« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。 »

2017年6月 3日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?

 弾正忠三河平均の翌日に上洛という解釈は状況的に難しいとすれば、日覚書状の解釈に問題があるはずです。であれば、別解としてどのようなものが考えられるでしょうか。次のセンテンスが問題の部分です。

〇論文より引用
弾ハ三州平均、その翌日ニ京上候
(中略)
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、その翌日京に上った。

 当時の書状に句読点は基本的に打たれることはありませんし、そのことは愛知県史資料編14巻頭の菩提心院日覚書状原文写真で確認できます。

〇愛知県史資料編14 巻頭菩提心院日覚書状原文写真より引用
弾ハ三州平均其翌日ニ京上候

 弾正忠の上洛がないことを前提に強いて読み下すなら、以下のような感じになるのでしょうか。
→弾は(「弾が」の誤記?)三州平均せしその翌日に(日覚の弟子たちが)京に上り候

 楞厳坊らが京にいたこと自体は論文が日覚書状を引用しつつ「「此の十日計己前ニ京都より」、筆者日覚のもとに罷り下った彼の弟子である楞厳坊並びに厳隆坊がもたらした(「厳隆坊にも同心にて候」)、京都における「其沙汰」すなわち、うわさ、評判である。」と言及しております。
 織田信秀が上洛していないとするなら、上洛したのは厳隆坊又はその他の陣門法華派の僧侶とは考えられないでしょうか。楞厳坊も十日+α日前には京都にいたことは書かれていますが、それ以前の事は書かれていません。楞厳坊が京都にいて地方檀徒の情報を取りまとめて日覚に届ける役目を負っていて、その事情が越後にある陣門法華総本山の本成寺との間で共有されていた。そしてその情報共有は定期的になされていたとすれば、わざわざ書状にその事情が書かれることもないでしょう。

 論文では三河で駿河衆を撃破し、松平広忠を降参させた織田信秀が上洛した噂が京に流れ、そのうわさを聞き付けた楞厳坊達が鵜殿氏の事を心配して越中菩提心院の日覚の元に訪れたことになっています。
 しかし、肝心の日覚書状の論旨の並びは以下のようになっているのですね。

①織田信秀が駿河軍を敗軍させ、三河の支配者の様になっているというニュース
②京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
③楞厳坊は、鵜殿氏を心配。
 情勢の変化で信秀は鵜殿氏の事を愛想するまでもないと思っている。
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤信秀が広忠を降参させて三河を平均した翌日、織田信秀が上洛
実は①~⑤は京の楞厳坊が織田信秀周辺から聞いた情報だったのだ。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 以前にも書いたのですが、⑥の部分があるせいで全体の流れが推理小説みたいになっています。もし論文の通りの解釈で日覚書状を再構成するなら以下の並びになるのが自然かと私は思います。

①織田信秀上洛
②京では信秀がもたらした三河の情報で持ち切りで、楞厳坊がその話を聞いた。
③三河支配者織田信秀が駿河軍を敗軍させたニュース
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤③~④の結果、鵜殿氏がピンチである。
⑥京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 上記のように時系列の流れで書くべきでありましょう。では、原文の並びで意味がスッキリ通るようにするにはどうすればよいか。前稿で提示している別解も拾いながら展開すると以下のようになるかと思います。

尾張支配の代行者である織田信秀が駿河軍を敗軍させたニュース
②京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
③楞厳坊は、鵜殿氏を心配。
 鵜殿氏は「尾」(斯波家又は周辺)とはうまくやれていたが、「弾」(信秀)は愛想なしと思っている。
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤④及び、織田信秀が三河を平均した翌日、厳隆坊or門流の坊主が三河情報をもって上洛。
⑥事態の重要性を京にいた楞厳坊も認識。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 論文の解釈と私の解釈との違いは織田信秀の扱いにあると感じています。論文の解釈においては織田信秀は駿河衆に戦争で勝っただけではなく、その戦果を上洛して喧伝しています。そして、檀越である鵜殿氏の事が気になって仕方ない陣門法華宗徒に聞こえるように鵜殿には愛想をするまでもないと親切にも噂を流して回っています。まぁ、このあたりは鵜殿氏の事が気になって仕方のない楞厳坊の憶測なのかもしれません。
 論文では日覚の尾張情報のコネクションを書き連ねてあるのですが、情報を聞き付けてきた楞厳坊と信秀との間のコネクションについては、日覚の手紙にも、論文にも記されていません。しかし、日覚と鵜殿氏との関係については、手紙でも、論文でも言及されているのです。だとするならば、日覚書状の三河情報の出所は、鵜殿と考えるのが自然ではないかと思います。

|

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/65303797

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?:

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。 »