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2017年5月28日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか?

 日覚の書状には通説に見られない出来事が出来したとの記述が論文にあります。それが書状作成時点(天文十六年九月)時点での岡崎こと松平広忠の降参と織田信秀の上洛です。

(a)松平広忠は降参したのか
 論文は日覚書状の以下の文言の存在をもって、松平広忠が織田信秀の攻撃を受け、降参した旨記しております。

〇論文より引用
岡崎ハ弾江かう参分にて、からゝゝの命にて候、
(中略)
岡崎城主松平広忠は織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。

この記述に関する考察はこの章においてはなされず、後段の論証に持ち越されているのですが、取りあえず後段の論証で取り上げられる北条氏康書状写で構築される仮説を除いては、天文十六年の時点で松平広忠が織田信秀に降参したとする史料はありません。

逆にこの書状が書かれた天文十六年九月二十二日の六日後、二十八日に織田方として安城城と矢作川の中間にある岡砦(山崎砦)から岡崎へ向かって攻めかかろうとしたところを松平広忠は矢作川を渡河して渡河原で合戦に及んだ旨が松平記と岡崎領主古記に記されております。この合戦、松平広忠は敗北し、五井松平外記忠次ら戦死者を出して岡崎へ逃げ帰りましたが、松平信孝は追撃せず、山崎砦に帰還しました。いわゆる渡河原の合戦です。
 この合戦については論文の後段で触れられており、ここでは予断を持たせないようあえて言及を控えているのでしょう。しかし、史料が記した日付が正しいとするなら、この合戦は日覚が書状をしたためた時点では認知できる筈がありません。

③弾正忠は上洛したのか?
 論文は日覚書状の以下の文言の存在をもって、織田信秀は上洛した旨記しております。

〇論文より引用
弾は三州平均、その翌日ニ京上候
(中略)
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、その翌日京に上った。

 とりあえず文言を拾う限りにおいて、訳文に間違いはないかと思います。「弾は三州平均、」「その翌日ニ京上候」という二つのセンテンスの主語がそれぞれ違っていて、後者は弾=織田信秀ではなく、楞厳坊ではないかとも考えてみたこともあるのですが、その場合「弾は三州平均候、」等、「候」の文言が入らないとどうにも座りが悪い感じがします。

 ただ、論文でも言及されている通り、「この年、信秀が京都にいたとは他の資料で確認できない」のです。織田信秀は尾張下四郡守護代の奉行衆の一人にも過ぎないにもかかわらず、伊勢外宮や禁裏に尾張守護や宗家当主を差し置いて自分の名前で献金を行なったりして外部との直接的なコネクションを持つ人物です。天文十二年には腹心の平手政秀を石山本願寺に派遣して法主の証如と酒盛りをさせるくらいには外交的なパイプも独自に持っております。しかし、信長公記がいうような「頼み衆」をしてかき集めた軍勢が勝利したとはいえ、その直後に戦場を離れて上洛するようなことが可能とも思いにくいのです。「駿河衆」を敗軍に追い込んだのは尾張衆ではなく、「弾正忠」であると日覚が書いているので、織田信秀がその時に戦場にいなかったとも考えにくい。頼み勢をしている以上、信秀と最前線の軍兵の多くは信秀と主従関係を持っているわけではないでしょう。そんな中で軍を維持するための恩賞を与えるスポンサーかつ司令官の信秀が戦場を離れることが可能とも思いにくいです。

 さらには、この時点での京都の情勢は複雑怪奇そのものでした。日覚が言及している洛中法華と延暦寺との和睦もその一部なのですが、和泉・河内で勃興した細川氏綱の勢力に将軍足利義晴・義藤(義輝)親子が靡き、細川晴元は京を脱出。その留守に足利義晴は近江の六角定頼を管領代に任じ、洛中法華衆らに命じて洛北勝軍山城を築城して自らそこに籠って反細川晴元を宣言しております。
 洛中法華衆と延暦寺との和睦はかつて洛中で大虐殺を行った六角定頼が大御所足利義晴(この時点で将軍職を息子の義藤(義輝)に譲っていました)の意を受けて行われたものでした。結局、この合意の後に六角定頼は細川晴元方に寝返り、京の支配権は細川晴元が取り戻しました。同時に三好長慶を使って細川氏綱を担いでいた遊佐長教を叩き、足利義晴は抵抗のすべを失って帰京した頃、がこの書状が書かれた時期でした。しかも、この後三好長慶が細川氏綱方につくという大逆転が起こって細川晴元の優位は覆されてしまうという政情の不安定さでした。こんな中で織田信秀が上洛することにいかほどの意義があるのか、疑問です。
 日覚にしても書状の中で「当宗の事、入らく次第の事にて候」と延暦寺と日覚が属する陣門法華との和睦は和睦の使者が上洛し次第実現すると書いているように、六月十七日に成立した和議が陣門法華宗において九月二十二日になっても適用されていないのは政情の見極めが必要であったという理由もあるのはないかと思います。

 私自身の見解では極めて考えにくい情報であるのですが、論文においてはその後の記述で「虚報であるとも考えにくい」として、日覚の三河地方とのコネクションを紹介し、当該文書の記事は基本的に伝聞情報ではあるが、史実を反映している可能性をくむべき素材であると指摘しています。
 曰く、日覚は美濃在国の「孫右」なる人物から情報を得ていた。また、日覚は「長久山歴代譜」では尾張国守山生まれとあり稲生妙本寺で修行した経験から同寺から情報を得ることができたといったものです。それ自体に異議はありません。

 しかしながら、私としては日覚書状に記載の妥当性を持たせるなら、論文の解釈とは異なる解を考えざるを得ないと判断します。その別解の内容及び、日覚書状解釈のまとめを次稿でやりたいと思います。

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2017年5月27日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-2 誰が誰の事を「愛想なし」と思ったか?

 昔の書状には「て、に、を、は」がついていないことが多く、それによって多様な解釈が生じてしまうわけなのですが、日覚の書状にもこんなセンテンスがあります。

〇論文より引用(敬語部分に下線を付記)
弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候
(中略)
織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでもないと(「一段ノ曲なく」)お思いとの事だ。

 論文では日覚書状の以下の文章の主語を織田信秀として上記の通り訳していますが、果たしてそうでしょうか?
 なぜ、この部分を強調するかと言いますと、日覚が得た情報の出所をこの一文及び前項でふれた「(『三河』)一国を管領」、「三州平均」等の文言に基づいて織田信秀上洛時の誇張入り宣伝を越中に下った在京の弟子たちがもたらしたものとして、この論文の論旨が組み立てられているからです。

 その解釈に疑問を呈すためには一つ一つ、論拠としている部分に別解を提示する必要があります。既に「(『三河』)一国を管領」については「(尾張)一国を管領」の可能性を先に示しました。
 今回は、「一段ノ曲な」しという評価は信秀が鵜殿に対して下したものであるかどうか、に絞って検討いたします。この評価が織田信秀ないしはその周辺からの情報でないとすれば、自動的に他の論点も再検討が必要になる、その為の下準備という位置づけです。

 このセンテンスにおいて着目すべきは、「被思たる」という文言です。読み下すなら「おぼされたる」になり、敬語(又は受動)表現になっているのですね。論文解釈が正しいとするなら、日覚は織田信秀に対して敬語を使うほど敬意を表しているということになります。確認のため、その他の箇所で弾正忠が主語になっているとおぼしき文面を抜き出しますと、以下の二箇所にありました。

〇論文より引用
弾正忠先以一国を管領候

弾ハ三州平均、其翌日ニ京上候

 いずれも、敬語表現ではありません。日覚は織田信秀に対して敬語を使っていないのです。通常、敬語表現を使う相手にはその表現を通すものですので、ここ一か所のみが敬語というのは不自然なのですね。
一方論文上の訳文において鵜殿が主語になっているのは以下のセンテンスです。

〇論文より引用(敬語部分に下線を付記)
尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二
(中略)
鵜殿はかねて織田と今川の力関係を見計らって、両者との外交で上手に立ち回っておいでであったが、

 と言うように日覚は檀越である鵜殿氏については、敬語を用いているのですね。であれば以下の文言の主語は、弾正忠ではなく、鵜殿ということにならないでしょうか?

〇論文より引用
弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候

上記をその前提で解釈するならば、「鵜殿は弾正忠のことを『一段の曲なく』とお思いになっている」となるのでしょう。「被」を受動と解釈した場合でも、主語が敬語表現を使っている鵜殿氏ではなく、敬語表現を使わない織田信秀になるわけですから、「弾正忠は(鵜殿によって)『一段の曲なく』(愛想なし)と思われている」ということになります。

 本稿でも「曲なく」の意味を論文に従い「何ら愛想をするまでもない」という意味で訳しますが、解釈は変わります。鵜殿にとっての交渉相手が「尾」から「弾正忠」にかわったうえに、「駿河衆」の敗軍の結果、何らの愛想(外交上の配慮)も得られそうにないと鵜殿氏が思った、という事になります。

 論文の記述によると日覚は本成寺の住持を引退した後、越中国城尾城主斎藤氏の庇護の元、菩提心院に隠棲していたのですが、越中大乱に巻き込まれて隠居の地が兵火にさらされることになり、その難を一時三河国の鵜殿氏を頼ることで逃れることができていました。日覚にとって鵜殿氏はただの檀越ではなく、恩人でもあるので、敬語表現を使っても不自然ではないでしょう。

  以上の根拠をもって、一段の曲なしとお思いになったのは織田信秀ではなく、鵜殿氏であると考察してみたのですが、そのニュアンスの違いがどのような文書解釈の違いになってくるのか、さらに別の論点を検証することによって明らかにしてみたいと思います。

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2017年5月21日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?

〇論文より引用
一、三州ハ駿河衆敗軍の様ニ候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様ニ其沙汰共候、
(中略)
天文十六年当時「弾正忠」を証して今川軍勢を破り三河を支配しうる人物は、織田信長の父、織田信秀のほかありえない。

 論文においては何の考察もなく、弾正忠が管領する国をあたりまえであるかのように三河国としていますが、ここには検討の余地が残されていると思います。確かに織田信秀は弾正忠を名乗っており、駿河衆を敗軍に追い込んだ結果三河を掌中に入れてしまったようにも読めます。しかし、史実においてはこの書状が書かれた時点で太原崇孚率いる今川軍は三河国において健在であり、九月五日には田原を攻めた配下の諸将に太原崇孚・今川義元の手によって軍忠状が出されております。その北方にある医王山には七月に今川方の砦が築かれ西から攻め下る織田勢に対してにらみを利かせております。この書状の後段で日覚は檀越の鵜殿氏が織田軍に攻め滅ぼされないかを心配しておりますが、この書状の中では駿河・尾張の間で外交工作を行っていて、まだ攻め込まれているわけではありません。
 管領という言葉は室町幕府の役職のほかに支配するという意味があり、ここではその意味に使われているようですが、この時点で三河国全体を掌握しているわけではなく、言い切ってしまうのはやや強引であると思います。

 故に別解として、この「一国」は織田信秀の故国である尾張国を指す可能性もあると私は考えています。書状中の駿河・駿の文字は太原崇孚ら今川勢を指しているのですが、今川家は範国から義元に至るまでずっと駿河の太守であり続けました。「駿河」の本来のカウンターパートは「尾張」であり、守護の斯波義統です。しかし、斯波家は今川家に永正年間に大敗北を喫し、天文十六年時点で家勢は大いに衰えておりました。この時の織田信秀の立場は尾張守護斯波義統に仕える尾張下四郡守護代織田大和守達勝の門下に三人いる奉行衆の一人に過ぎません。「駿河」という言葉に対置するには、「弾正忠」の身分は役者不足もいいところなのですが、実際には信長公記に書かれているように尾張で頼み衆をして美濃や三河に遠征を重ねられるほどの実力を有する器用の仁でした。よって、本来駿河衆に対置させるべきは尾張衆であるべきなのですが、尾張国を事実上「管領」する程の実力を保有し、「威勢前代未聞」であるが故に、弾正忠は駿河衆と固有名詞で対置できる存在になっている旨が、書状に記されているという解釈も成り立つでしょう。

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「尾」と「弾正忠」が使い分けられていると考えるなら、以下の部分の解釈も変わってきます。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷様二物語候、其謂ハ駿と間を見あはせ候て、
種々上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、

 この部分を論文においては、以下のように訳されております。

〇論文より引用(下線は拙稿にて付記)
(かの楞厳坊が申し来るところでは、鵜殿氏にとってめぐりあわせはよろしくないという。それというのも、
鵜殿はかねて織田今川の力関係を見計らって、両者との外交で上手に立ち回っておいでであったが、
このたび思いのほか今川軍敗戦という事態になってしまい、織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでも
ないと(「一段ノ曲なく」)お思いとの事だ。

 鵜殿氏が外交を行っていたのは「尾」、つまり守護斯波義統周辺でそちらに対しては、「種々上手」ができていました。三河国人鵜殿氏にとって与し易い相手だったはずの「尾」を、いつの間にか「弾正忠」信秀が管領し、駿河衆を「敗軍」に追い込んだために、鵜殿氏の外交相手が信秀になってしまったという解釈もまた考慮に入れるべきではないかと考えます。

 後世の我々から織田信秀を見るなら、彼は天下人織田信長の父親であり、織田信長が天下統一の手始めとして尾張国を掌握するための基礎を用意した人物です。しかし、同時代人の日覚にとってはどうでしょう。日覚は尾張国守山に出生したと論文にありますが、その当時の織田弾正忠家は尾張西部の勝幡と津島湊の差配を任された程度の領地規模で、その当時は織田信定(月巌)あたりのことだったでしょう。それ以前には弾正忠家は津島まで到達しておりません。織田信定が津田湊を手に入れたのは永正十三年頃です。大永七年に三河松平氏の松平信定が織田信定の娘(信秀の姉妹)を娶って守山に館を建てて、日覚の故地と織田信秀との縁はできましたが、その当時信秀はまだ家督を継いでおりません。

 織田信秀が家督を継いだのは天文初年前後あたりと承知しております。津島は木曾三川の河口にあり、対岸には伊勢国桑名という栄えた港町があったのですが、津島から桑名へ向かうには途中長嶋や荷之上など本願寺教団が拠点を置いた輪中をかすめながら舟を向かわせなければなりませんでした。その本願寺教団は天文初年ごろに畿内で幕府と戦争を起こしております。織田信秀としては津島・桑名ルートとは別のルートを開拓する必要が出てきて、今川氏豊のいる那古野城を占領し、熱田湊を傘下に加えました。那古野城は吉法師(信長)に与えて、自らは那古野と熱田の中間地点にある古渡に城を築いて拠点とします。そして守山には織田信広(信長の庶兄)を置きます。この頃守山には松平清康が軍を率いて進駐していたものの、間もなく自壊します。信秀は兵を三河まで送りますが、この時の出兵は守護や守護代の命令で松平清康死後の松平家の後始末をしたものと思われます。津島と熱田の両湊を押さえることにより織田弾正忠家の家勢は大いに上がり、伊勢外宮の建て替えや禁裏御所修繕に独自で献金を行って、ついには(頼み勢ではあるものの)美濃・三河に外征を行えるほどの威勢を示します。

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 日覚から見れば、ついこの間まで湊の管理人だった信秀がいつの間にか、駿河太守の今川家と対等に尾張の兵力を思いのままに動かしているように見えるほどになった訳ですね。その威勢を日覚が「(尾張)一国管領」「前代未聞」と表現したとしても、それは理解しうるのではないでしょうか。

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2017年5月20日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第2節の論点抽出:日覚の弾正忠三河侵攻情報はあてになるか?

 本稿は論文第2節:「織田信秀の三河侵攻情報の信憑性」について考察する物です。

論文においては、「菩提心院日覚書状」の三河関連情報について、原文と論文の著者による現代語訳がつけられております。以下その引用です。(実際は原文の段落毎に逐次解説が入っておりますが、まとめております)

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の現代語訳 論文より引用(〇数字と(a)は拙稿にて挿入・抽出論点を赤字で表記)

三河では駿河衆が敗戦したらしく、弾正忠がひとまずは一国を押さえている。
その威勢はいまだかつてない程度であるように取り沙汰されている。

かの楞厳坊が申し来るところでは、鵜殿氏にとってめぐりあわせはよろしくないと言う。
それというのも、鵜殿はかねて織田と今川の力関係を見計らって、両者との外交で色々上手に立ち回って
おいでであったが、このたび思いの外今川軍敗戦という事態になってしまい、

②織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想をするまでもないと(「一段の曲なく」)お思いとのことだ。
楞厳坊が「恐らく今こんにちの時点では、はや鵜殿の城に織田が攻め入っているかもしれない」と言うから、
あまりにも心許なく思われるので、近日のうちに心城坊を鵜殿のもとに差し遣わすつもりである。

(a)岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、
その翌日に京に上った。
④楞厳坊の在京中に信秀の上京という良いついでが重なり、
このように楞厳坊が聞きつけて情報をよこしてくれた。
鵜殿に万一のことがあれば、当門流にとって痛手であり、体面上も実質においても残念な事態である。

 上記訳に付随した解説を簡略にまとめると以下のようになります。

 駿河衆を破り前代未聞の勢いの弾正忠こと、①織田信秀は三河一国を支配している。(a)織田信秀は岡崎城主松平広忠を降伏させて、③上洛してきた。織田信秀は日覚が属する日陣門流檀徒である②鵜殿氏について、もはや愛想をするまでもないと言っている。京には日覚と同門である日陣門流の楞厳坊がいてこの話を聞き付けて知らせた。この話は全部伝聞情報なのだが、日覚には尾張・三河地方とのコネクションをもっているので、史実である蓋然性は高い。

①弾正忠が管領する一国とはどこか?
 論文中では、一国とは三河国であると断定していますが、この一国とは信秀が自らが属する尾張国のことを言っている可能性について、考察してみます。
 その根拠として、現代語訳で「織田と今川の力関係」となっている箇所が原文では「尾と駿と間を見合わせ候て」となっている点を挙げておきます。

②弾正忠は鵜殿のことを「一段の曲な」しとお思いになったのか?
 現代語訳文の主語について考察いたします。論文では弾正忠が鵜殿に愛想をするまでもないと思ったとしていますが、敬語の使い方等から逆に鵜殿が弾正忠のことを交渉相手としては愛想のないものと思っているという解釈が成り立つかどうか考察いたします。

③弾正忠は上洛したのか?
 ここは論文においても、織田信秀上洛を示す他の史料は見当たらないと言及されていますが、別解が成立しうるかどうか、自分なりに考えてみます。

④楞厳坊は誰からどんな情報を仕入れたと言っているか?
 論文では上洛した織田信秀についての噂を、同じく楞厳坊が聞きつけて越中にいる師の日覚に伝えた態であるとかいています。察するに鵜殿云々は織田信秀が三河で駿河衆を敗軍に追い込んだという情報から、同じく三河国人である鵜殿氏への影響を心配した、という読み方をされているのでしょう。その読み方が果たして正しいかどうか、検証を試みます。

(a)岡崎の降参について
 これについては、論文の第5節において考察がされていますので、ここでの論点とはせず、そこでまとめて考えてゆきたいと思います。

⑤第2節の結論

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の原文 愛知県史 資料編14より引用

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜

 次第候、

※愛知県史は□部分を以下の通り補足
 □□許存候⇒無心許存候(心許なく存じ候)
 心□坊⇒心城坊

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2017年5月14日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?

 本稿は論文第1節:「日覚書状の年代比定」について考察する物です。

 論文が日覚書状の年代を1547年(天文十六年)としている根拠は書状冒頭にある以下の文言にあります。

〇論文より引用
京都ハ山門と和議やらんの様になり候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、
入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる□□候、本禅にも負物過分に候

(拙訳)
京都は山門(延暦寺)と和談がなったようです。それにより安心して勤行してよいと法華諸宗に仰せつけがあったということです。当宗(陣門法華宗、日覚の属する法華宗の流派)については入洛次第ということですが、過分な代価を負わされました。これほどになるとは□□です。本禅(本禅寺。陣門法華宗の京都の拠点)にも負担が過分に仰せつけられています。

 ここに書かれている「和議」が1547年(天文十六年)六月十七日に六角家家臣進藤貞治・平井高好を仲介に延暦寺三院執行代と洛中法華の本能寺・妙顕寺・本国寺三ヶ寺及び諸寺代との間に結ばれた和議であり、その条件として「日吉祭礼料百貫文の納付」があるのを日覚書状で「過分に代物を仕候而、これほとにも成たる」に比定しうる旨、根拠としています。
 私自身はこの比定は妥当なものと思っております。

 この和議が結ばれた1547年(天文十六年)は管領の立場にある細川晴元は京におりませんでした。上洛してきた細川氏綱派の上野元治への対応をめぐって足利義晴と対立して京を脱出。河内の遊佐長教に対抗する為に丹波経由で摂津に下っております。一方の足利義晴も六角定頼を管領代に任じ、京の町衆を動員して京の北白川に勝軍山城を建てさせております。そして城ができるとそこに立て籠って細川氏綱支持を打ち出したりするのでした。その間に結ばれた和議でしたが、細川晴元はすぐに京に戻ると六角定頼は細川晴元に寝返り、足利義晴は朽木に脱出してしまいます。

 日覚が書状を出した時点である九月二十二日時点では細川晴元方についていた三好長慶は舎利寺合戦で遊佐長教ら細川氏綱党に打撃を食らわせ、足利義晴も打つ手なしで京に戻るしかない状況でした。

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 細川晴元がその気であれば、いつでも第二次天文法華の乱を起こせるような流動的な状況でした。ちなみに洛中法華の総代となった本能寺・妙顕寺・本国寺の三寺は和議の時点で堺にいます。その他教団は後奈良天皇の勅諚もあってフライング帰洛し、洛中城砦内に寺地を確保しておりました。日覚の属する陣門法華もフライング帰洛組の中では最速の一つでしたが、本格的な復興には天文法華の乱のきっかけとなった延暦寺とのいさかいの決着を待たねばならなかったものではなかったでしょうか。

 この論文の見解に対して国家鮟鱇ブログの鮟鱇氏は興味深い見解を出されています。2015年7月12日の記事「菩提心院日覚書状について(その2)」において、これは1547年(天文十六年)ではなく、1542年(天文十一年)ではなかったかと。その年は第一次小豆坂合戦があったとされ、法華宗徒を赦免した後奈良天皇の綸旨、いわゆる「還住勅許」が発せられた年でした。
 但し、鮟鱇氏もお気づきになっているとおり、後奈良天皇の綸旨は1542年(天文十一年)の十一月十四日であり、日覚書状に記載されている日付、九月二十二日よりも後、ということになって時系列的には苦しい。こっそり戻ってきている連中はいたとしても、勅許が出る以前は大手を振って京の町を歩ける立場にはありませんでしたので、延暦寺との和談の主体となる法華宗寺院の代表者がどこにいてどんな交渉をしたのか、手掛かりが必要になるでしょう。

 ただ、八月にあったとされる小豆坂合戦の情報についても、九月の書状に盛り込むことが可能なはずであり、それによって日覚書状が言う所の「駿州敗軍」の内容として、論文に書かれている岡崎攻略や、大浜攻撃、そして田原城の攻防よりも、そのように書かれるに相応しい内容であると考えることができます。ただ、その説を立証するためには逆に「天文十一年」の延暦寺との和談について、何らかの史料を示す必要があるだろうと思います。しかし、本件を含む菩提心院日覚書状及び北条氏康書状についての考察で提起された着想には、「小豆坂合戦天文十六年」の可能性を考えるにあたり大きな示唆をいただきました。


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2017年5月13日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ まえがき及び参考文献

 ここ数年になるのでしょうか、素人歴史趣味人にとってのネットワークで検索可能な歴史関連記事の充実ぶりは目を見張るものがあります。以前はWikiPediaで歴史事件を調べても検索のヒット率は低く、内容も非常に薄いものしか掲載されておりませんでしたが、現在においてはWikipedia記事もかなり細かい事象にまで及んでおります。もちろん、Wikipediaの利用については、裏取りを行うことが大原則なのですが、その他にも国立国会図書館のデジタルコレクションと国立公文書館のデジタルアーカイブが充実度を増したことが大きいです。これによって、歴史学者の論文が引用している一次史料と二次史料を直接確認することが出来ます。とは言え、旧かな遣いや変体仮名、崩し字の判読には相当てこずるものですが。そんな事情もあって以前は図書館が唯一の頼みの綱だった歴史の勉強の情報源もかなり充実するようになりました。歴史関連情報のオンライン化に尽力された方々の努力に感謝したいと思います。

 本編は、以前に拙ブログの「安城合戦編」で取り上げました北条氏康書状並びに2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に掲載された村岡幹生教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」(以下、本編においては「論文」と呼称統一します)について再検討するものです。具体的な進め方としては論文の各節において提起されている論点を抽出し、論点の根拠史料を調べて理解を深めると同時に反証史料の存在と別解の可能性を探ってゆくというスタイルをとってゆきます。もとより同論文がネットで公開されているとは言え、本編では著作権法上慣行として許されている引用の範囲内での言及にとどめますので、本編の読者は当該論文をあらかじめ読んでいることを前提とさせていただきます。論文へのアクセスについては、論文名と著者名で検索いただき、そこからJIRO(Japanese Institution Repositories Onlie)のサイトに入れば読むことが出来ます(2017年5月現在)。

 論文については以前拙稿にて感想を述べさせていただきましたが、その後で時間をかけて咀嚼する中で、学べたことはたくさんありました。未だに理解が進んでいない部分もない訳ではないのですが、改めて論文を公開の場に掲載いただいたことに感謝いたします。また、本編においては過去記事から現時点までの間に私自身の認識が変わっている部分もありますので、ご容赦ください。

 取り進め方としては、基本的に論文の論旨に沿った論点を拾ってゆくものの、途中色々余談や脱線を搦めながら進める予定です。とは言え、論文の検証を通して本編では何を示したいのかについては、ここで明確にしておきます。それは論文が菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」というフレーズから織田信秀の岡崎攻落を論証して見せたことの別解として、同じ日覚書状の「駿河衆敗軍」というフレーズから同書状が書かれた天文十六年に第一次小豆坂合戦が起こった可能性を検証してみる事、です。第一次小豆坂合戦は拙ブログの過去記事でまぼろしとしましたが、日覚書状の存在によってそのまぼろしが史実になるかもしれないという感触がないわけではないのですね。この件につきましては本編の結論部分で提起するつもりですが、よろしければ最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

[論文「織田信秀岡崎攻落考証」の章立て]
 第1節:日覚書状の年代比定
 第2節:織田信秀の三河侵攻情報の信憑性
 第3節:織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書
 第4節:北条氏康書状の史料批判
 第5節:北条氏康書状が述べる三河情勢の検討
 第6節:松平広忠降参情報の信憑性
 第7節:小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向
 第8節:松平広忠の病死
 最終節:おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―

[参考資料]
〇織田信秀岡崎攻落考証 村岡幹生著 2015年3月15日 Japanese Institution Repositories Onlie掲載
〇三河松平一族 平野明夫著 新人物往来社刊
〇織田信長の系譜 織田信秀の生涯を追って 横山住雄著 教育出版文化協会刊
〇新編安城市史2 通史編 原始・古代・中世 安城市史編集委員会編集 安城市発行
〇新編安城市史5 資料編 古代・中世 安城市史編集委員会編集 安城市発行
〇愛知県史 資料編10 愛知県史編さん委員会編集 愛知県発行
〇愛知県史 資料編14 愛知県史編さん委員会編集 愛知県発行
〇戦国遺文 今川氏編 第二巻 東京堂出版刊
〇信長公記 太田牛一著、桑田忠親校注 新人物往来社刊
〇原本現代語訳 三河物語(上)大久保彦左衛門忠教著、小林賢章訳 教育社刊
〇内閣文庫所藏史籍叢刊 特刊第1-[1] 朝野旧聞ほう藁 汲古書院刊
〇古証文(和学講談所旧蔵本) 編者未詳 国立公文書館デジタルアーカイブ
〇古証文(旧蔵所不明本)   編者未詳 国立公文書館蔵書
〇古証文(大久保酉山旧蔵本) 編者未詳 国立公文書館蔵書
〇寛永諸家系図伝(献上本)太田資宗・林羅山編纂  国立公文書館デジタルアーカイブ
〇寛永諸家系図伝(草稿本)太田資宗・林羅山編纂  国立公文書館蔵書
〇寛政重修諸家譜 堀田正敦編 続群書類従完成会刊
〇難波戦記 万年頼方、二階堂行憲著 国会図書館デジタルコレクション
〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 影印 第4巻 酉山蔵書目録 函別編 朝倉治彦編 ゆにま書房
〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 影印 第5巻 酉山蔵書目録 分類編 朝倉治彦編 ゆにま書房
〇日蓮宗と戦国京都 河内将芳著 淡交社刊
〇増訂近世古文書【解読辞典】 林英夫監修 柏書房刊
〇信長と家康―清須同盟の実体 谷口克広著 学研新書
〇天下人の父・織田信秀 谷口克広著 祥伝社新書
〇常山紀談[本多忠豊・忠高戦死記事] Wikipedia[柳営秘鑑の項]に掲載
〇柳営秘鑑[本多忠高戦死記事] Wikipedia[柳営秘鑑の項]に掲載
〇風雲児たち みなもと太郎著 潮出版刊
〇国家鮟鱇(ブログ)[菩提心院日覚書状・北条氏康書状関連記事]
〇岡崎市史別巻-1 徳川家康と其周囲 上巻 柴田 顕正編纂 岡崎市発行
〇日本書紀上 巻一神代[上]~巻十応神天皇 小学館刊
〇家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像 日本歴史資料研究会監修、平野明夫編集 歴史新書y刊

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