川晴元の優位は覆されてしまうという政情の不安定さでした。こんな中で織田信秀が上洛することにいかほどの意義があるのか、疑問です。
 日覚にしても書状の中で「当宗の事、入らく次第の事にて候」と延暦寺と日覚が属する陣門法華との和睦は和睦の使者が上洛し次第実現すると書いているように、六月十七日に成立した和議が陣門法華宗において九月二十二日になっても適用されていないのは政情の見極めが必要であったという理由もあるのはないかと思います。

 私自身の見解では極めて考えにくい情報であるのですが、論文においてはその後の記述で「虚報であるとも考えにくい」として、日覚の三河地方とのコネクションを紹介し、当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘しています。
 曰く、日覚は美濃在国の「孫右」なる人物から情報を得ていた。また、日覚は「長久山歴代譜」では尾張国守山生まれとあり稲生妙本寺で修行した経験から同寺から情報を得ることができたといったものです。それ自体に異議はありません。

 しかしながら、私としては日覚書状に記載の妥当性を持たせるなら、論文の解釈とは異なる解を考えざるを得ないと判断します。その別解の内容及び、日覚書状解釈のまとめを次稿でやりたいと思います。

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