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2017年5月14日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?

 本稿は論文第1節:「日覚書状の年代比定」について考察する物です。

 論文が日覚書状の年代を1547年(天文十六年)としている根拠は書状冒頭にある以下の文言にあります。

〇論文より引用
京都ハ山門と和議やらんの様になり候而、心安勤行をも諸法花共ニせられ候よし候、当宗の事、
入らく次第の事にて候、過分に代物を仕候而、これほとにも成たる□□候、本禅にも負物過分に候

(拙訳)
京都は山門(延暦寺)と和談がなったようです。それにより安心して勤行してよいと法華諸宗に仰せつけがあったということです。当宗(陣門法華宗、日覚の属する法華宗の流派)については入洛次第ということですが、過分な代価を負わされました。これほどになるとは□□です。本禅(本禅寺。陣門法華宗の京都の拠点)にも負担が過分に仰せつけられています。

 ここに書かれている「和議」が1547年(天文十六年)六月十七日に六角家家臣進藤貞治・平井高好を仲介に延暦寺三院執行代と洛中法華の本能寺・妙顕寺・本国寺三ヶ寺及び諸寺代との間に結ばれた和議であり、その条件として「日吉祭礼料百貫文の納付」があるのを日覚書状で「過分に代物を仕候而、これほとにも成たる」に比定しうる旨、根拠としています。
 私自身はこの比定は妥当なものと思っております。

 この和議が結ばれた1547年(天文十六年)は管領の立場にある細川晴元は京におりませんでした。上洛してきた細川氏綱派の上野元治への対応をめぐって足利義晴と対立して京を脱出。河内の遊佐長教に対抗する為に丹波経由で摂津に下っております。一方の足利義晴も六角定頼を管領代に任じ、京の町衆を動員して京の北白川に勝軍山城を建てさせております。そして城ができるとそこに立て籠って細川氏綱支持を打ち出したりするのでした。その間に結ばれた和議でしたが、細川晴元はすぐに京に戻ると六角定頼は細川晴元に寝返り、足利義晴は朽木に脱出してしまいます。

 日覚が書状を出した時点である九月二十二日時点では細川晴元方についていた三好長慶は舎利寺合戦で遊佐長教ら細川氏綱党に打撃を食らわせ、足利義晴も打つ手なしで京に戻るしかない状況でした。

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 細川晴元がその気であれば、いつでも第二次天文法華の乱を起こせるような流動的な状況でした。ちなみに洛中法華の総代となった本能寺・妙顕寺・本国寺の三寺は和議の時点で堺にいます。その他教団は後奈良天皇の勅諚もあってフライング帰洛し、洛中城砦内に寺地を確保しておりました。日覚の属する陣門法華もフライング帰洛組の中では最速の一つでしたが、本格的な復興には天文法華の乱のきっかけとなった延暦寺とのいさかいの決着を待たねばならなかったものではなかったでしょうか。

 この論文の見解に対して国家鮟鱇ブログの鮟鱇氏は興味深い見解を出されています。2015年7月12日の記事「菩提心院日覚書状について(その2)」において、これは1547年(天文十六年)ではなく、1542年(天文十一年)ではなかったかと。その年は第一次小豆坂合戦があったとされ、法華宗徒を赦免した後奈良天皇の綸旨、いわゆる「還住勅許」が発せられた年でした。
 但し、鮟鱇氏もお気づきになっているとおり、後奈良天皇の綸旨は1542年(天文十一年)の十一月十四日であり、日覚書状に記載されている日付、九月二十二日よりも後、ということになって時系列的には苦しい。こっそり戻ってきている連中はいたとしても、勅許が出る以前は大手を振って京の町を歩ける立場にはありませんでしたので、延暦寺との和談の主体となる法華宗寺院の代表者がどこにいてどんな交渉をしたのか、手掛かりが必要になるでしょう。

 ただ、八月にあったとされる小豆坂合戦の情報についても、九月の書状に盛り込むことが可能なはずであり、それによって日覚書状が言う所の「駿州敗軍」の内容として、論文に書かれている岡崎攻略や、大浜攻撃、そして田原城の攻防よりも、そのように書かれるに相応しい内容であると考えることができます。ただ、その説を立証するためには逆に「天文十一年」の延暦寺との和談について、何らかの史料を示す必要があるだろうと思います。しかし、本件を含む菩提心院日覚書状及び北条氏康書状についての考察で提起された着想には、「小豆坂合戦天文十六年」の可能性を考えるにあたり大きな示唆をいただきました。


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